魔女見習いと影の獣
イネス・クレーモラは、このメリカント寺院でも非常に優秀な精霊術師の一人だ。
大巫女ユスティーナ・フルメヴァーラの一番弟子とも呼ばれている彼女は、元来の性格が如実に表れた淑やかな所作も相俟ってか、寺院代表として王宮の公的行事に代理出席することもしばしばある。
そんなイネスは勿論、年下の精霊術師見習いたちにとって、とても優しい姉のような存在だった。
師匠ヨアキムの元で独自に勉強をし、同年代の者たちより少し遅れて寺院にやって来たリアのことを、温かく迎え入れてくれたのも彼女だったのだ。
「ねぇイネス、影の霊石はどうなったの?」
「特注のロケットを作ってみることになったそうよ。リア、これの原料は知ってるかしら」
メリカント寺院の食堂へ向かう最中、イネスが腰のポーチから銀製のロケットを取り出す。繊細な手つきで差し出されたそれを凝視し、リアは小さくかぶりを振った。
「ただの金属かと……」
「これはね、エルヴァスティ北部にあるサネルマの泉から汲んだ、特別な水に浸けたものなの。サネルマは聞いたことある?」
「それなら知ってるわ! 精霊がたくさん集まる泉──あっ、だからこのロケットにジェムストーンを入れたら力が増幅されるのね!?」
ロケットの存在意義をぼんやりとしか認識していなかったリアは、なんとも今更な気付きを得て驚く。師匠からは「アミュレットはこれに入れる」としか教えてもらわなかったため、詳しい仕組みについては全く無知だったのだ。
火のアミュレットが急激に力を増して輝きだすのも、ロケットのおかげだったのかとリアは興味深く頷いた。
「影の霊石も同じロケットに入れちゃいけないの?」
「サネルマの水は精霊の力を増幅させるものでしょう? 霊石に力をあげてしまったら、あなたのお友達が大変なことになっちゃうわ」
「あ、そっか」
影の霊石──バザロフの遺跡でエドウィンが授かった黒曜の石は、エルヴァスティの精霊術師たちの間で行われた会議の結果、そう呼ばれることになった。大地から生まれ出たジェムストーンとは異なり、精霊そのものが石となったことが命名の由来だ。
ユスティーナやヨアキムなどを含めた精霊術師は、霊石が無差別に人に害をなす代物ではないとの結論に至り、これをエドウィンの手元で管理させる方針を固めたという。その際、ちょっとした弾みで影獣になってしまわぬよう、特殊なロケットに霊石を入れることも決められた。
「四大精霊の力を与えた黄金水を、ロケットの内側に塗ったらどうかって意見が出ていたわ」
「黄金水って……油? つまり霊石の力を増幅させるんじゃなくて、遮断するためのロケットってことね?」
「そう。リアがいた光華の塔と同じ原理ね」
光華の塔と聞いて、リアは「うっ」と頬を引きつらせる。
二年ほどの修行を経てエルヴァスティへ戻ったリアは、精霊術の過度な行使を寺院から咎められ、暫しの謹慎を言い渡されていた。
──簡潔に言えば、精霊に近付き過ぎている、という理由で。
精霊を完全に制御できないまま術を行使し続ければ、いずれは誘惑の対象となり、神域の向こうへと連れ去られてしまう。つまるところ命を落としかねない。ゆえにリアは師匠から術の行使を禁じられ、精霊を寄せ付けない特殊な建物──光華の塔で生活することを義務付けられていたのだった。
その期間、なんと史上最長の二か月半。今までも頻繁に軟禁生活を送ったことはあるが、これほど長かったのは初めてだ。おかげでリアはとても退屈な時間を過ごす羽目になり、エドウィンとの手紙のやり取りで何とか暇を潰していたのである。
「イネスは光華の塔なんて入ったことなさそう」
「ううん、私も幼い頃はあそこでゴロゴロしてたよ?」
「ええーっ想像できない、本当?」
「ほんとよ。そのうちリアも塔に入らなくて良くなるわ、きっと」
おかしげに肩を揺らすイネスの横顔を一瞥し、リアはがっくりと肩を落とす。
光華の塔に入れられることすなわち、まだまだ一人前の精霊術師には程遠いということの証だ。いつになったら精霊と対等な関係を築けるのやらと、彼女は胸元辺りまで伸びた黒髪を指へ巻きつけた。
「──修行じゃなくて男を漁りに行ったような奴は見習いのままで十分だって」
後頭部にがつんと投げつけられた暴言に、リアは一拍置いてから目を剥く。
