魔女見習いと影の獣
 メイスフィールド大公国の北方に広がる草原地帯キーシン。
 そこに暮らす民はかつて、強大な軍隊を用いて周辺地域を次々と制圧し、クルサードをも凌ぐ大帝国を築いたという。
 しかし彼らが信仰する運命の女神ジスは、災いをもたらす禍神(まがかみ)として知られており、それを鎮めるべく各地では供犠(くぎ)──生贄の儀が日常的に行われていた。
 その邪悪さを見咎めたクルサード帝国が、四十年ほど前にキーシンへの征服戦争に踏み切ったというわけだ。
 トラヴィスから教えてもらった内容をざっくりとまとめたリアは、手帳のページを指先でトントンと叩く。

「……ジスの怒りによって起こされるのは、嵐や洪水、天災の類か。呪いには関係なさそうかなぁ……」

 エルヴァスティの民から見れば、この運命の女神ジスも、善神イーリルも精霊の一部に過ぎない。もしくは人間が勝手に創り上げた架空の神的存在でしかなかった。
 それはともかくとして、この世界では精霊の気まぐれで雨が降り、風が流れ、大地が割れ、生命が芽吹く。
 ──そこにはやはり、人間という種を呪う性質はないはずだ。

「もー、眼帯男に邪魔されなかったら、あの面白そうな本もっと読めたのにな」

 宗教の変遷を記した、あの如何にも無神論者が書いたような考察集。さぞメイスフィールドで肩身の狭い思いをしているのだろうと、まだ見ぬ著者に軽く同情しつつ、リアは「ところで」と視線を下ろした。

「エドウィン、さっきから微動だにしないけど……大丈夫?」

 公子の元へ戻らなければならないと言ってトラヴィスが一旦退室した後、リアは手頃なカウチに俯せに寝そべり、黙々と手帳に思考の道筋を書き付けていた。
 ついでにエドウィンの様子も見れるようにと、両腕の間に獣を挟んでいたのだが──彼は石のごとく動かない。ぎりぎりまで体を伏せたまま、無心に手帳を見詰めている。

「……。あ、お腹空いたとか? 疲れたもんね」

 お腹が空いているのは自分なのだが、リアは「分かる分かる」と頷きながら獣を抱えた。そのままごろりと仰向けになれば、獣の首に掛けた新しいアミュレットが宙に揺れる。
 暫しその青い輝きをじっと眺めていた彼女は、やがて襲い来る睡魔に欠伸をかました。

「私ね、小さい頃ぬいぐるみとか人形が好きだったの。お師匠様が自作してくれた顔色の悪い、ちょうどこれぐらいの大きさの……」

 リアがごしごしと片目を擦ったとき、にわかに影の獣が耳を立てる。
 慌ただしく後ろ脚や尻尾で腕を控えめに叩かれても、リアは獣を抱いたまま、うとうとと瞼を閉じたり開いたり。

「今のエドウィンみたいにふわふわしててさ、よく一緒にこうやって寝て──ぐぇえ!?」

 突如として全身に何かが圧し掛かり、リアは夢見心地な声音から一転して、潰れた悲鳴を上げた。
 目の前には先程までなかったはずの広い肩。そこからするりと落ちた藍白の髪が、リアの鼻先をくすぐる。
 耳元に極限まで押し殺した吐息が触れ、恐る恐る横を向く。

「……すみません、もう少し分かりやすく抵抗すれば良かったですね」

 頑として視線を合わせないエドウィンは、されど非常に困った声で囁いた。
 重なった胴から、互いの速まった鼓動が鮮明に聞こえるようになった頃、ようやく状況を理解したリアは思わず奇声を上げる。

「びゃあ!? ご、ごごごめんなさいエドウィン、戻ったのね!?」
「はい、その、リア。腕を、外していただけると」
「はい!!」

 混乱のあまり彼の背中をぎりぎりと掴んでいたリアは、即座に両手を引っ込めた。と同時に勢いよくエドウィンが体を起こし、目を合わせないまま彼女のことも抱き起こす。
 カウチで向かい合った状態で、気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
 暴れる動悸に急かされるように、リアはぼさぼさの髪を整えようとするも、あまり指の感覚がない。かえって乱れていく髪にリアがまごついていれば、そっと大きな手が伸ばされた。

「エ、エドウィン?」
「じっとして」

 絡まった髪留めをゆっくりと外される間、リアは間近にあるエドウィンの胸元を凝視するしかなく。
 やがて淡い紫のリボンが引き抜かれ、不自然に突っ張っていた後頭部が弛む。ゆるやかな曲線を繰り返す毛束がカウチまで垂れたところで、リアはそうっと瞳を持ち上げた。
 ──視線がかち合ったところで、またもや沈黙。
 菫色の瞳の奥、陽の下では見られない密やかな光がちらついた。

「……あ、ああー、えっと、もう体は平気? 結構戻るの早かったんじゃない?」

 息が詰まりそうな羞恥を吹っ飛ばすために、リアは調子はずれな声で尋ねる。

「呪いが発動したとき凄くつらそうだったし、まだ横になってた方が」
「ええ、少し怠さはありますが……リア」
「な、何っ?」
「もう一度抱き締めても?」

 ゴッ、と鈍い音を立てて、リアはカウチの肘置きに勢いよく後頭部を打ち付けたのだった。

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