魔女見習いと影の獣
「──……なるほど。本当に自分から出て来るとは恐れ入った」
弑神の霊木が植えられた内郭。庭の隅に造られた洞穴に身を隠したリアとリュリュは、そこにあった木製の戸をよく分からずに潜り抜け、よく分からぬまま狭い坂道を半ば滑り落ち、ようやく視界に光が射し込んだところで自らの失態を悟った。
紅き木々が象る雪道に立ち塞がったのは、大きな毛皮の外套を羽織る男。浅黒い肌にびっしりと刻まれた鳥の刺青と、薄い唇に咥えた葉巻。見慣れぬ形の装飾品はどれも異国の匂いを纏っていた。
「え……だ、誰?」
「悪いが一緒に来てもらうぞ、オーレリア・カーヴェル」
──カーヴェル?
聞き慣れない苗字にリアは眉を寄せ、少年を抱き締めては洞穴の方へ後退する。
「人違いよ。私そんな名前じゃないわ」
「名前はどうだっていい。黒髪に珍しい黄色の眼、光華の塔とやらの脱出経路から滑り落ちてくる娘など、お前ぐらいしかいないだろう」
まさに今その状況に陥っているリアはぐっと言葉に詰まった。
何故この男は、自分がここへやって来ることが分かったのだろう。光華の塔に設けられた避難経路はエルヴァスティ王国の民でも知る者は少なく、況してや内郭の洞穴が崖下に繋がっていることなどリアでさえ知らなかった。
ヨアキムも詳しく把握していなかった可能性だってあるのに、一体どうして──明らかな外国人であるこの男が?
リアが寒さと緊張で硬直していると、男は目立つ赤毛を掻いてこちらに歩み寄ってくる。
「うわわわ、こっち来ないで! あなたもしかしなくとも、光華の塔を襲った賊の仲間ね!?」
「ああ、正確にはお前を攫うために来た。塔には毛ほどの興味もない」
「え、私!?」
衝撃的な事実にあんぐりと口を開けてしまったが、リアは自分が謎の大罪人に狙われていることを思い出した。
──もしかしてこれがその大罪人!? ゴツすぎない!?
いや、それは早合点だろうか。彼はどう見てもエルヴァスティ人ではないし、かつて国外追放されたという大罪人と断ずるには少々無理がある。つまり彼はそれに手を貸している人物である可能性が高いが、どちらにせよリアが警戒すべき相手に違いはない。
何とか冷静な思考を手繰り寄せながら、リアは後ろの狭い坂道を振り返った。なかなかの急勾配。途中、ほぼ真下に落ちたような感覚もあったことから、リュリュを連れて逆走するのはまず不可能だろう。
「抵抗はしてくれるなよ。女子供に手を上げるのは流儀に反する」
リアの脳内を読み取ったかのように、男の声が静かに諭す。その近さに慌てて振り返れば、腕の中にいた少年がずるりと引っ張り上げられてしまった。二人がぎょっとして目を剥く傍ら、リュリュを片手で奪い取った男が顰め面で告げる。
「早く来い。この辺りにも弑神の霊木がある。お前は今、完全に丸腰だということを覚えておけ」
「うっ……ど、どこに行くつもり? 今は良くても……谷底から出たら私たち、精霊に喰われるかもしれないわよ。勿論あなたを巻き込んでね」
「その心配はない」
脅しのつもりで言った言葉を、男は素っ気なく撥ねつけた。
何を根拠に否定しているのかとリアが顔を顰めれば、リュリュを肩に担いでしまった彼は踵を返し、こちらに背を向けたまま言うのだ。
「お前にはもう厄介な精霊は付いてない、だとよ」
「……は……? でもこの前、街で」
「あれが他人からけしかけられた精霊だったとでも言えば理解できるか?」
一瞬の沈黙を経て、リアはようやく今の状況が仕組まれたものだったことに気付く。
リアが流れの傭兵に襲われた日。あのときすでに光華の塔から出てもいい程度に、精霊との距離は正常なものになっていたのだ。しかし誰かがリアの元へ精霊を遣わしたことで、その判断は見事に妨げられてしまった。
寺院の誤った判断によって再び光華の塔で謹慎生活を再開させることで、リアの居場所を特定しやすくすると同時に、獲物の捕獲さえ容易に進めたというわけである。
そして──この計画を考案したのは、恐らくエルヴァスティの大罪人とやらだ。
彼は光華の塔の仕組みを熟知していたのだろう。リアが弑神の霊木から離れられないことを見越して、この避難経路に伏兵を配置したに違いない。
「な……なんて気持ち悪い……監視でもしてたわけ……?」
そこまでして愛し子が欲しいのかと、全容の見えない目的を思っては身震いする。
しかし敵方の計画が分かったからと言って、今からリアに出来ることなどあるだろうか。滑り落ちてしまった洞穴はあまりに細く、それこそ光華の塔に囲われていた寵姫や女子供にしか通れないほどの狭さだ。もし助けを呼べたとして、一体誰を──。
「……!」
咄嗟に触れたのは、両耳で揺れる紫水晶。
やれるだろうか。否、やるしかあるまい。洞穴の外に生えている弑神の霊木から、リアは出来る限り後退して小さく口を動かした。
「……石に眠りし守護精霊よ。我が声に応え、勇敢なる銀影を導きたまえ」
呪文を唱え、背後の岩壁に親指を強く擦りつける。切れた皮膚から血が滲めば、やがて紫水晶から仄かな光が溢れ出した。
──よし、行ける……!
