夕ご飯を一緒に 〜イケメン腹黒課長の策略〜


 ゆっくりと、彼女の頭をなでる。
 彼女は恐る恐る開けた目を丸くして、僕を見ている。
「まだ、怖いですか?」
 彼女は動かない。
 膝の上の手をそっと包む。
 握られていた彼女の手から、少し力が抜けた。
 包み込んで、しっかりと握る。
「これでも、まだ、かな?」
 彼女はまだ動かない。
 握られた手をじっと見ている。
 僕は、その手を引いた。
 胸に抱き寄せて、頭をなでる。
 彼女から、ため息とささやきが漏れた。
「……あったかい……」
 思わず笑ってしまう。
「小平さんも、あったかいですよ。カイロみたい」

 部屋は充分な温度のはずなのに寒かったさっきまでとは、全然違う。
 満たされた、あったかさ。

「……まだ、怖いですか?」
 彼女は答えない。
 僕は、彼女の頭をなで続ける。
「僕も、怖いです。このあったかさが無くなってしまうかもしれないって思ったら、怖くて動けなくなる。でも、もうこのあったかさ無しでは動けない」
 彼女が顔を上げた。
 目が合う。
「どっちにしろ、動けなくなる。だったら、あったかい方がいいでしょう?」
 目をぱちぱちさせている。

 何度か見た表情。愛おしい。

「このあったかさは、他の人には絶対に無い。だから、僕は離したくない」

 彼女の言葉を借りる。

「小平さんは今まで通りで大丈夫かもしれないけど、僕は大丈夫じゃない。実際、そうだったでしょう?」
「あ……」
 昨日からの僕の様子を思い出したように、彼女が声を漏らした。
「お願いです。僕から、このあったかさを奪わないでください」
 もう一度抱き寄せる。
 今度はしっかりと。
「僕は、僕の意思でいなくなったりはしません。ずっとそばにいます」
 力を緩めると、少し体が離れた。
「だから、こうやって」
 彼女の手を取る。
「一緒に、帰ってきましょう。それから、夕ご飯食べましょう。太一君と、3人で」
 彼女は僕の顔と、握られた手を見る。
「……毎日?」
「そう、毎日」
 探るように見る彼女と目を合わせる。
「もう嫌だって言っても離しません。僕、独占欲強いんで、覚悟しといてくださいね」
「え……?」
 さっきの彼女の話で、引っかかったことがある。
「中村さんは、いつから『歩実ちゃん』って呼ぶようになったんですか?」
「え?」
 鳩が豆鉄砲くらった、という表情だ。
「前は『歩実さん』だって言ってたのに」
「あの……昨日、です。私が『美里ちゃん』って呼んでるんだからいいでしょって……」
「じゃあ……」
 『さん』よりも『ちゃん』よりも、近い呼び方。

「歩実」

 もう一度抱き寄せる。
 彼女は息を飲んで、固まってしまった。

「歩実、大丈夫?」
 背中をさする。
 彼女は固まったままだ。
 心配になって顔を見ると、真っ赤になっていた。
「あの……びっくりして……」
 思わず笑ってしまう。可愛い。
「ほら、歩実も」
「え?」
「呼んで。名前」
 彼女は恥ずかしそうに目を伏せた。
「け、圭さん……」
「さんはいらないよ」
「え、あの……むりです……」
 段々声が小さくなっていく。
 背中の手を頭に回して、なでながら言う。
「まあいっか。時間はたっぷりあるし」
「久保田さん、口調が」
「ん?」
「敬語じゃなくなって……」
「そう。歩実も、そうして」
「は、はい……違った。えっと……」
 彼女は頷いた。
 どうやらそれが精一杯のようだ。
 それも愛おしい。
「ヤキモチ、妬いてたんですね……美里ちゃんに」
「独占欲強いって言ったでしょう?」
「でも……美里ちゃんは女性ですよ。あっじゃああの時も?」
「いつ?」
「あの、階段で、西谷さんと別階に行った時です」
「ああ、あの時」
 もう苦笑するしかない。
「後で、西谷さんがわざわざ来たよ。元カノとヨリが戻りそうだから、歩実とはなんでもないって」
 はあっと、彼女がため息をつく。
「ほんとに、ヤキモチ……だったんですね……」
 僕は頷いた。
「ほんと、自分でも驚いた。さっきも我慢するの大変だった」
「さっきって?」
「太一君の父親の話。最低野郎な上に、歩実にトラウマまで残してる。10年以上も経つのに」
「忘れてましたけどね。大変過ぎて」
 彼女は苦笑する。
「産むって決めてからは、本当に怒涛の日々でしたから」
「……こういうことを聞くのは無神経かもしれないんだけど」
 ふふっと彼女は笑う。今から聞くことが予想できてるみたいだ。
「どうして産むって決めたのか、ですか?」
 僕は頷いた。