くわっと険しい表情で後ろを振り返ってみれば、そこには今しがた外からやって来たとばかりに鼻を赤くした青年がいた。リアは分厚い外套から覗く木蘭色の軽鎧を両手で押しては、ふんと鼻を鳴らす。
「もうっ、アハト! また嫌味言いに来たの? 悪趣味!」
「だって本当のことじゃないか。その手紙もどうせ、例の呪われ男に出すんだろ」
「の、呪われ男なんて言うな! 失礼ね!」
背伸びをして、王宮騎士の青年──アハトの頬を抓ったリアは、されどすぐに疲れて踵を下ろした。昔より身長差が広がったせいで、報復すら儘ならない。
彼は丸二年ぶりに再会した、いわゆる幼馴染だ。リアが大公国を歩き回っている間、王宮騎士団の入団試験に見事合格したという。しばらく見ないうちに体格が良くなっており、ぼさぼさだった灰白色の髪も整えられ、少しばかり垢抜けたような印象を受ける。
何せリアは帰郷した直後、アハトを見ても誰だか分からなかった。頬から鼻にかけてうっすらと残るそばかすを確認し、辛うじて彼だと認識できたぐらいで。
──知らない間に頑張ったのねって言おうとしたのに、ずっとこの調子なのよねコイツ。
一体何がそんなに気に食わないのか、アハトは帰郷したリアに対して刺々しい態度ばかり見せる。精霊術師と薬師としての修行に行ったくせに都会の男にたぶらかされて帰って来ただとか、紫水晶の耳飾りなんて似合わないだとか。
昔から何かにつけて悪戯をしてくる少年だったが、素直に再会を喜んでくれない幼馴染には溜息が出るのも仕方ない。
「はー……私が何したって言うの? 今度のお祭り、またアハトと一緒に行こうかと思ってたけど、やっぱりやめとくわ」
「え」
「おかえりの一言もないし、意地悪ばっかり言うし! 騎士団でいじめられてるの? その腹いせとか?」
「違うわ!! いや待て、違う、悪かった。別にお前に腹立ててたわけじゃ」
「はーん! 遅い遅い! リアはもう怒りましたー! イネス、お昼食べよ!」
二人のやり取りをはらはらと見守っていたイネスが、ぎょっとした様子で慌てて笑みを浮かべる。その手を引いてリアが食堂へ向かう傍ら、イネスはとても気まずそうにアハトを振り返ったが──彼の泣きそうな顔を見ては、「何をしているのだか」と額を押さえてしまったのだった。
大巫女ユスティーナ・フルメヴァーラの一番弟子とも呼ばれている彼女は、元来の性格が如実に表れた淑やかな所作も相俟ってか、寺院代表として王宮の公的行事に代理出席することもしばしばある。
そんなイネスは勿論、年下の精霊術師見習いたちにとって、とても優しい姉のような存在だった。
師匠ヨアキムの元で独自に勉強をし、同年代の者たちより少し遅れて寺院にやって来たリアのことを、温かく迎え入れてくれたのも彼女だったのだ。
「ねぇイネス、影の霊石はどうなったの?」
「特注のロケットを作ってみることになったそうよ。リア、これの原料は知ってるかしら」
メリカント寺院の食堂へ向かう最中、イネスが腰のポーチから銀製のロケットを取り出す。繊細な手つきで差し出されたそれを凝視し、リアは小さくかぶりを振った。
「ただの金属かと……」
「これはね、エルヴァスティ北部にあるサネルマの泉から汲んだ、特別な水に浸けたものなの。サネルマは聞いたことある?」
「それなら知ってるわ! 精霊がたくさん集まる泉──あっ、だからこのロケットにジェムストーンを入れたら力が増幅されるのね!?」
ロケットの存在意義をぼんやりとしか認識していなかったリアは、なんとも今更な気付きを得て驚く。師匠からは「アミュレットはこれに入れる」としか教えてもらわなかったため、詳しい仕組みについては全く無知だったのだ。
火のアミュレットが急激に力を増して輝きだすのも、ロケットのおかげだったのかとリアは興味深く頷いた。
「影の霊石も同じロケットに入れちゃいけないの?」
「サネルマの水は精霊の力を増幅させるものでしょう? 霊石に力をあげてしまったら、あなたのお友達が大変なことになっちゃうわ」
「あ、そっか」
影の霊石──バザロフの遺跡でエドウィンが授かった黒曜の石は、エルヴァスティの精霊術師たちの間で行われた会議の結果、そう呼ばれることになった。大地から生まれ出たジェムストーンとは異なり、精霊そのものが石となったことが命名の由来だ。
