魔女見習いと影の獣
「──凪に燃ゆる裁きの紅炎よ、泥濘(ぬか)る闇を照らしたまえ!」

 リアは咄嗟にナイフで三つ編みの先端を切り、火の精霊を召喚する。刹那、頭上から螺旋を描いて舞い降りた火の粉が、青い(おにび)と化しては闇の中へ突っ込んだ。
 すると驚いたことに、リアの目の前に広がっていた漆黒が、飛来した火を避けてうねる。影だと思っていたソレは波際の水のごとく、遺跡の奥へと退いて行った。
 通路を象る石畳の継ぎ目がはっきりと見えるようになった頃、リアはごくりと唾を飲み込む。

「リア! どうしたのですか」
「エドウィン」

 階段を駆け上がってきたエドウィンは、先程とは打って変わって明るい入り口を見て、目を瞬かせた。

「さっきの異常な暗さ、多分……全部、影の精霊だわ」
「え……ここに詰まってたということですか?」
「うん。エドウィンに反応して、入口まで集まってたのかも」

 実際に言葉にしてみると背筋が寒くなったが、よくよく考えれば入口が塗り潰されたように真っ黒だった時点で妙だったのだ。もしもエドウィンが先んじて踏み入っていれば、あっという間に飲み込まれていたかもしれない。
 リアは自分の警戒心を盛大に褒め称えつつ、そっと入口の床を見遣った。ぽつぽつと浮かぶ(おにび)の明かりが、石畳の微かな凹凸に反射して煌めく。狭い通路の先には再び暗闇が口を開けており、火の精霊が立ち去るのを今か今かと待っているようだ。

「……エドウィン、この火より前に出ちゃ駄目よ。いい?」
「出てしまった場合のことを聞いても?」
「喰われるわ。丸呑みよ」
「分かりました」

 リアの断言に、エドウィンは微苦笑と共に頷いた。
 二人が慎重に通路を進んでいくと、並走する形で(おにび)もふわふわと前進する。漆黒の塗壁が目前まで迫ったとき、光と熱を察知したであろう影の精霊が、またもや焼けるような音を立てて奥へ逃げていく。
 先程は驚いてしまい観察が出来なかったが、目を凝らしてみると無数の──小さな獣が駆けているようにも見えた。蜘蛛の子を散らすように闇へ飛び込んでいく獣を見て、エドウィンが少々苦い面持ちで呟く。

「あの姿、もしかして僕と似ていたりしますか」
「……言われてみれば、ちょっと似てるかも……」

 正直に言うと殆ど同じである。エドウィンは敢えて例えるなら子犬とか子ウサギといった感じの姿をしていて、今しがた目の前を駆けていった精霊も似たような種を象っていた。ひょこひょこと、四足で跳ねるように走る様も一緒だ。
 もしかしてあれは、影の精霊に誘惑された人間の成れの果て──だったりするのだろうか。
 ふるふると首を左右に振ったリアは、懐から火のアミュレットを引き抜いた。それを手早くロケットに装填すれば、すぐさま強い輝きが発せられる。焚火も顔負けな勢いで燃え盛る光炎(こうえん)に恐れ戦き、闇がまたひとつ後退した。
 十分な視界が確保できたところで、二人はそこが大広間であることを知る。

「うわ、床が水浸し……」
「奥に扉がありますね」
「え? あ、ほんとだ」

 浸水した床にリアが気を取られている傍ら、さっと周囲を見渡したエドウィンが広間の奥を指差した。
 リアは彼の手を借りながら、水深の浅い場所を選んで扉を目指す。途中、あわや水溜まりに倒れ込みそうになった彼女が咄嗟に掴んだのは、古びた石柱だった。暗い天井まで伸びる真っ直ぐな柱に、ぐるぐると太い蛇が巻き付いている。威嚇するように口を開けた蛇の舌先には、火を灯すための燭台があった。

「変な柱……」

 これも彫刻芸術の一環なのだろうかと、その方面にはてんで無知なリアは首を捻ってしまう。
 それに彼女はあまり蛇が好きではない。特に噛まれた経験もないし、エルヴァスティの山奥で遭遇したわけでもないので、何故と問われると答えには窮するが。

「リア、こちらに」

 蛇の柱から視線を外すと、崩落した床の先でエドウィンが手を差し出していた。いつの間に跳んだのだろうと驚きつつ、リアも勢いをつけて向こう岸に跳躍する。些か飛距離が足りず慌てたのも束の間、腕と背中をぐいと引き寄せられたことで無事に着地した。

「うあ、ありがとう」
「どういたしまして」

 こんな薄気味悪い遺跡であっても彼の美貌は健在である。優しげな笑みに眩しさを感じたリアは、思わず呻いてしまった。
 今更ながら、エドウィンが一緒に来てくれてリアは非常に助かっている。一人ではこの朽ちた遺跡の奥まで辿り着けないどころか、真っ暗闇を前に尻込みしていたかもしれない。
 ──エドウィン、全然怖がってないものね。
 戦場の緊迫した空気に慣れているおかげか、彼は怯むことなく冷静に遺跡を進む。この落ち着きっぷりは見習わなければと、リアは深呼吸をしてから目前に迫った大扉を仰ぎ見た。

「また蛇だわ」

 湿気によって腐りかけた木製の扉。その握り部分は錆びた鉄で出来ているのだが、これもやはり蛇をモチーフにしたものだ。
 リアはゆるやかな曲線をなぞってから、湿り気を帯びた鉄を恐る恐る掴む。

「僕が開けましょうか?」
「えっ、だ、駄目よ。エドウィンが開けたら、何か……危なくない?」
「それほど変わらない気もしますが……なら一緒に開けましょう」

 笑い交じりに告げたエドウィンは、そっとリアの肩を引き寄せつつ扉に手を掛けた。
 もしかしなくとも、この遺跡にリアがびびっていることに気付いていたのだろう。気恥ずかしさに襲われながらも、ありがたく彼の厚意に甘えて両手に力を込める。
 ──ぎい、と軋む音が広間に木霊する。
 押し開かれた板の隙間、一寸の光も通さぬ黒が滲み出す。
 まるでそれは深い海の底を覗き込むかのようだった。己よりも遥かに大きな存在を予期して、リアの体が意図せず委縮する。
 侵蝕する恐怖が指先を痺れさせた瞬間、闇の奥から獣の唸り声がもたらされた。

「……!? エドウィン、逃げ」

 確かな呼気を感じ取ったリアは咄嗟に後ずさり──そばにあったはずの温もりが消えていることに、そのときようやく気付いたのだった。

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