バザロフの遺跡で見たときと同じだ。宝石から涙のようにぽろぽろと落とされた光は、やがてリアが通って来た洞穴をふわりと駆け上っていく。
「おい、何をしてる」
「わあっ!? 何もしてない何も!!」
顔のすぐ横を素早く拳が通過した。飛び跳ねた心臓を押さえつつ確認してみれば、岩壁が少し抉れていた。素手で岩を砕く人間など初めて見たリアは、喉を引き攣らせながら正面を見上げる。
刺青の男はリアの怪しい動きを見咎めて戻ってきたようだが、幸い彼女が何をしたかまでは理解していない様子。怪訝な眼差しで洞穴を一瞥しては、すぐに踵を返──すことなくリアを脇に抱えてしまった。
「どわぁ!? あ、足浮いてる!」
「……いちいち騒がしい女だな。このガキを見習え」
「リュリュは元から静かすぎるだけよ!」
いつの間にかリュリュは刺青の男の肩に座り、寒そうにその頭にしがみつく始末。暖を取れればもう何でも良いのだろう。危機感など微塵も感じられない少年を見上げ、リアは溜息交じりに顔を覆った。
弑神の霊木が植えられた内郭。庭の隅に造られた洞穴に身を隠したリアとリュリュは、そこにあった木製の戸をよく分からずに潜り抜け、よく分からぬまま狭い坂道を半ば滑り落ち、ようやく視界に光が射し込んだところで自らの失態を悟った。
紅き木々が象る雪道に立ち塞がったのは、大きな毛皮の外套を羽織る男。浅黒い肌にびっしりと刻まれた鳥の刺青と、薄い唇に咥えた葉巻。見慣れぬ形の装飾品はどれも異国の匂いを纏っていた。
「え……だ、誰?」
「悪いが一緒に来てもらうぞ、オーレリア・カーヴェル」
──カーヴェル?
聞き慣れない苗字にリアは眉を寄せ、少年を抱き締めては洞穴の方へ後退する。
「人違いよ。私そんな名前じゃないわ」
「名前はどうだっていい。黒髪に珍しい黄色の眼、光華の塔とやらの脱出経路から滑り落ちてくる娘など、お前ぐらいしかいないだろう」
まさに今その状況に陥っているリアはぐっと言葉に詰まった。
何故この男は、自分がここへやって来ることが分かったのだろう。光華の塔に設けられた避難経路はエルヴァスティ王国の民でも知る者は少なく、況してや内郭の洞穴が崖下に繋がっていることなどリアでさえ知らなかった。
ヨアキムも詳しく把握していなかった可能性だってあるのに、一体どうして──明らかな外国人であるこの男が?
リアが寒さと緊張で硬直していると、男は目立つ赤毛を掻いてこちらに歩み寄ってくる。
「うわわわ、こっち来ないで! あなたもしかしなくとも、光華の塔を襲った賊の仲間ね!?」
「ああ、正確にはお前を攫うために来た。塔には毛ほどの興味もない」
「え、私!?」
衝撃的な事実にあんぐりと口を開けてしまったが、リアは自分が謎の大罪人に狙われていることを思い出した。
──もしかしてこれがその大罪人!? ゴツすぎない!?
