夕ご飯を一緒に 〜イケメン腹黒課長の策略〜
3.
客先への挨拶は無事に済んだ。
幸い私のことを気に入ってもらえたようで、「これからもよろしくね」と、笑顔で言ってもらえた。
凄くホッとした。
「久保田さん、今日はありがとうございました」
会社に戻って、エレベーターを待っている間に頭を下げる。
久保田さんは、緊張してうまく話せない私をさり気なくフォローしながら、その場の雰囲気を作ってくれた。
「お疲れ様でした。良かったですね、無事に引き継げて」
柔らかい、綺麗な笑顔に癒される。
「いろいろと、お気遣いありがとうございました」
「いえ、それが仕事ですから」
スマートに笑うなあ、とつい見とれてしまった。
この笑顔はよそ行きだ。さっき客先で見せてた笑顔と一緒。中村さんが言うところの「能面みたいな爽やかスマイル」だ。
それでも充分癒される。
けど、昨日みたいな本物の笑顔も見たいなあと思うのは、贅沢だろうか。
あの笑顔、良かったなあ、自然で。
どういう時に、見せてくれるんだろう。
『あいつが笑うのなんて……』
中村さんが言ってた。
知ってるんだ、きっと。久保田さんが本当に笑うのがどういう時なのか。
中村さんは、ツンケンしてるけど、久保田さんのことは信頼していることがわかる。久保田さんも同じように思っているらしく、中村さんには他の人とは違う顔を見せる。
仲がいい、と言うと中村さんは凄い勢いで否定するけど、実際仲はいいと思う。社内で、付き合っているのでは、と噂されたこともあるらしい。でも、2人の雰囲気はそういう甘いものではなくて、中村さんは久保田さんには言いたい放題だし、久保田さんは苦笑、時には嫌味で応酬している。仕事を挟めば時には険悪にすらなるらしい。そのうち噂は立ち消えたそうだ。
「じゃあ木曜日に、またよろしくお願いします」
久保田さんはそう言ってエレベーターを降りて行った。
3日後の木曜日、また今日の顧客と打ち合わせをすることになった。
打ち合わせは緊張するけど、また久保田さんと出かけられると思うと、ちょっとテンションが上がる。
やっぱり、目の保養というか、心の栄養というか、大事だよね。
私は木曜日を楽しみにしながら、でも浮かれてしまわないように気を引き締めて仕事を進めた。
そして、木曜日。
間の悪いことに、朝から体調が良くない。
喉がイガイガしていて、少し咳も出る。
熱はないので、マスクをして出社した。
中村さんや西谷さんに心配されたけど、予定通りに打ち合わせに出かけた。
そうして先方に訪問したら、なんと担当の女性は本日欠勤で、代理の人が打ち合わせをするのだと言う。昨日から、高熱で動けないのだそうだ。
私のこの風邪、もしかしてあの女性から移ったんだろうか。
潜伏期間を考えると可能性は高い。よく聞くと症状も似ている。
「あーもしかしてこの前の時に移っちゃったのかもしれませんね……申し訳ありません」
と、代理の人は言ってくれたけど。
だとしたら、私ももうすぐ高熱が出る?
目の前の空気が、一瞬ゆがんだ。
ビルの2階にある客先を出て、階段を降りていた時だ。
慌てて手すりにつかまる。
「小平さん?」
少し先の段を降りていた久保田さんが振り返る。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ……」
階段の下から見上げる顔も綺麗だな、と思ったら、その綺麗な顔が揺らめいた。
階段が回りながら迫ってくるようだ。
必死で手すりを握りしめた。今確かなのは、そのヒヤッとした硬い感触だけだ。
久保田さんが戻ってきて、私の顔を覗き込む。
「小平さん?大丈夫ですか?」
今までで一番近い距離。でもドキドキする余裕もない。
「大丈夫、です。ちょっとクラッとしただけで」
階段に座って深呼吸をすると、少し落ち着いた。
喉が熱い。頭がぼーっとしてくる。
熱が出たんだな、と思った。
何年ぶりかな。少なくともここ10年は熱なんか出してないから、大分久しぶりだ。
のんきにそんなことを考えていたら、「ちょっと失礼」とおでこにヒヤッとしたものがあたった。
「あっつ……」
低い声が聞こえた。
久保田さんの手が、私の方に伸びてきている。
あれ、この冷たい柔らかいものは、もしかして、手?
