魔女見習いと影の獣
 懐かしい声が消えていく。
 ひどく淋しい月夜が、焚火の影が、立ち並ぶ天幕が、滲むように消えていく。
 夢の終わりと共に現れたのは見慣れた木目と、うっすらと射し込む朝の光。
 凍て付く冬を終えた森はにわかに呼吸を再開し、雪解けを知るや否や新たな芽を生む。そのすぐそば、春の訪れを予期して囀る美しい鳥の声で、ヨアキムはゆっくりと意識を覚醒させた。

「……あっちには綺麗な湖があるのよ。たまに立派な角のシカが水を飲みに来てるわ」
「シカですか。大公国ではあまり見かけませんね……やはりエルヴァスティでは神聖な生き物なのですか?」
「ううん? 食べると美味しいわよ」
「あっ、食べるんですか」
「水飲んでるときが仕留めやすいって猟師さん言ってた」

 壁一枚隔てて聞こえてくる、年頃の男女にしては色気もへったくれもない会話。言うに事欠いて何故シカの話をしているのかとツッコミを入れた直後、ヨアキムは怒涛の勢いで木製の窓を持ち上げ、家の壁に凭れ掛かっていた二つの頭を見下ろした。

「わ、お師匠様おはよう。今日は完全に寝坊ね」
「おはようございます、ヨアキム殿」
「爽やかに挨拶するな。何でお前がここにいる」

 くるりとこちらを見上げる弟子の隣で頭を下げたのは、少し前に帝国で別れたはずの青年だった。人好きのする顔立ちは、短くなった藍白の髪も相俟って、先程まで見ていた夢の人物の姿に嫌でも重なる。
 微かな感傷を掻き消すようにヨアキムが窓枠に頬杖をつけば、青年は街に繋がる坂道を指差して答えた。

「メリカント寺院の研究室に、影の精霊についてお伺いしたいことがあって参りました。せっかくですしリアとヨアキム殿にもお会いしておきたくて」
「もー、お師匠様に悪いからって家に上がってくれなかったのよ。薪割りまで手伝ってもらっちゃった」
「初めてやりましたが楽しかったですね」

 恐らくヨアキムを叩き起こすために用意したであろう薪は、弟子がやるよりも幾分か綺麗に割られて並んでいた。いつもなら弟子のやかましい声がなくとも、斧を打ちおろす音だけで目が覚めるのだが──今朝はどうにも、あの夢から戻れなかったらしい。

「それじゃお師匠様も起きたし、朝ごはん一緒に食べましょ! 私が作っ……あっ!! でもエドウィンの口には合わないかも……」
「えっ。そんなことありませんよ、リアの手料理なんて食べたいに決まっているじゃないですか」
「そ、そう? えへへ」
「止めろ止めろ俺の前ではしゃぐなガキども」

 笑顔に必死さを滲ませて説得する青年と、ころっと上機嫌になる単純な弟子の頭をそれぞれ掴んで引き離し、ヨアキムは大きく溜息をついた。
 そうして胸中に未だ残っていた夢の残滓をも吐き出し、二人に──主に青年に向けてにっこりと笑みを作る。

「そんなに食いたけりゃ俺が真心込めて作ってやるぞ、嬉しいだろ、喜べ」
「あッ……とても楽しみです」
「えー!? 私の出番はぁ!?」
「街でパンでも買ってこい」

 ぴしゃりと戸を閉めれば、間を置かずして聞こえてくる弟子の抗議とそれを宥める青年の声。
 やがて二人が素直に坂道を下って行ったことを確認し、ヨアキムは心なしかすっきりとした気分で肩を竦め、勝手口へと向かったのだった。

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