中古車
cast
斉藤 勇作 36歳 中古のオートバイを海外へ輸出する仕事
明美 34歳 妻 塾の講師
梨香 5歳 一人娘
村上 冴子 安藤紫が改名 カートーヨーカ堂で保安員を
していた女になりすます
平野 伸太郎 以前に村上冴子と付き合っていた
磯貝 洋平 勇作の友人 美容師の小夜子と付き合う
板垣 順平 22歳 板垣モータースの専務 実質的な経営者
香月 22歳 妻
拓也 息子
波多野正樹 君津署の刑事 生活安全課
古賀 千秋 22歳 マリア幼稚園で働く保母
手塚 奈々 22歳 イエローキャップ自動車用品販売店
からパイナップル自動車買取店へ転職
美容師の男 フォルクスワーゲン ビートルが自家用車
小夜子 美容室アベニューのトップスタイリスト
リ ボ ン 幼稚園の向かいの家で買われている犬
prelude 1 2006年
板垣順平は二十二歳で役職名こそ専務だが、中古車販売店の板垣モータースの実質的な経営者だった。身長は180cmを超えて、中学時代はサッカー部のエース・ストライカーだ。肩幅は広く骨格はしっかりしていたので、若造じゃないかと、誰からも馬鹿にされることはなかった。少し太ったからだろうか、最近は貫禄さえ漂わせるほどだ。物腰が低くて信頼できそうな男、という好印象を客に与えた。
それまで元気に会社を仕切っていた父親は、急に体調が悪くなって入退院を繰り返していた。母親も順平が妻の香月と一緒になると間もなく交通事故で亡くなった。息子の結婚には強く反対していたので、嫁と姑の確執が心配された。その意味では順平は助かったと思う。
「すっげえ綺麗な女の人でした。パープルのスラックスに黄色のブラウスが決まっていて、まるでモデルみたいな感じでした」
「……」それなりの反応を従業員は期待したんだろうが、専務の肩書きを持つ板垣順平は頷くだけだった。
「しっかり書類は確認したんだろうな」
「そりゃ、もちろんです」
「そうか」
「見て欲しかったな。あんな美人は――あっ、いいえ、専務の奥さんほどじゃありませんでしたが……」
「わかった」
これ以上は従業員と無駄話を続けたくなかった。板垣順平は腑に落ちない。何か嫌な事が起こりそうな不安な気持ちが、どうしても拭えなかった。
順平が妻の香月と息子の拓也を連れてグアム島へ旅行している時だ。宿泊してるウェスティン・リゾートへ従業員から国際電話が掛かってきた。何事が起きたのかと驚いた。しかし話は、飛び込みの客がBMWを持ち込んで幾らでもいいから買い取ってくれということだった。
自分が会社にいない時は、一般の買い取りはしないという決まりがあった。ところが持ち込まれたBMWは以前に、うちが販売したクルマだった。しかも程度は極上で、持ち込んだ女は安くても構わないから引き取ってくれと言う。いい儲け話になりそうだと従業員は舞上がった。ぜひ買い取るべきだと国際電話をしてきたのだ。順平は従業員の熱意に押された。年式を考慮してお60万円以内に収まるならいい、と許可を与えた。
帰国して、そのBMWを目にして驚く。6年ほど前に販売した時と同じぐらいコンディションが良かったのだ。走行距離だけが5千キロほど増えていた。リペイントでもしたのだろうか。
どうして、うちに持ち込んだのかも理解できなかった。国道127号線に店舗を構えるパイナップルだったら、もっと高く買ってくれたはずなのに。
気になったので板垣順平は6年前の帳簿を出してきて、売った相手を調べた。平野伸太郎という若い男だ。はっきり覚えている。背が高くて痩せていた。なかなかの男前で女にモテそうな感じだ。そう言えば、あの時は女連れだった。ただし女とは順平は顔を合わせていない。下取り車として乗ってきたスバルのヴィヴィオの助手席に座ったままだった。サングラスを掛けていた。外に出たのは販売したBMWに乗り込む時だけ。後ろ姿しか見ていない。背中まで伸びたウェービーな髪が印象に残っただけだ。その女が今回、売りに来たのだろうか。
書類は印鑑証明から委任状まで全てが揃っていた。女の名前は村上冴子だ。従業員が言うには、相当に綺麗な女らしい。
BMWは318iというモデルで、色はトルマリン・バイオレットだった。滅多に見ないカラーだ。それゆえに欲しい人にとっては、少しぐらい多く金を払っても手に入れたいクルマになる。
