捨て猫少女
第9話 一緒に寝ても
「千夜美、おいで」


 両手を広げた男の人が、ひどく優しい声で『私』を呼ぶ。

 四本の足でとことこ彼に歩み寄ると、大きな手が『私』を抱き上げた。


「千夜美」


 ちよみ。
 でも、人前では恥ずかしいから、“ちょび”って呼ぶね。
 少し照れ臭そうに彼は言う。


(?)


 私に名前をくれたのはあなたなのに、どうして恥ずかしがるのかな?


(へんなひと)


 笑うかわりに「にゃー」と鳴く。

 彼は穏やかな瞳に映して、そっと床に下ろすと目を細めて体を撫でた。


「ちょび、綺麗な毛並みだね」


 その言葉にまた短く鳴いて、少し胸を張って見せる。


(ふふん!)


 毛並みには自信があるよ。
 だって――……あなたが洗ってくれたから。

 彼は、雨の中びしょ濡れになっていた汚い私を拾ってくれて、お風呂に入れて、よくわからない機械で毛を乾かしてくれた。
 それから、ご飯もくれた。とっても美味しい『おさしみ』っていう食べ物。


(ありがとう、――……ひろ)


 彼の友達は、彼のことを名前じゃなくてあだ名で呼んでいたから、私も真似をしてそう呼んでいた。



 ***



 でも、私はいつまでも彼と一緒にはいられなかった。


「捨ててきたなんて嘘をついて……! 見損なったぞ!! 母さんは猫アレルギーだと何回言ったらわかってくれるんだ!?」
「明日になっても捨てて来なかったら、保健所に持って行くからね!!」
「やだ……!! やめて!!」


 彼の家族が、私を飼うことに反対したからだ。
 だから、さようなら。


(ほけんじょ?)


 保健所は、私のように捨てられた犬や猫を殺す場所なのだと彼は泣きながら説明する。


「ずっと一緒にいたいのに……なんで……」


 千夜美を死なせたくないと、彼は私を抱きしめて何時間も悩んでいた。


「俺が……俺が大人だったら、そしたら……っ」


 ねえ、お願い。泣かないで。


「ごめん……ごめんな、ちょび」
(どうしてあやまるの?)


 大丈夫だよ。
 私はね、あなたにすごく感謝しているんだよ。

 だから、


「ごめん……」


 だからどうか、いつもみたいに笑って見せて?


(ねえ、きいて?)


 あなたが“おとな”になったら、私はまたあなたに拾われて……そうしたら、今度はずっとそばにいる。

 きっとあっという間だよ、すぐに会えるよ。
 私は必ず、あなたに会いに来る。

 だからどうか、泣かないで。
 そんなに自分を責めないで。


(――……、)



 ***



(!!)


 何だか変な夢を見て、真夜中に目が覚めた。
 私が今いるのは、ヒロトのベッドの上。

 ヒロトは最近“かいしゃ”っていう場所に行き始めて、私は夜になると一人で寝ることが多くなった。

 でもヒロトは優しいから、ご飯をちゃんと作ってくれていて、私はそれを食べてお風呂に入ったら眠るだけ。

 ヒロトが帰ってくるのは、いつも日付が変わった頃。


(……?)


 それにしても、なんだかおかしな夢だった。
 どこか懐かしいような、そうでもないような……。

 しばらくすると夢の記憶は薄れていき、まあいいやと再び眠ろうとしてみる。

 ……けれど、


(寝られない……)


 ふと、ヒロトがいるのか気になった。

 多分もう帰って来ているはずだけれど、それでもなぜかちゃんとこの目で確かめたくて。

 ベッドから降り、ヒロトの部屋を出る。


「……」


 忍び足でそろりそろりと廊下を歩くと、音を立てないよう慎重にリビングの扉を開けた。


(いた……!)


 絨毯の敷かれたフローリングの床に寝転がり、タオルケットをお腹にかけて眠っているヒロト。
 少しだけ開かれた窓から入り込む夏の風が、優しく頬を撫でて通り過ぎた。

 起こさないようゆっくりそばへ這い寄り、顔を覗き込んでみる。


(ヒロト……)


 一定のリズムで繰り返される静かな寝息。
 少しの間その寝顔を観察してから、ヒロトの隣に寝転んだ。

 体を近づけタオルケットを半分ちょうだいし、枕の代わりにヒロトの腕を頭の下に敷くと、


「ん……? あれ……ちょび……?」


 重たそうに瞼が持ち上げられ、まだ半分夢の中にいるような声で私を呼ぶ。

 それがなんだか可愛くて、くつくつと喉を鳴らした。


「ちょび……なんでここにいるの……? あれ……? 一緒に寝たんだっけ……?」
(やっぱり寝ぼけてる)


 違うよと小さく首を振ると、


「んー……だよね……まあいいや……」


 そう言って私の腰を抱き寄せるヒロトと、完全に密着する体。

 暑さのせいか、うっすらと汗が滲む。……顔も、あつい。


「ひ、ろっと、」
「ん……どうした……? 怖い夢でも見た……?」
「うっ、ん」


 普通の夢だったはずなのに、なんだか怖かった。

 ヒロトが、いなくなってしまいそうで。


「そっか……」


 腰に置かれていた手がゆっくりと移動し、頭を優しく撫でてくれる。


「大丈夫だよ」


 ヒロトが子守唄を口ずさむみたいに優しく言葉を紡いだら、それだけでもう怖さなんか吹き飛んだ。


「ひろ、とっ。も、と、」


 撫でて、と頭を擦り付ける。

 ヒロトはふっと息を吐くように笑って、


「ちょび……甘えん坊」


 前髪を指でかき分け、額にキスを落とした。


「ひろとっ」


 その体に力いっぱい抱きつけば、ヒロトは苦しそうに唸る。

 少し夢から覚めてきたらしい二つの黒いビー玉が、ひどく優しい色を滲ませて私を映した。


「ひっ、ろと」
「はい。なに? ちょび」


 なんでもない。
 でも、呼びたくなる。


「ちょび……もうちょっとこっち、」
「!」


 もう精一杯くっついてるのに、ヒロトはさらに私を抱き寄せる。

 枕を半分わけてくれると言ったけれど、ヒロトの腕がいいと駄々をこねてみた。

 彼はただ、


「……甘えん坊」


 笑い混じりにそう言って、大きな手で頭を撫でる。

 それから、タオルケットの半分を私のお腹にかけた。


「暑くてもお腹出してたら風邪引くから」
「か、ぜ?」
「そ。風邪」


 頭や喉や関節が痛くなって、熱が出る病気だと、ヒロトは説明を付け加える。


(ねつ?)


 熱ってなあに?と聞き返せば、彼は「体が熱くなることだよ」と教えてくれた。

 そっか……それじゃあ、


「わた、し、ねつ、」
「え? ちょび、熱あるの?」


 少し驚いた様子のヒロト。

 何度も頷いて、「ヒロトにくっついてると顔が熱い」……頑張ってそう伝えた。

 するとヒロトは、


「……ちょび。それ、風邪じゃなくて殺し文句だから……」


 呟くように言い、もう一度額に口づけを落としたその顔はなぜか嬉しそう。


(……“ころしもんく”って何だろう?)


 知りたかったけれど、まどろみが私を飲み込んで、


「おやすみ……千夜美」


 優しい声が耳を撫でたから。

 目にふたをして、鈴虫の子守唄を聞きながら眠りに落ちた。


(おやすみ、――……ひろ、)
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