ユスティーナやヨアキムなどを含めた精霊術師は、霊石が無差別に人に害をなす代物ではないとの結論に至り、これをエドウィンの手元で管理させる方針を固めたという。その際、ちょっとした弾みで影獣になってしまわぬよう、特殊なロケットに霊石を入れることも決められた。
「四大精霊の力を与えた黄金水を、ロケットの内側に塗ったらどうかって意見が出ていたわ」
「黄金水って……油? つまり霊石の力を増幅させるんじゃなくて、遮断するためのロケットってことね?」
「そう。リアがいた光華の塔と同じ原理ね」
光華の塔と聞いて、リアは「うっ」と頬を引きつらせる。
二年ほどの修行を経てエルヴァスティへ戻ったリアは、精霊術の過度な行使を寺院から咎められ、暫しの謹慎を言い渡されていた。
──簡潔に言えば、精霊に近付き過ぎている、という理由で。
精霊を完全に制御できないまま術を行使し続ければ、いずれは誘惑の対象となり、神域の向こうへと連れ去られてしまう。つまるところ命を落としかねない。ゆえにリアは師匠から術の行使を禁じられ、精霊を寄せ付けない特殊な建物──光華の塔で生活することを義務付けられていたのだった。
その期間、なんと史上最長の二か月半。今までも頻繁に軟禁生活を送ったことはあるが、これほど長かったのは初めてだ。おかげでリアはとても退屈な時間を過ごす羽目になり、エドウィンとの手紙のやり取りで何とか暇を潰していたのである。
「イネスは光華の塔なんて入ったことなさそう」
「ううん、私も幼い頃はあそこでゴロゴロしてたよ?」
「ええーっ想像できない、本当?」
「ほんとよ。そのうちリアも塔に入らなくて良くなるわ、きっと」
おかしげに肩を揺らすイネスの横顔を一瞥し、リアはがっくりと肩を落とす。
光華の塔に入れられることすなわち、まだまだ一人前の精霊術師には程遠いということの証だ。いつになったら精霊と対等な関係を築けるのやらと、彼女は胸元辺りまで伸びた黒髪を指へ巻きつけた。
「──修行じゃなくて男を漁りに行ったような奴は見習いのままで十分だって」
後頭部にがつんと投げつけられた暴言に、リアは一拍置いてから目を剥く。
くわっと険しい表情で後ろを振り返ってみれば、そこには今しがた外からやって来たとばかりに鼻を赤くした青年がいた。リアは分厚い外套から覗く木蘭色の軽鎧を両手で押しては、ふんと鼻を鳴らす。
「もうっ、アハト! また嫌味言いに来たの? 悪趣味!」
「だって本当のことじゃないか。その手紙もどうせ、例の呪われ男に出すんだろ」
「の、呪われ男なんて言うな! 失礼ね!」
背伸びをして、王宮騎士の青年──アハトの頬を抓ったリアは、されどすぐに疲れて踵を下ろした。昔より身長差が広がったせいで、報復すら儘ならない。
彼は丸二年ぶりに再会した、いわゆる幼馴染だ。リアが大公国を歩き回っている間、王宮騎士団の入団試験に見事合格したという。しばらく見ないうちに体格が良くなっており、ぼさぼさだった灰白色の髪も整えられ、少しばかり垢抜けたような印象を受ける。
何せリアは帰郷した直後、アハトを見ても誰だか分からなかった。頬から鼻にかけてうっすらと残るそばかすを確認し、辛うじて彼だと認識できたぐらいで。
──知らない間に頑張ったのねって言おうとしたのに、ずっとこの調子なのよねコイツ。
一体何がそんなに気に食わないのか、アハトは帰郷したリアに対して刺々しい態度ばかり見せる。精霊術師と薬師としての修行に行ったくせに都会の男にたぶらかされて帰って来ただとか、紫水晶の耳飾りなんて似合わないだとか。
昔から何かにつけて悪戯をしてくる少年だったが、素直に再会を喜んでくれない幼馴染には溜息が出るのも仕方ない。
「はー……私が何したって言うの? 今度のお祭り、またアハトと一緒に行こうかと思ってたけど、やっぱりやめとくわ」
「え」
「おかえりの一言もないし、意地悪ばっかり言うし! 騎士団でいじめられてるの? その腹いせとか?」
「違うわ!! いや待て、違う、悪かった。別にお前に腹立ててたわけじゃ」
「はーん! 遅い遅い! リアはもう怒りましたー! イネス、お昼食べよ!」
二人のやり取りをはらはらと見守っていたイネスが、ぎょっとした様子で慌てて笑みを浮かべる。その手を引いてリアが食堂へ向かう傍ら、イネスはとても気まずそうにアハトを振り返ったが──彼の泣きそうな顔を見ては、「何をしているのだか」と額を押さえてしまったのだった。