魔女見習いと影の獣
その翌朝、リアはしっかりと厚着をして、約束通りイネスと買い物に出かけた。
寺院の下に広がる歓楽街は、アイヤラ祭に向けて既に多くの店が準備を進めている。軒下の階段に造花を括りつけたり、大通りの上空には色とりどりの旗を連ねたりと、様々な飾りつけも施されていた。
中央広場に到着すれば、そこには祭りの象徴であるアイヤラの篝火がどんと待ち受ける。今はまだ薪を組んだだけの状態だが、祭り当日に煌々と燃え上がる光炎は見る者全てを魅了する。住人はこの巨大な篝火から火を貰って、街全体に吊り下げられたカンテラに点灯していくのが恒例だ。
「久しぶりだわ、この感じ! お祭りが始まる前って浮かれちゃうのよね。篝火は今年も大巫女様が灯すの?」
「ううん、去年から私が任されてるわ」
「え!? 凄い!」
忙しなく隣に視線を戻せば、イネスがちょっと照れ臭そうにはにかむ。
アイヤラの篝火には毎年、優秀な精霊術師が代表して火を灯すのだ。その者を賢者アイヤラに見立てて、実際に火の精霊を召喚する伝統的な儀式とも言えよう。
そんな大役をイネスが任されていることを知り、リアは自分のことのように嬉しくなってしまう。
「初日の夜……っていうかほぼ一日中夜だけど、夕食時にやるんだったよね。ちゃんと見とく!」
「ふふ、ありがとう。頑張らなくちゃね──あ、リア。あそこよ」
雪が退けられた黒い石畳の上、滑りやすさに耐えつつ前に向き直れば、蝶を模した看板がそこに揺れている。イネスが愛用しているという香水の専門店だ。
軽やかなベルの音と共に扉を開けてみると、ふわりと甘やかな香りが鼻腔に充満する。色とりどりの小瓶が壁一面ずらりと並ぶ中、テーブルでは数人の女性客が店員と楽しげに相談をしていた。
「まぁイネス様! ようこそお越しくださいました!」
「こんにちは。今日はとても賑やかですね、マダム・ミルッカ」
「ええ、そろそろアイヤラ祭ですから。みなさま気合いが入っていましてよ」
イネスと店主らしき女性の品高い会話をぼけっと聞いていると、こちらに二人の視線が移される。慌ててリアが挨拶をすれば、ミルッカは目尻に皺を刻みつつ微笑んだ。
「あら、可愛らしいお嬢様だこと。イネス様のご友人でしょうか?」
「そうです、彼女に似合う香水を一緒に選ぼうと思って」
「まぁまぁまぁ! そういうことでございましたらお任せを! ささ、奥へどうぞ」
促されるままに奥の個室へ通されたリアは、外套を脱ぎながらそわそわと店の内装を見渡してしまう。
歓楽街には食事だったり薬草の調達だったり、とにかく色気のない用事でしか訪れたことがないので、こういう洒落た店ではどんな顔をしていれば良いのか分からない。いや、普通にしていれば良いのだが。
「リア、ちょっと前から流行り出したおまじない、知ってる?」
「へ!? おまじない?」
ふかふかのソファに腰を下ろしたイネスは、緊張気味のリアの手を引いて着席を促す。誘導に従って大人しく座れば、イネスが店内にいる女性客を見遣って語り出した。
「極夜の時期、松明も要らないぐらい月が光る日に、七種の草花を集めるの。集めた草花でリースを作って、それを枕元に置くと……」
「……置くと?」
薄氷色の瞳を悪戯に細めた彼女は、リアにちょいちょいと手を動かす。これは内緒話をするときの仕草だなと体を斜めに傾けると、イネスが片手を添えて耳打ちをした。
「運命の人が夢に出てくるそうよ」
「へ、えー……?」
背を丸めたまま、リアは生返事にもならない反応を示す。
──それはつまり、結婚する相手のことだろうか。
十七、八にもなって恋の駆け引きなど一度も経験していないリアにとっては、些か遠い存在に思える。まじないの話を聞いた今でさえ、それが精霊の力によって引き起こされる現象なのかということに興味が行ってしまうほどだ。
そんなリアの鈍い反応を予期していたのか、イネスは笑い交じりに姿勢を戻した。
「ほら、アイヤラ祭の三日目にはダンスパーティーがあるでしょう? 女の子はみんな、二日かけてリースを作って願掛けをするのよ」
「ああ! なるほど。好きな人と踊れますように、って?」
「そういうこと。もしも本当に意中の人が夢に出てきたら、それだけで自信にもなるしね」
だから「気合いが入っている」のかと、リアは先程のイネスたちの会話を思い出す。恋する乙女は魅惑的な香水や、少し奮発して購入したドレスに、果てには恋のまじないまで駆使して勝負に挑むわけだ。
何せ三日目のダンスパーティーは街の広場だけではなく、王宮のホールが一般開放される貴重な機会。身分関係なく華やかな空間でダンスを踊ることができる、まさに恋の成就に打ってつけの場なのだろう。
香水瓶をじっと見つめる年若い女性客の横顔を遠目に捉え、リアはつい頬をゆるめた。
