魔女見習いと影の獣
 モーセルによって地底に封じられた暗黒。
 光に属する四大精霊とは真逆の性質を持つ彼らも、根本的な在り方は同じなのだろう。
 彼らは人間の血肉を、心臓を、魂を好む。
 精霊術とは世界の均衡を崩さぬまま、好物の人間を喰らうことのできる唯一の術だった。だからこそ彼らは人間の召喚に応じ、願いを叶える。
 全ては極上の肉を得るために。

「──……何だ。やはり逃げてしまったのかい、オーレリア」

 口を開けた巨大な蛇を模した石像。その下に聳える祭壇には異様な光景が広がっていた。
 二頭蛇の杖を携えたダグラスは、長く先細った階段の上に腰掛けている。しかしてその顔や手足には、大きく膨らんだ黒い気泡がまとわりつき、彼が喋るたびにぼこぼこと音を立てた。
 辛うじて露わになっている左の顔面は、忌々しげな笑みに歪んで、リアを睨み下ろす。

「また失敗か。今回はヘルガに会えると思ったんだがね」

 独り()つ男の腕を、蠢く影が溶かし喰らう。
 捕食されていく人間の姿にエドウィンが息を呑む傍ら、同じく言葉を失っていたリアが一足先に我に返った。

「私が贄にならなかったから、代償が術師に跳ね返ったんだわ」

 決して叶わぬ願いの実現を望んだ代償。
 否、罰と称すべきだろう。ダグラスはその身を捧げることで、贖い切れぬ罪をすすがねばならなかった。
 加えて──神聖時代の聖遺物を操った反動が如何ほどのものか、リアには想像も付かない。
 もはや魂まで食い尽くされるのを待つしかないと思われたが、ダグラスはふと場違いな笑みを浮かべる。

「ああ……贄を勝手に連れ戻したのは君か。全く邪魔な男だね」
「……ダグラス・カーヴェル。十七年前にバザロフの遺跡でこの剣が抜かれ、影の精霊が眠りから目覚めたのも……貴殿の仕業だったのですね」

 エドウィンが確かめる声音で告げれば、ざわりと影が動く。
 闇に燦然と輝く星涙の剣は、獅子の影獣と化した初代大公ハーヴェイを精霊ごと遺跡に封印していたものだ。死者蘇生の術を求めて彷徨っていたダグラスは、影の精霊を目覚めさせるべく台座から剣を引き抜いたが──オルブライト家の人間が見初められていたばかりに、その力を借り受けることが叶わなかったのだろう。
 しかしながら数奇な運命とでも呼ぶべきか、その呪縛はリアとエドウィンが出会ったことをきっかけに解かれ、ダグラスに再び好機が巡ってきた。
 彼は狂喜したに違いない。影の精霊と贄が揃ったなら、必ずヘルガが蘇ると。

「どこで間違えたのやら。君は真っ先に、キーシンの蛮族にでも始末させるべきだったかな」
「生まれたばかりの赤子を贄にしようとした時点で、貴殿は人の道を踏み外していた」

 それこそが最大の過ちだと、エドウィンは濁すことなく言い放った後で、少しばかり腑に落ちない表情で付け加えた。

「……精霊術で人を傷付けることを躊躇わない貴殿なら、いつでも僕を殺せたはずでしょう。何故そうしなかったのです」

 またひとつ影がざわめいたところで、唐突に笑みを消したダグラスは、影を纏わりつかせたまま勢いよく身を乗り出した。

「ああ、ああそうだ。やはり殺してやるべきだった。私と君は同じなのだよ、エドウィン・アストリー。私が手を下さずとも、愛し子は前触れもなく消えるぞ。どこにもない彼女の面影を追って、屍人のように彷徨い続けるのが私たちの定めだ!」

 凝縮された絶望が悲鳴を上げる。膨れ続ける影はとうとうダグラスの姿を丸呑みにしてしまうと、心臓のように大きく律動を繰り返した。
 途方もない重圧が耳鳴りを引き起こし、渦巻く風も相まってリアの体がよろめく。その肩をしっかりと抱き寄せられたかと思えば、鋭く前を見据える横顔がそこにあった。


「そうならないように、ここまで来たのです。この先も、リアと生きるために」


 決意を乗せた静かな声が、猛る影の水面に響き渡る。
 エドウィンの周りを通り過ぎようとした影獣の一部が、ふと彼に気を引かれた様子で立ち止まる。その些細な変化に気付いたのはリアだけだったのか、次の瞬間には祭壇の上から獰猛な咆哮が上がった。
 弾かれるようにして見れば、ダグラスが奇怪な影獣と化して唸っている。狼か、鶏か、猿か、悩ましくどろどろと形を変えながら、やがて影の内側から無数の棘のようなものが突き出す。
 それが乱雑に再現された人間の手足であると知ったときには既に、影の獣が奇声と共に階段を転がり落ちてきていた。

「リア、下がって」
「……っだ、大丈夫」

 すぐにエドウィンが星涙の剣を構える傍ら、不気味な影獣に圧倒されてしまったリアは気合を入れるように頬を叩き。
 凄まじい速度で迫る影に対抗すべく、ナイフで髪を切り落としたのだった。

「──凪に燃ゆる裁きの紅炎よ。我に光を与えたまえ!」
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