「小平さん、熱ありますよ」
ぼーっとする視界に、久保田さんの顔が入ってくる。
綺麗な顔だなあ、と見つめていたら、その顔が苦笑を浮かべた。
「会社に戻ったら定時になるし、このまま帰ってもいいんじゃないですか?」
頭の中もぼーっとしてきて、言葉の意味を理解するのに時間がかかる。
「そう、でしょうか……」
ぼんやりと返事をすると、おでこの冷たい感触がなくなった。
久保田さんはスマホを出している。
「西谷さんに話してみます」
スマホを操作する手を見て、手も綺麗だなあなんて思ってしまう。
その間に、久保田さんは会社に電話をして、西谷さんと話していた。
私はどうやら直帰できることになったらしい。
ぼーっとした頭に思い浮かんだことが、そのまま口に出た。
「良かった……私で」
「え?」
電話を切った久保田さんが振り返る。
「もし本田さんだったら、大変……」
本当に良かった。あの時、わざわざ来ると言った本田さんを止めて。
本田さんと須藤さんの、ほわほわした後姿を思い出す。
あのほわほわが、壊れなくて良かった。
久保田さんは、ぼーっとしながらそんなことを思っている私を見て、ふっと笑った。
ああ、いい笑顔見た。
この笑顔で、10日は元気に働ける。
ぼーっと久保田さんの顔を見ていたら、久保田さんの手がスッと目の前に出された。
「立てますか?」
頷いたけど、体は思うように動かない。
久保田さんに支えてもらって、なんとか立ち上がる。
「まず、病院に行きましょう」
「びょういん……?」
「インフルエンザの検査、した方がいいですよ。今の時期、突然高熱が出たら、可能性は高いから」
病院なんて、行ったのはいつ以来かな。
どこの病院に行ったらいいのかもわからない。
知ってる病院といえば……。
「タクシー来ましたよ」
久保田さんが呼んでくれたんだろうか。目の前にタクシーが停まっている。
ドアが開いたので乗り込んだ。
「久保田さん、ご迷惑をおかけしまし……」
言いかけたら、ドアが閉まって、久保田さんが反対側からドアを開けて乗ってきた。
「え……」
驚いて声を上げると、久保田さんはなんでもなさそうな顔で言った。
「そんなフラフラで、このままだと運転手さんに迷惑かけちゃいそうですからね。どこの病院行きますか?」
「あ……はい」
運転手さんに、少し遠いけど、と病院の住所と名前を言う。
「はい、えーと、久保田クリニックね」
初老の運転手さんは、ナビに目的地を入れて、にこやかに車を発進させた。
運転手さんに復唱されて気が付いた。
そういえば、同じ『久保田』だ。
「……小平さん、本当にそこに行くんですか?」
久保田さんが、目を見開いている。
「知ってる病院って、そこしかないので」
「小児科、ですけど」
あれ、知ってるのかな。そう、久保田クリニックは間違いなく小児科だ。
「はい、診察券はあります」
「え、なんで?」
「インフルエンザの予防接種を、子どもと一緒に久保田クリニックでしてるんです」
「ああ……」
「家からも近いですし」
「そうですか……」
久保田さんは、苦笑して言った。
「あの、実は、久保田クリニックの院長は僕の母親です」
熱のせいでぼーっとしてるけど、聞き間違いかな。
「小平さん、聞こえてますか?」
「え、っと……?」
久保田クリニックの院長は女性だ。真理子先生と呼ばれて、子どもにも親にも大人気。
「久保田真理子は、僕の母です」
「……」
ええー‼︎と叫び出したかったけど、そんな力は残っていなかった。