「イネスもやったことあるの? おまじない」
「え? わ、私は……」
虚を衝かれたイネスが、珍しく答えに詰まる。
リアが咄嗟に隣を見れば、少しばかり焦った様子のイネスが視線を逸らした。
「え、えっ!? イネス試したことあるのね!? ちょっと、私そういう話聞いたことないわよっ」
「り、リア、違うわ、興味本位でやっただけで」
「うんうん、それで誰か見えた?」
満面の笑みで尋ねれば、イネスが耳を赤くして黙り込む。いつも落ち着いている彼女の動揺っぷりに、その意図はなくともしてやったりな気分になってしまった。
「ごめんごめん、イネスってあんまり噂話とか信じなさそうだと思ってたから意外で」
「もう……なら、リアもやってみてちょうだい。そしたら、その……夢に誰が出てきたか教えるわ」
「ほんと? じゃあやる!」
彼女の想い人知りたさにあっさり請け合えば、ちょうど店主のミルッカがテーブルにやって来た。
ミルッカは色とりどりの小瓶を手に取って、丁寧に香りの説明をしてくれた。エルヴァスティに限らず各国で最も好まれているのは、フリージアの花を使った優しくも女性らしい香りだそうで、初めて香水を付ける人におすすめだと言う。
恐る恐る小瓶の蓋を開けて嗅いでみれば、確かに親しみのある香りがリアを包み込む。街ゆく女性からふわりと漂うのは、この香水だったらしい。
その後もミルッカは様々な商品を紹介していった。最近の王都で人気を博しているのは、発汗することで香りが変容するという面白い香水で、アイヤラ祭が近付くにつれて売れ行きも上がっているとか。
──爽やかな乙女から艶やかな淑女へと移り変わる様が、男性からも大変好評だとミルッカは含みのある笑みで述べた。
「まぁ、これは気合いが入り過ぎて恥ずかしいと仰る方も多いですし、お嬢様のお好きな香りを選ぶのが一番ですわね」
「好きな香り……」
「……薬草の香りは止めた方がいいわ、リア」
「な、何で分かったのイネス」
もはや職業病か、真っ先に思い浮かんだのがツンとする草の匂いだったので、リアは慌てて取り繕うような笑みで誤魔化す。次いで幼い頃から馴染みのある木材の香りが頭を過ったが、さすがに保護者の匂いを身に纏うのは気が引ける。というか多方面から引かれる。
──そういえば少し前に、清々しくも上品な柑橘の香りを嗅いだ気が。
リアは記憶を頼りに、その香りの特徴をミルッカに伝えたのだった。
寺院の下に広がる歓楽街は、アイヤラ祭に向けて既に多くの店が準備を進めている。軒下の階段に造花を括りつけたり、大通りの上空には色とりどりの旗を連ねたりと、様々な飾りつけも施されていた。
中央広場に到着すれば、そこには祭りの象徴であるアイヤラの篝火がどんと待ち受ける。今はまだ薪を組んだだけの状態だが、祭り当日に煌々と燃え上がる光炎は見る者全てを魅了する。住人はこの巨大な篝火から火を貰って、街全体に吊り下げられたカンテラに点灯していくのが恒例だ。
「久しぶりだわ、この感じ! お祭りが始まる前って浮かれちゃうのよね。篝火は今年も大巫女様が灯すの?」
「ううん、去年から私が任されてるわ」
「え!? 凄い!」
忙しなく隣に視線を戻せば、イネスがちょっと照れ臭そうにはにかむ。
アイヤラの篝火には毎年、優秀な精霊術師が代表して火を灯すのだ。その者を賢者アイヤラに見立てて、実際に火の精霊を召喚する伝統的な儀式とも言えよう。
そんな大役をイネスが任されていることを知り、リアは自分のことのように嬉しくなってしまう。
「初日の夜……っていうかほぼ一日中夜だけど、夕食時にやるんだったよね。ちゃんと見とく!」
「ふふ、ありがとう。頑張らなくちゃね──あ、リア。あそこよ」
雪が退けられた黒い石畳の上、滑りやすさに耐えつつ前に向き直れば、蝶を模した看板がそこに揺れている。イネスが愛用しているという香水の専門店だ。
軽やかなベルの音と共に扉を開けてみると、ふわりと甘やかな香りが鼻腔に充満する。色とりどりの小瓶が壁一面ずらりと並ぶ中、テーブルでは数人の女性客が店員と楽しげに相談をしていた。
「まぁイネス様! ようこそお越しくださいました!」
「こんにちは。今日はとても賑やかですね、マダム・ミルッカ」
「ええ、そろそろアイヤラ祭ですから。みなさま気合いが入っていましてよ」
イネスと店主らしき女性の品高い会話をぼけっと聞いていると、こちらに二人の視線が移される。慌ててリアが挨拶をすれば、ミルッカは目尻に皺を刻みつつ微笑んだ。
「あら、可愛らしいお嬢様だこと。イネス様のご友人でしょうか?」
「そうです、彼女に似合う香水を一緒に選ぼうと思って」
「まぁまぁまぁ! そういうことでございましたらお任せを! ささ、奥へどうぞ」
