魔女見習いと影の獣
 ──精霊は決して人に都合のいい存在じゃない。それを忘れるな。

 師匠の戒めにも似た言葉がリアの脳裏を過った。
 彼らは確かに人々の暮らしに寄り添い、供物と引き換えに力を分け与えてくれる。だがその行為が善意のみで構成されているなど、帝国の民が信じる善神イーリルでもなければ到底有り得ないことだ。

「精霊は人間の血も、肉体も、魂も大好きよ。彼らから求められるままに心を許せば、いつか全て喰われてしまう」
「……! リア、それは今朝の……」

 エドウィンの戸惑い気味な呼びかけに、リアはこくりと頷いた。

「精霊術師は自ら髪や血を捧げるから、特に好まれやすいの。だから勝手に寄って来ることがあるんだけど……ノルベルトの親友みたいに、一方的に精霊が喰らうこともある」
「……精霊に攫われるってのは、喰われることと同義なんだな?」
「……そうね」

 躊躇いがちに肯定する。
 精霊の領域に連れ去られた人間が二度と戻ってこないのは、そこで肉体を奪われてしまうからだ。エルヴァスティの精霊術師はその神隠しを防ぐために、普段から供物には髪しか捧げず、不用意に精霊の声に耳を傾けることもしない。
 ──人と精霊が境界を超えて近付いたとき、その代償は人間に降りかかるから。

「は……道理で何も残らないわけだ」

 ノルベルトは参ったと言わんばかりに前髪を掻き上げ、ゆっくりと息を吐いた。
 彼は既に友人が亡くなっている可能性も十分に覚悟していたのだろうが、あまりに非現実的な現象である上に、遺体すら見付からないことを知って失望したに違いない。
 リアは暫しの逡巡を経て、そっと付言した。

「……でも、精霊の誘惑を受けた人の家族は、ずっとその精霊に守られるとも聞くわ。重い病や天災に見舞われることがないって」

 それはリアが扱う精霊術と同じで、精霊が丸ごと喰らった供物を糧とし、強大な力をもってして繋がりのある者に守護を与えるのだ。髪の毛先や血の数滴などとは比にならぬ効力を発揮することから、かつてのエルヴァスティでは掟に背き、生贄を捧げていた地域もあったらしいが──もう随分と昔の話である。
 ノルベルトは彼女の控えめな言葉に苦笑すると、少しの間を置いてかぶりを振る。

「そうかい。ま、そんぐらいしてもらわないとな」
「ごめんなさい。その、力になれなくて」
「んん? 俺はあいつがどこにいるかを聞いたんだ。お前ははっきり答えただろう、オーレリア」

 おもむろに立ち上がった大きな背中を見上げ、リアは自然と尋ねていた。

「……樹海に行くの?」

 眼帯の下、薄い唇が弧を描く。
 無言の肯定をそこに見たリアは、懐からナイフを引き抜き、三つ編みの先を少しだけ切り落とした。それを小さな瓶に入れては、ノルベルトの手に握らせる。

「何だ、餞別か?」
「私の髪、精霊に人気なのよ。樹海で危険を感じたら、これを投げたら良いわ。満足して消えると思うから」
「へえ。俺は誘惑されるような心優しい人間じゃあないんだがな」
「それでも精霊の棲み処に行くんだもの。備えはあった方がいい」

 神話の舞台や言い伝えの残る場所には、不思議と精霊が集まりやすい。例えノルベルトのように信仰心がなさそうな人間であっても、味見ぐらいはされそうだ。
 とにかく持っておけと言外に伝えれば、彼が何度か頷いては了承を示した。

「分かったよ。しかし女からの餞別は口付けが常識だろう」
「んなっ……知らないわよそんな常識、やっぱり破廉恥だわ!」
「はいはい、銀騎士殿が凄い顔してるから宥めてくれ」
「え?」

 きょとんと後ろを振り返ってみると、些か引き攣った笑みに迎えられる。咄嗟に取り繕ったかのような強張った顔で、エドウィンはゆるやかにかぶりを振った。

「何でもありませんよ」
「そ、そう? 具合悪かったら言ってね」
「ええ。お気遣いありがとうございます、リア」
「こりゃ精霊術師じゃなくて猛獣使いだな」

 押し殺した笑声に、今度こそエドウィンが凄みを利かせた瞳を向ける。その先でノルベルトは大袈裟に肩を竦ませては咳払いをしていた。

「さて、貴重な話の礼をしなきゃな。あー……銀騎士殿に商人でも紹介しようか。ちょうど贔屓の宝石商が大公国に来てっから、そいつをお嬢さんへの贈り物にでも──」
「宝石商ですか?」
「お? 意外と食いつきが良いな」
「いえ、リアに必要だと思ったので」

 そう言って菫色の瞳を寄越したエドウィンに、リアは首を傾げ──あっと歓喜の声を上げたのだった。

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