板垣モータースが最初に仕入れたのは、中学時代のクラスメイトの母親からだ。彼女は再婚相手に新車で買ってもらう。離婚しても手放さなかった。再婚した男が娘に性的虐待をしていたことが発覚したからだ。刑事事件にすべきだったが、セキスイハウスで建てた家と多額の慰謝料で示談が成立した。表沙汰にはならなくて男は市役所の仕事を失わなかった。それどころか思春期の瑞々しい少女の身体も忘れなかった。酒を飲んだ勢いで夜中に、以前は義理の娘だった少女の部屋に忍び込む。二人は揉み合いになって男は不覚にも命を落とした。現場には不自然なところが多く見つかって少女は過剰防衛を疑われる。母親は娘の為に弁護士を雇うことになって、気に入っていたBMWを仕方なく売却したのだ。
その事情を順平は詳しく知っていた。そして今回の件だ。どうして、うちに戻ってきた? それもオレが、たまたま不在の時に。理解できない。売買益を期待して舞い上がった従業員とは反対に、なにか不吉な予感を覚えた。
BMWは2002年に車検が切れたまま継続されていなかった。こんなに程度のいい車なのに不思議だ。村上冴子という女は、わざわざ車検を取って持ち込んだらしい。そうする意味が何かあったのか。4年間の空白は理解できない。
紫というカラーも気に入らなかった。順平にとっては不気味な感じしかしない。大きく値引きしても早く売ってしまいたい。この板垣モータースの敷地内から早く消えて欲しかった。
現在、2台のBMWが店頭に並べてある。どちらも程度は極上で売れていくのは時間の問題だろう。
電話が鳴った。
板垣順平は反射的に受話器に手を伸ばす。思考は仕事モードに変わった。「はい。板垣モータースです」カーセンサーを見た客からの電話らしい。
「ええ、まだあります。いつでも見れますよ。はい。書かれている通り、程度は極上です」
ミスティック・ブルーのBMW 5MTモデルに対する問い合わせだった。
prelude 2 2000年
トルマリン・バイオレットのBMW318iが再び極上車として板垣モータースの店頭に並ぶ6年前。
「あんた、他に好きな女ができたの?」助手席に座る女がハンドルを握る男に訊いた。
「……」沈黙が答えだった。
「そうなの」女は言葉こそ穏やかだったが、心中は怒りが込み上がっていた。
「車の頭金は少しづつでも必ず返す」別れたいという意志をハッキリと男は口にした。
いま運転しているBMW318iは、購入するのに女が頭金を出したのだ。
「どこの女よ?」
「……」男は答えない。
「どこの女だって、訊いてるの」女は口調を強めた。
「そんなこと関係ないだろう」
「いいえ、関係あるわ。話をつけやるから」
「ダメだ、それはさせない」
「どうして?」
「もうオレの気持ちは変わらないからだ」
「これまで散々あたしの身体を楽しんできたのに、よくもそんな口が利けるわね」
「お互い様じゃないか」
「違うわ。あんたがベッドの上で楽しめるように、あたしが尽くしたからよ」
「……」
「一方的に別れるなんて許さない」
「気持ちの問題だから、もう仕方ないんだ。車の頭金は返すから」「あたしと別れても、このBMWは持っていたいんだ。なんて都合がいいのかしら」
「じゃ、くれてやるさ。持っていけばいい。紫色なんてオレの趣味じゃないし。BMWに乗れるならと車のカラーは妥協したんだ」
「いい色だって言ってたじゃないの」
「あの時は、お前に夢中だったからだ」
「じゃ何で今は違うのよ」
「怖くなったんだ、お前のことが」
「どういうこと?」
「……」
「あたしのどこが怖いのかしら?」
「あの娘は失明したらしいぞ」
「……」
「聞いているのか? お前に頼まれてコーヒーを飲ませた娘は、目が見えなくなったんだ」
「関係ないんじゃないかしら」
「ウソつくな。お前はコーヒーに何か劇薬を混ぜたんだ。そうに違いない」
「大丈夫、警察にはバレたりしない。心配しないでいいわ」
「ふざけんな。これは犯罪だ。畜生、オレを巻き込みやがって。言う事を聞いたオレがバカだった」
「もう終わった事よ」
「よく、そんなふうに言えるな。良心の呵責っていうもんがないのか、お前には?」
「あるもんですか。あの娘は当然の報いを受けたのよ」
「お前に何をしたって言うんだ、あの小娘が?」
「あの子の祖母に、あたしの少女時代はメチャクチャにされたの」
「じゃ、あの娘は関係ないじゃないか」
「いいえ、あるわ」
「意味が分からない。あの子の祖母だろう、お前が恨みを持っているのは?」
「そうよ」
