魔女見習いと影の獣
 初めは迷子を恐れて道を逐一確認していたこの屋敷も、今ではすっかり歩き慣れていた。埃一つない美しい廊下を小走りに抜け、玄関口に繋がる大きな階段を下りていく。
 階下で彼女を待っていたのは、いつも通り藍白の髪をきっちりと束ねたエドウィンだ。

「エドウィン!」
「リア」

 それまで何処か上の空だった彼は、リアの姿を認めてはゆるやかに微笑む。だが彼女の肩掛け鞄や荷物に視線を移しては、わずかな落胆をそこに宿した。
 エドウィンの様子を不思議に思ったのも束の間、あと三段ほどあった階段を勢いよく踏み外す。悲鳴を上げる暇もなく滑り落ちたリアは、あわや大惨事になるところを、逞しい腕に抱き止められた。
 柑橘の香りにふわりと包まれれば、滑落の恐怖とは異なる高鳴りが胸に響く。
 少しの沈黙を破り、リアがもぞもぞと体勢を整えると、背中を抱き寄せていた腕がにわかにゆるんだ。

「あ、ありがとうエドウィン。駄目ね、もっと落ち着かなきゃ」
「いえ、足は痛めてませんか?」
「大丈夫!」

 その場で軽く跳躍してみせれば、エドウィンが静かに笑う。そしてリアの肩から手を滑らせては、軽くなった黒髪をそっと撫でつけた。指先で細い毛先を掻き分けた彼は、奥で煌めく紫水晶の耳飾りに触れる。
 くすぐったさにリアが体を竦ませていると、やがて彼のやわらかな声が降ってきた。

「改めて、ありがとうございます。リア。あなたのおかげで穏やかな日々が取り戻せました」
「それは良かった。まあ、私だけじゃ何も出来なかったと思うけど」
「……此度(こたび)の礼、本当にあれだけで良かったのですか?」
「え? お礼……うん、だって影の精霊を追い払ったのはエドウィン自身だもの。ここで快適な生活もさせてもらっちゃったし、これ以上のお金はいらないわ」

 リアが謝礼として受け取ったのは、薬師として患者から支払われる代金とほぼ同じぐらいの金額だった。風邪薬を調合した程度の、伯爵からすれば微々たるお金である。
 大公家の永き呪いを解かんと奮闘はしたが、リアは別に恩を売りつけたいわけでもなかった。今回得られた結果は、単純にエドウィンを救ってあげたい思いと、未知の現象への好奇心に衝き動かされてのことだ。だから対価はこれだけで十分だろう。
 しかしそこでリアは、エドウィンからとんでもない話を聞くことになる。

「そうですか。……サディアス殿下が、あなたに準男爵の地位を授けてはどうかと仰っていたのですが」
「ぶほぁ!? 何それ!?」
「国家に貢献した者に贈られる名誉称号ですよ。それほどの働きであったと殿下は見なされたのでしょうね」

 それは大変光栄な話だが──一平民に過ぎない自分に爵位など激しく似合わないので、リアは首を横に振った。

「え、遠慮しとく……」
「そう言うと思ったので、今のところは保留にと申し上げておきました」

 その返答にほっと息をつけば、エドウィンがくすくすと笑う。彼としては爵位の授与に肯定的なのだろうか。いまいち準男爵の地位とやらに価値を見出せていないリアは、釈然としない面持ちで固まることしか出来ず。

「それに爵位なんて貰っても、私これから帰らなきゃいけないし……あっ、ちゃんと影の石は調べておくから安心して!」
「ええ、よろしくお願いします」

 エドウィンが影の精霊から授けられた黒曜の石──あれはどうやら、彼が直接触れるとたちまち影獣に変化してしまう代物らしかった。
 試しにリアやヨアキムが触ってみても何ら変化はなく、見初められた者だけが影の力を得るのだろうということで結論が出た。とは言えそのままエドウィンに持たせていても、星涙の剣抜きでは元の姿に戻ることが叶わない。
 そういうわけで影の石を一度エルヴァスティに持ち帰り、精霊術師たちと共に調査をした上で、エドウィンに持たせるか厳重に保管しておくべきかを議論するのだ。

「精霊の加護を当人から引き離すのは、本来ならあんまり良くないことらしいんだけど……エドウィン、何かあったら手紙で知らせてね」
「……」
「……エドウィン?」

 薄い瞼を伏せていた彼は、つとリアの瞳を見据えて尋ねてきた。

「会いに行くのはいけませんか?」
「へ」
「あなたに」

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