魔女見習いと影の獣
一方その頃、イネスがとても面倒くさい男に絡まれていることなど全く知らないリアは、テーブルに出された温かい紅茶をじっと凝視していた。
ほかほかと立ち昇る湯気の向こう、苦い豆を挽いて出来た真っ黒な珈琲を啜るのは、先程リアに声を掛けてきた紳士だ。
三十代、いや四十代だろうか。ヨアキムと同じくらいの年齢であろう彼は、されど師匠には無い渋く落ち着いた所作でカップを置いた。
「急に声を掛けたりしてすまなかったね。手首は大丈夫かい」
「あ。はい。びっくりしましたけど」
率直に返せば、寄越された濃緑の瞳が微かな笑みを刻む。薬草を擂り潰したときの色に似ている、とまたもや職業病を発症していることにも気が付かず、リアはおずおずと紅茶に口をつけた。
「……おじさん、杖を失くしたって言ってましたよね。ここからどうするんですか?」
「少ししたら迎えの者が来る。そいつの手を借りよう」
ちらりと見遣った先には、事故が原因で自由を失ったという右脚がある。この喫茶店に彼を連れて来る間、ずるずると荷物のようにそれを引き摺る様は、リアも既に確認済みである。
──この紳士は酒場の前に出来た人混みの中で、体を支えるための杖を落としてしまったそうだ。あやうく転倒しかけたところで、同じくふらついていたリアの手を咄嗟に掴み、辛うじて事なきを得た。
しかしそれは目先の危険を回避できたというだけで、彼が凍った道を歩くことも儘ならぬのは変わらない。ゆえに迎えが来るまで、こうして閑散とした喫茶店で時間を潰しているわけだ。
古民家を改築したという店内は狭く、それでいて生活感が失われておらず暖かい。丸太を切ったような椅子と揃いのテーブルも、そこに掛けられた色彩豊かなケットも可愛らしい。リアはともかく、この空間にしれっと馴染んでしまえる中年男性はそう多くないだろう。
「お嬢さんこそ、連れがいたのではないかな。戻らなくて平気か?」
「だっておじさんが紅茶頼んじゃったもの。これお礼のつもりなんでしょう? だったら飲まなきゃ」
「律儀だな」
冷めないうちにもう一口飲めば、寒気に晒されていた体がじんわりと内側から温まっていく。ピリッとした辛味が舌を刺激するや否や、はちみつのまろやかな甘さが絶妙にそれを包み込んだ。
「……茶が好きなのか」
「え?」
「いや、随分と幸せそうな顔をすると思ってね」
頬杖をつきながら、されどだらしなく見えない程度に姿勢を保った紳士は、そこで口角を上げて分かりやすく笑む。
彼を見ていると、色気というものは年齢を重ねても失われないことがよく分かる。きっとエドウィンも将来、色気駄々洩れのまま成長してとんでもない男になるに違いない。
そんな確信を得たリアは、今しがた告げられた言葉を改めて反芻しつつ、カップの中にある赤茶色の円を覗き込んだ。
「お茶は自分でもいろいろ淹れるんです。どの茶葉を混ぜるかとか、スパイスはどうするかとか、考えるのが楽しくて」
「茶器は?」
「よく割るから茶器は丈夫なのが良いです」
くっと堪えるような笑い声が漏れる。見てみれば、紳士が不自然な体勢で窓の外を眺めていた。
「今おじさん笑ったでしょ」
「いやいや」
「もー、私だっておじさんぐらいの歳になれば茶器も割らないようになってるんだから」
「時間が掛かり過ぎじゃないか?」
彼の言葉を聞き流すように、ごくごくと紅茶を飲み干したリアは、慎重にカップを置いて立ち上がる。そうして鞄と外套を抱えては、テーブルの脇に移動した。
「じゃあ私そろそろ行きますね。のんびりしてたら心配かけちゃう」
「ああ。楽しい時間をありがとう、豪快なお嬢さん」
「どういたしまして! あ、お気を付けてー!」
ごちそうさま、と最後に挨拶をしてリアは踵を返す。外套を着込み、二重の扉を開けて外へ出れば、また凍て付くような寒さが全身を覆った。硝子越しにもう一度だけ紳士に手を振り、彼女は街路の方へと向かう。
「……気を付けるのはそちらだがね」