いや、それは早合点だろうか。彼はどう見てもエルヴァスティ人ではないし、かつて国外追放されたという大罪人と断ずるには少々無理がある。つまり彼はそれに手を貸している人物である可能性が高いが、どちらにせよリアが警戒すべき相手に違いはない。
何とか冷静な思考を手繰り寄せながら、リアは後ろの狭い坂道を振り返った。なかなかの急勾配。途中、ほぼ真下に落ちたような感覚もあったことから、リュリュを連れて逆走するのはまず不可能だろう。
「抵抗はしてくれるなよ。女子供に手を上げるのは流儀に反する」
リアの脳内を読み取ったかのように、男の声が静かに諭す。その近さに慌てて振り返れば、腕の中にいた少年がずるりと引っ張り上げられてしまった。二人がぎょっとして目を剥く傍ら、リュリュを片手で奪い取った男が顰め面で告げる。
「早く来い。この辺りにも弑神の霊木がある。お前は今、完全に丸腰だということを覚えておけ」
「うっ……ど、どこに行くつもり? 今は良くても……谷底から出たら私たち、精霊に喰われるかもしれないわよ。勿論あなたを巻き込んでね」
「その心配はない」
脅しのつもりで言った言葉を、男は素っ気なく撥ねつけた。
何を根拠に否定しているのかとリアが顔を顰めれば、リュリュを肩に担いでしまった彼は踵を返し、こちらに背を向けたまま言うのだ。
「お前にはもう厄介な精霊は付いてない、だとよ」
「……は……? でもこの前、街で」
「あれが他人からけしかけられた精霊だったとでも言えば理解できるか?」
一瞬の沈黙を経て、リアはようやく今の状況が仕組まれたものだったことに気付く。
リアが流れの傭兵に襲われた日。あのときすでに光華の塔から出てもいい程度に、精霊との距離は正常なものになっていたのだ。しかし誰かがリアの元へ精霊を遣わしたことで、その判断は見事に妨げられてしまった。
寺院の誤った判断によって再び光華の塔で謹慎生活を再開させることで、リアの居場所を特定しやすくすると同時に、獲物の捕獲さえ容易に進めたというわけである。
そして──この計画を考案したのは、恐らくエルヴァスティの大罪人とやらだ。
彼は光華の塔の仕組みを熟知していたのだろう。リアが弑神の霊木から離れられないことを見越して、この避難経路に伏兵を配置したに違いない。
「な……なんて気持ち悪い……監視でもしてたわけ……?」
そこまでして愛し子が欲しいのかと、全容の見えない目的を思っては身震いする。
しかし敵方の計画が分かったからと言って、今からリアに出来ることなどあるだろうか。滑り落ちてしまった洞穴はあまりに細く、それこそ光華の塔に囲われていた寵姫や女子供にしか通れないほどの狭さだ。もし助けを呼べたとして、一体誰を──。
「……!」
咄嗟に触れたのは、両耳で揺れる紫水晶。
やれるだろうか。否、やるしかあるまい。洞穴の外に生えている弑神の霊木から、リアは出来る限り後退して小さく口を動かした。
「……石に眠りし守護精霊よ。我が声に応え、勇敢なる銀影を導きたまえ」
呪文を唱え、背後の岩壁に親指を強く擦りつける。切れた皮膚から血が滲めば、やがて紫水晶から仄かな光が溢れ出した。
──よし、行ける……!
バザロフの遺跡で見たときと同じだ。宝石から涙のようにぽろぽろと落とされた光は、やがてリアが通って来た洞穴をふわりと駆け上っていく。
「おい、何をしてる」
「わあっ!? 何もしてない何も!!」
顔のすぐ横を素早く拳が通過した。飛び跳ねた心臓を押さえつつ確認してみれば、岩壁が少し抉れていた。素手で岩を砕く人間など初めて見たリアは、喉を引き攣らせながら正面を見上げる。
刺青の男はリアの怪しい動きを見咎めて戻ってきたようだが、幸い彼女が何をしたかまでは理解していない様子。怪訝な眼差しで洞穴を一瞥しては、すぐに踵を返──すことなくリアを脇に抱えてしまった。
「どわぁ!? あ、足浮いてる!」
「……いちいち騒がしい女だな。このガキを見習え」
「リュリュは元から静かすぎるだけよ!」
いつの間にかリュリュは刺青の男の肩に座り、寒そうにその頭にしがみつく始末。暖を取れればもう何でも良いのだろう。危機感など微塵も感じられない少年を見上げ、リアは溜息交じりに顔を覆った。