 知りたかった。彼女のことを。何を考えて、どうしてそう決めたのか。
 彼女を知るには、そこは避けて通れないと思っていたから。

 彼女は懐かしそうに話す。
「彼がいなくなって、ショックで、打ちのめされるってこういうことなんだなって思いました。もうどん底。目の前真っ暗、頭の中真っ白になって。その間にお腹の中では赤ちゃんはどんどん大きくなって、もう決めないといけない時期になっちゃって。産むか、堕ろすか。でも、赤ちゃんはここにいるのに」

 お腹に手を当てる。そこに、太一君がいたんだなと思う。

「殺してしまうなんてできなかったです」

 静かな、芯のある声。

「それからは、子どもと一緒に生きていくための方法を考えました。大学をやめて、親に報告して。もちろん大反対されましたけど、後戻りはできない時期だったので、どうしようもないって思ったみたいです」

 両親は直接説得しに来たらしい。生まれた子は養子に出す、という提案もされた。さすがに揺らいだけど、決心は曲げなかったそうだ。

「職業訓練を受けて、資格を取って、就職活動もして。就職は無理でしたけど。働けるだけ働いて、生活費も稼いで」

 実家に戻っても田舎は仕事がないから、と、そのままここで暮らすことを選んだ。

「太一が生まれて、それからはもう記憶がないくらい大変で。正直、後悔もたくさんしました。太一の顔が、まともに見られなかった時もありました。いつも何かに追われてる感じで、体も心も全然休まらなかったです」

 それでも、と彼女は言う。

「それでも……太一がいる幸せを、手放すなんて、できなかった。太一と一緒にいられるなら、何があっても大丈夫だって」
「電車の中で倒れても?」
「えっ?」
 彼女が目を見開く。
「太一君から聞いた。当時、自分は1年生で何もできなかったって」
 ああ、と彼女は苦笑した。
「あの時は、弥生さんに叱られました。『本末転倒って言葉を知ってる?』って」
 ははっと笑う。
「でも、太一のためだけじゃないんですよ」
 苦笑が消えた。静かな笑み。
「自分のためなんです。今の仕事はやりがいもあって、楽しいし、ずっと続けたいんです」

 彼女の芯の強さが見えた気がした。
 自分というものを、ちゃんと持っている。母親は、その一面に過ぎないんだろう。

「自分のことばっかり考えて、母親としてはダメダメなんですけどね」
「そんなことはないでしょう。太一君はいい子に育ってる」
「そうでしょうか」
 僕は力強く頷く。
「ちゃんと人を思いやることができる。今日だって、歩実をここによこしてくれた」
 少し離れた体を抱き直す。
「歩実にとっていいことだって、思ってくれたんだよね。太一君に感謝しないと」

 彼女から、ふわっと優しい甘い匂いがした。
 いつもの小平家の匂いだった。
 安心する。
 同時に、湧き上がってくる愛おしさ。

「太一君も、僕を混ぜてくれるかな」
 そう言ったら、彼女はふっと笑った。
「それは、太一に聞いてみないと」
「僕から聞いてもいい?」
「それは……私が話します。多分、今から帰ったら、報告しなきゃいけないと思うし」
 少し不安そうな表情。
「なんて言えばいいか、わかりませんけど」
「正直には言えないの?」
「言えますよ。でもなんか……初めてだから、こういうの」
「初めて……」
 彼女は頷く。
「今までは、太一を育てるので精一杯で、それ以外のことは手が回らないというかなんというか」
「誰かに言い寄られたりしなかった?」
「そんなのないです」

 慌てて首を横に振る彼女は可愛い。贔屓目を差し引いても、充分に男の目を惹くだろうと思う。
 寄ってくる男はいたけれど、彼女が気付かないまま終わってしまったということはあっただろう。

「そっか」
 僕は微笑んだ。

 それならそのままにしておこう。
 知らなくてもいいこともある。

「僕は、歩実と太一君のそばにいられれば、どんな形でも構わないよ。だから、すぐに何かを変えようとしなくてもいい。太一君を最優先にして考えて」
 彼女は頷いて、僕の肩に頭を乗せる。
「ありがとう、ございます……なんか、いいのかな……」
 その仕草が可愛くて、体が騒ぎ始める。
「何が?」
「こんな……一気に幸せになっちゃって」
 照れながら笑う彼女は、本当に愛おしい。
 この前は我慢した唇にそっと触れる。
「幸せ?」
 彼女は頷く。
「太一が生まれた時と同じくらい幸せです」
 そう言って微笑む彼女と目が合った。
 我慢なんて、できるはずがない。

 唇を合わせる。
 一度触れたら、止まらない。
 深くしていくと、彼女も応えてくれる。
 今まで感じたことのない気持ち良さに、体が震えた。




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