促されるままに奥の個室へ通されたリアは、外套を脱ぎながらそわそわと店の内装を見渡してしまう。
歓楽街には食事だったり薬草の調達だったり、とにかく色気のない用事でしか訪れたことがないので、こういう洒落た店ではどんな顔をしていれば良いのか分からない。いや、普通にしていれば良いのだが。
「リア、ちょっと前から流行り出したおまじない、知ってる?」
「へ!? おまじない?」
ふかふかのソファに腰を下ろしたイネスは、緊張気味のリアの手を引いて着席を促す。誘導に従って大人しく座れば、イネスが店内にいる女性客を見遣って語り出した。
「極夜の時期、松明も要らないぐらい月が光る日に、七種の草花を集めるの。集めた草花でリースを作って、それを枕元に置くと……」
「……置くと?」
薄氷色の瞳を悪戯に細めた彼女は、リアにちょいちょいと手を動かす。これは内緒話をするときの仕草だなと体を斜めに傾けると、イネスが片手を添えて耳打ちをした。
「運命の人が夢に出てくるそうよ」
「へ、えー……?」
背を丸めたまま、リアは生返事にもならない反応を示す。
──それはつまり、結婚する相手のことだろうか。
十七、八にもなって恋の駆け引きなど一度も経験していないリアにとっては、些か遠い存在に思える。まじないの話を聞いた今でさえ、それが精霊の力によって引き起こされる現象なのかということに興味が行ってしまうほどだ。
そんなリアの鈍い反応を予期していたのか、イネスは笑い交じりに姿勢を戻した。
「ほら、アイヤラ祭の三日目にはダンスパーティーがあるでしょう? 女の子はみんな、二日かけてリースを作って願掛けをするのよ」
「ああ! なるほど。好きな人と踊れますように、って?」
「そういうこと。もしも本当に意中の人が夢に出てきたら、それだけで自信にもなるしね」
だから「気合いが入っている」のかと、リアは先程のイネスたちの会話を思い出す。恋する乙女は魅惑的な香水や、少し奮発して購入したドレスに、果てには恋のまじないまで駆使して勝負に挑むわけだ。
何せ三日目のダンスパーティーは街の広場だけではなく、王宮のホールが一般開放される貴重な機会。身分関係なく華やかな空間でダンスを踊ることができる、まさに恋の成就に打ってつけの場なのだろう。
香水瓶をじっと見つめる年若い女性客の横顔を遠目に捉え、リアはつい頬をゆるめた。
「イネスもやったことあるの? おまじない」
「え? わ、私は……」
虚を衝かれたイネスが、珍しく答えに詰まる。
リアが咄嗟に隣を見れば、少しばかり焦った様子のイネスが視線を逸らした。
「え、えっ!? イネス試したことあるのね!? ちょっと、私そういう話聞いたことないわよっ」
「り、リア、違うわ、興味本位でやっただけで」
「うんうん、それで誰か見えた?」
満面の笑みで尋ねれば、イネスが耳を赤くして黙り込む。いつも落ち着いている彼女の動揺っぷりに、その意図はなくともしてやったりな気分になってしまった。
「ごめんごめん、イネスってあんまり噂話とか信じなさそうだと思ってたから意外で」
「もう……なら、リアもやってみてちょうだい。そしたら、その……夢に誰が出てきたか教えるわ」
「ほんと? じゃあやる!」
彼女の想い人知りたさにあっさり請け合えば、ちょうど店主のミルッカがテーブルにやって来た。
ミルッカは色とりどりの小瓶を手に取って、丁寧に香りの説明をしてくれた。エルヴァスティに限らず各国で最も好まれているのは、フリージアの花を使った優しくも女性らしい香りだそうで、初めて香水を付ける人におすすめだと言う。
恐る恐る小瓶の蓋を開けて嗅いでみれば、確かに親しみのある香りがリアを包み込む。街ゆく女性からふわりと漂うのは、この香水だったらしい。
その後もミルッカは様々な商品を紹介していった。最近の王都で人気を博しているのは、発汗することで香りが変容するという面白い香水で、アイヤラ祭が近付くにつれて売れ行きも上がっているとか。
──爽やかな乙女から艶やかな淑女へと移り変わる様が、男性からも大変好評だとミルッカは含みのある笑みで述べた。
「まぁ、これは気合いが入り過ぎて恥ずかしいと仰る方も多いですし、お嬢様のお好きな香りを選ぶのが一番ですわね」
「好きな香り……」
「……薬草の香りは止めた方がいいわ、リア」
「な、何で分かったのイネス」
もはや職業病か、真っ先に思い浮かんだのがツンとする草の匂いだったので、リアは慌てて取り繕うような笑みで誤魔化す。次いで幼い頃から馴染みのある木材の香りが頭を過ったが、さすがに保護者の匂いを身に纏うのは気が引ける。というか多方面から引かれる。
──そういえば少し前に、清々しくも上品な柑橘の香りを嗅いだ気が。
リアは記憶を頼りに、その香りの特徴をミルッカに伝えたのだった。