魔女見習いと影の獣
四つ足の影獣に導かれて歩く間、エドウィンは決して手を離さなかった。
モーセルの杖を胸に抱いたリアは、わけもなく溢れる涙を袖口で拭いながら、温かな手を頼りに歩を進める。洞窟の中に蔓延っていたはずの影は息を潜め、二人が通り過ぎる様をただじっと見送った。
時折こちらを窺うように振り返る影の獣は、視界が段々と明るくなるにつれて足を速めていく。茜色の夕日が前方から強く射し込めば、もはや案内は必要なかった。
「あ……」
そこに広がっていたのは森ではなく、どこか見覚えのある黄金の花畑だった。
地平線に沈む入日影が、一面に咲き乱れる菜の花をより鮮明に彩る。ひんやりとした風が吹き抜けて、水面のように波打つ黄色に、リアは暫し見入ってしまう。
「ここは……帝都の東側ですね」
エドウィンの呟きに釣られて、ふと後ろを振り返る。通ってきたはずの暗い洞窟はどこにも見当たらず、西日に照らされた細い林道が伸びるのみ。
優しく手を引かれて花畑の方へ踏み出せば、簡素な敷石が進む道を示してくれた。
よく見れば菜の花の影に隠れて、あの小さな影獣がエドウィンの横をひょこひょこと歩いている。彼に構って欲しそうな素振りで尻尾を揺らしていたのだが、リアの視線に気付いてはしゅるりと消えてしまった。
そうこうしているうちに、二人は花畑の端まで到達する。切り立った崖の下、整備された街道と夕日に焼けた草原を辿っていくと、美しいクルサード帝国の都が見えた。
「リア」
広大な景色を心有り顔に眺めていれば、菜の花の陰に隠れていた切り株に座るよう、エドウィンから促される。
素直に腰を落ち着けるや否や、左手を掬われ、深々と切り付けた手のひらを晒された。血は乾いているようだが──先程から頭がぼんやりしているのは、一連の出来事だけが原因ではなさそうだ。
傷口がエドウィンの手巾によって覆われた後、不意に彼が頬を撫ぜる。ずっと伏せていた瞼を持ち上げれば、黄昏の光を湛えた瞳がリアを見詰めていた。
「……歩けますか」
真摯な問いに少しの間を置きながら、リアは小さく頷いた。
胸にぽっかりと空いた穴。そこに一体何が詰まっていたのか、何を喪った気でいるのか、彼女には見当もつかない。
遺された指輪を握り締めて、エドウィンに手を伸ばす。そのまま空虚な穴を埋めるように抱き付けば、彼は頼りない体を力強く包み込んでくれた。
「一緒に歩いて、エドウィン」
「はい」
「私もいつか、何も言わずに消えちゃうかもしれない。でも」
「ええ、それでも構いません。僕はあなたと一緒に歩きたい。それに……その日が来ないよう足掻くのは得意なんです」
彼が苦笑交じりに言う。どういう意味かと顔を離せば、宥めるような笑みでエドウィンが額を突き合わせた。
「自分がいつ死ぬかなど誰にも分かりません。戦場で命を落とすのも、精霊に見初められてしまうのも僕にとっては同じです。エルヴァスティでも言うでしょう? 『全ての事象は精霊によって引き起こされる』と」
だから、と彼は抱き締める腕を強めた。
「──そこには必ず抗う術が存在すると、信じています」
人の生死を間近に感じながら、エドウィンは守るべき民や家人のため剣を振るってきた。そしてそれは勿論、自分自身が戦場を生き残るためでもあった。
幾度の死に目を乗り越えてきた彼の言葉は、精霊に抗う術を持たぬ愛し子へ、一縷の希望を提示する。
「あなたがこの先も長く生きられる方法を、例え一生かかっても探します。もしかしたら、彼らも力を貸してくれるかもしれないから」
「え……」
エドウィンがゆるやかな笑みを向けた先、二人の陰にはいつの間にか影獣がちょこんと座っていた。
今日に至るまで、愛し子の血を好む四大精霊を退けられるのは、エルヴァスティで育つ弑神の霊木しかないと考えられてきた。だが──相反する力を有する影の精霊が現れ、それを従えてしまった青年がここにいる。
リアは暫し目を瞬かせた後、拍子にこぼれた涙はそのままに微笑んだ。
「……そうね。頑張らなきゃ」
影の精霊は、これから生まれてくる愛し子たちを救えるかもしれない。今までは成し得なかった新たな術を確立させれば、きっと。
そのためには立ち止まっている暇などないだろう。これは自分のためだけではなく、同じ宿命を背負った人々の未来を繋げる、大切な一歩だ。
「……リア」
「なに──」
ふと近付いた吐息に、リアは反射的に目を瞑る。その後すぐ、左耳にきゅっと何かを嵌められたことで瞼を押し開いた。
確かめてみれば、紫水晶の小さな飾りが指先で軽やかに揺れる。
「あっ、これ失くしちゃったかと……!」
「皇宮に落ちていたので拾っておいたんです。期待通り助けてくれました」
二人は顔を見合わせると、自然と穏やかな笑みをこぼした。そしてどちらともなく手を握っては、切り株から腰を上げる。
「ねぇエドウィン」
「はい?」
「あなたに会えて良かった。精霊の導きも、捨てたもんじゃないわね」
落日の輝きを背に、菜の花の娘は美しく笑う。
彼はその姿に目を眇めては、やがて応じるように微笑み、ふと背を屈める。
引き合うように重ねられた唇は、花びらが肌をやわく撫でるのに似ていた。一瞬の驚きと、それを上回る熱と胸の締め付けに溺れそうになりながら、リアは静かに瞼を閉じたのだった。