静けさを取り戻した喫茶店で、紳士はゆっくりと手を下ろしたのだった。
ほかほかと立ち昇る湯気の向こう、苦い豆を挽いて出来た真っ黒な珈琲を啜るのは、先程リアに声を掛けてきた紳士だ。
三十代、いや四十代だろうか。ヨアキムと同じくらいの年齢であろう彼は、されど師匠には無い渋く落ち着いた所作でカップを置いた。
「急に声を掛けたりしてすまなかったね。手首は大丈夫かい」
「あ。はい。びっくりしましたけど」
率直に返せば、寄越された濃緑の瞳が微かな笑みを刻む。薬草を擂り潰したときの色に似ている、とまたもや職業病を発症していることにも気が付かず、リアはおずおずと紅茶に口をつけた。
「……おじさん、杖を失くしたって言ってましたよね。ここからどうするんですか?」
「少ししたら迎えの者が来る。そいつの手を借りよう」
ちらりと見遣った先には、事故が原因で自由を失ったという右脚がある。この喫茶店に彼を連れて来る間、ずるずると荷物のようにそれを引き摺る様は、リアも既に確認済みである。
──この紳士は酒場の前に出来た人混みの中で、体を支えるための杖を落としてしまったそうだ。あやうく転倒しかけたところで、同じくふらついていたリアの手を咄嗟に掴み、辛うじて事なきを得た。
しかしそれは目先の危険を回避できたというだけで、彼が凍った道を歩くことも儘ならぬのは変わらない。ゆえに迎えが来るまで、こうして閑散とした喫茶店で時間を潰しているわけだ。
古民家を改築したという店内は狭く、それでいて生活感が失われておらず暖かい。丸太を切ったような椅子と揃いのテーブルも、そこに掛けられた色彩豊かなケットも可愛らしい。リアはともかく、この空間にしれっと馴染んでしまえる中年男性はそう多くないだろう。
「お嬢さんこそ、連れがいたのではないかな。戻らなくて平気か?」
「だっておじさんが紅茶頼んじゃったもの。これお礼のつもりなんでしょう? だったら飲まなきゃ」
「律儀だな」
冷めないうちにもう一口飲めば、寒気に晒されていた体がじんわりと内側から温まっていく。ピリッとした辛味が舌を刺激するや否や、はちみつのまろやかな甘さが絶妙にそれを包み込んだ。
「……茶が好きなのか」
「え?」
「いや、随分と幸せそうな顔をすると思ってね」
頬杖をつきながら、されどだらしなく見えない程度に姿勢を保った紳士は、そこで口角を上げて分かりやすく笑む。
彼を見ていると、色気というものは年齢を重ねても失われないことがよく分かる。きっとエドウィンも将来、色気駄々洩れのまま成長してとんでもない男になるに違いない。
そんな確信を得たリアは、今しがた告げられた言葉を改めて反芻しつつ、カップの中にある赤茶色の円を覗き込んだ。
「お茶は自分でもいろいろ淹れるんです。どの茶葉を混ぜるかとか、スパイスはどうするかとか、考えるのが楽しくて」
「茶器は?」
「よく割るから茶器は丈夫なのが良いです」
くっと堪えるような笑い声が漏れる。見てみれば、紳士が不自然な体勢で窓の外を眺めていた。
「今おじさん笑ったでしょ」
「いやいや」
「もー、私だっておじさんぐらいの歳になれば茶器も割らないようになってるんだから」
「時間が掛かり過ぎじゃないか?」
彼の言葉を聞き流すように、ごくごくと紅茶を飲み干したリアは、慎重にカップを置いて立ち上がる。そうして鞄と外套を抱えては、テーブルの脇に移動した。
「じゃあ私そろそろ行きますね。のんびりしてたら心配かけちゃう」
「ああ。楽しい時間をありがとう、豪快なお嬢さん」
「どういたしまして! あ、お気を付けてー!」
ごちそうさま、と最後に挨拶をしてリアは踵を返す。外套を着込み、二重の扉を開けて外へ出れば、また凍て付くような寒さが全身を覆った。硝子越しにもう一度だけ紳士に手を振り、彼女は街路の方へと向かう。
「……気を付けるのはそちらだがね」
静けさを取り戻した喫茶店で、紳士はゆっくりと手を下ろしたのだった。