モーセルの杖を胸に抱いたリアは、わけもなく溢れる涙を袖口で拭いながら、温かな手を頼りに歩を進める。洞窟の中に蔓延っていたはずの影は息を潜め、二人が通り過ぎる様をただじっと見送った。
時折こちらを窺うように振り返る影の獣は、視界が段々と明るくなるにつれて足を速めていく。茜色の夕日が前方から強く射し込めば、もはや案内は必要なかった。
「あ……」
そこに広がっていたのは森ではなく、どこか見覚えのある黄金の花畑だった。
地平線に沈む入日影が、一面に咲き乱れる菜の花をより鮮明に彩る。ひんやりとした風が吹き抜けて、水面のように波打つ黄色に、リアは暫し見入ってしまう。
「ここは……帝都の東側ですね」
エドウィンの呟きに釣られて、ふと後ろを振り返る。通ってきたはずの暗い洞窟はどこにも見当たらず、西日に照らされた細い林道が伸びるのみ。
優しく手を引かれて花畑の方へ踏み出せば、簡素な敷石が進む道を示してくれた。
よく見れば菜の花の影に隠れて、あの小さな影獣がエドウィンの横をひょこひょこと歩いている。彼に構って欲しそうな素振りで尻尾を揺らしていたのだが、リアの視線に気付いてはしゅるりと消えてしまった。
そうこうしているうちに、二人は花畑の端まで到達する。切り立った崖の下、整備された街道と夕日に焼けた草原を辿っていくと、美しいクルサード帝国の都が見えた。
「リア」
広大な景色を心有り顔に眺めていれば、菜の花の陰に隠れていた切り株に座るよう、エドウィンから促される。
素直に腰を落ち着けるや否や、左手を掬われ、深々と切り付けた手のひらを晒された。血は乾いているようだが──先程から頭がぼんやりしているのは、一連の出来事だけが原因ではなさそうだ。
傷口がエドウィンの手巾によって覆われた後、不意に彼が頬を撫ぜる。ずっと伏せていた瞼を持ち上げれば、黄昏の光を湛えた瞳がリアを見詰めていた。
「……歩けますか」
真摯な問いに少しの間を置きながら、リアは小さく頷いた。
胸にぽっかりと空いた穴。そこに一体何が詰まっていたのか、何を喪った気でいるのか、彼女には見当もつかない。
遺された指輪を握り締めて、エドウィンに手を伸ばす。そのまま空虚な穴を埋めるように抱き付けば、彼は頼りない体を力強く包み込んでくれた。
「一緒に歩いて、エドウィン」
「はい」
「私もいつか、何も言わずに消えちゃうかもしれない。でも」
「ええ、それでも構いません。僕はあなたと一緒に歩きたい。それに……その日が来ないよう足掻くのは得意なんです」
彼が苦笑交じりに言う。どういう意味かと顔を離せば、宥めるような笑みでエドウィンが額を突き合わせた。
「自分がいつ死ぬかなど誰にも分かりません。戦場で命を落とすのも、精霊に見初められてしまうのも僕にとっては同じです。エルヴァスティでも言うでしょう? 『全ての事象は精霊によって引き起こされる』と」
だから、と彼は抱き締める腕を強めた。
「──そこには必ず抗う術が存在すると、信じています」
人の生死を間近に感じながら、エドウィンは守るべき民や家人のため剣を振るってきた。そしてそれは勿論、自分自身が戦場を生き残るためでもあった。
幾度の死に目を乗り越えてきた彼の言葉は、精霊に抗う術を持たぬ愛し子へ、一縷の希望を提示する。
「あなたがこの先も長く生きられる方法を、例え一生かかっても探します。もしかしたら、彼らも力を貸してくれるかもしれないから」
「え……」
エドウィンがゆるやかな笑みを向けた先、二人の陰にはいつの間にか影獣がちょこんと座っていた。
今日に至るまで、愛し子の血を好む四大精霊を退けられるのは、エルヴァスティで育つ弑神の霊木しかないと考えられてきた。だが──相反する力を有する影の精霊が現れ、それを従えてしまった青年がここにいる。
リアは暫し目を瞬かせた後、拍子にこぼれた涙はそのままに微笑んだ。
「……そうね。頑張らなきゃ」
影の精霊は、これから生まれてくる愛し子たちを救えるかもしれない。今までは成し得なかった新たな術を確立させれば、きっと。
そのためには立ち止まっている暇などないだろう。これは自分のためだけではなく、同じ宿命を背負った人々の未来を繋げる、大切な一歩だ。
「……リア」
「なに──」
ふと近付いた吐息に、リアは反射的に目を瞑る。その後すぐ、左耳にきゅっと何かを嵌められたことで瞼を押し開いた。
確かめてみれば、紫水晶の小さな飾りが指先で軽やかに揺れる。
「あっ、これ失くしちゃったかと……!」
「皇宮に落ちていたので拾っておいたんです。期待通り助けてくれました」
二人は顔を見合わせると、自然と穏やかな笑みをこぼした。そしてどちらともなく手を握っては、切り株から腰を上げる。
「ねぇエドウィン」
「はい?」
「あなたに会えて良かった。精霊の導きも、捨てたもんじゃないわね」
落日の輝きを背に、菜の花の娘は美しく笑う。
彼はその姿に目を眇めては、やがて応じるように微笑み、ふと背を屈める。
引き合うように重ねられた唇は、花びらが肌をやわく撫でるのに似ていた。一瞬の驚きと、それを上回る熱と胸の締め付けに溺れそうになりながら、リアは静かに瞼を閉じたのだった。