「だったら何であの娘を失明させたんだ」
「祖母が一番苦しむことをやってやったのよ」
「……」
「あたしは本人には仕返ししない主義。そいつが最も苦痛に打ちのめされることを探し出して実行するだけ。ターゲットになるのは子供とか孫の場合がほとんど」
「信じられない。そこまでするのか。お前は恐ろしい女だ」
「あなたは当事者じゃないから、……分からないだけよ」
「それだけじゃない、お前は何か重大なことを隠している」
「さあ、何かしら」
「お前は一体、誰なんだ?」
「あんたの知っている女よ。それ以外の誰でもないわ」
「嘘だ」
「あんたと結婚の約束をした村上冴子よ」
「信じられない」
「どうして?」
「じゃあ、安藤紫って誰だ?」
「……」女は返事ができない。
「箪笥の引き出しの奥に隠してあった、古い身分証明書を見つけたんだ。お前のだろう?」
「……」
「お前は村上冴子なんかじゃない、本当は安藤紫なんだ。それで紫という色に執着するのが納得できた。どうして他人になりすましたりするんだ?」
「そうしなきゃならない事情があったのよ。話せば長くなるわ」女は白状した。
「お前がオレの仕事や生活のことに口出しして、何でも全てコントロールしたがるのが分かった気がする。身分を他人に変えてるからだ。そんなこと、そう簡単にできることじゃないぜ。もしかして警察に追われているのか?」
「それはないと思う」
「思う? 確かじゃないのか」
「あたしの言う通りにしていれば何も問題はなく生きていけるわ」
「世間から隠れて生活するのか。そんなのゴメンだ」
「……」
「頼む。オレと別れてくれ」
「あたしと別れて、その女と一緒になる気?」
「そんなこと、まだ分からない」
「じゃ、まずあたしと別れて身をきれいにしておきたいんだ」
「……」
女は男の沈黙を問いに対する肯定と受け取った。捨てられた。もう二度と元には戻れそうにない。自分は男に捨てられたのだ。
自分がダメな男を見限るということはあっても、その逆は今までになかった。ほかに好きな女が出来たなんて初めて言われた。信じられない。この自分よりも、いい女なんかいるハズがないのに。屈辱的だった。幸せな家庭を築きたいという夢が、また破れた。
許せない。この男と、唆した尻軽女を罰してやりたい。女の頭に血が登る。怒りは頂点に達した。
咄嗟にハイヒールの片方に手を伸ばすと、その踵部分で運転中の男を殴りつけた。BMWがどうなろうと考えなかった。ただ怒りしかない。
不意を食らった男はハンドルから片手を離して顔を押さえた。正面に向けていた視線も外すことになった。その動作がトルマリン・バイオレットのBMWを大きく反対車線にはみ出させる結果をもたらす。
丁度その時、下りの車線ではグリーンのマツダRX-7が城山トンネルを出たところで、前を走る高齢者運転マークを付けた白いプリウスを追い越してやろうと、二十代の若者が強くアクセルを踏んだところだった。
別れ話をしていた男と女は、いきなり前方に眩しい光が現れたことに驚く。対向車だ。ぶつかる。
物凄い衝撃が二人を襲う。
前方へ投げ出されようとしたところで、エアバッグが開く。全体が激しく回転し始めた。シートベルトが肩と腹部に食い込む。息苦しい。しかし音はなかった。それほど痛みもない。静かな中ですべてが起きる。そして、すぐに何も感じなくなった。
prelude 3
釣り仲間を乗せた白いステップ・ワゴンが、大房岬から木更津市へ向かって国道127号を北上していた。
全員が疲労困憊だ。仲間だけが知る、いつも釣れた穴場が今日は全然だったからだ。無駄足で疲れただけ。一刻も早く自宅へ帰って休みたいというのが仲間全員の一致した考えだった。
どうして今日は釣れなかったんだろう、ハンドルを握る50代の男は運転しながら、ずっと同じことを考えていた。
「ああっ」
目の前で起きた出来事に思考は現実へ。無意識に叫んでいた。同時に大音響がして、車内で心地良く居眠りしていた他の3人が目を覚ます。「えっ」
すぐさま事態を把握した。前方を走っていた紫色の乗用車が緑色の対向車と正面衝突して回転し始めたのだ。ガタン、ガタンという物凄い音を伴ないながら。火花も散った。
反対車線のグリーンのスポーツカーは、山を削って出来た高い壁へ弾き飛ばされた。そこへ後続の白い乗用車が避け切れなくて突っ込む。また大音響。
50代の運転手は事故に巻き込まれないように急ブレーキを踏んだ。スピードが落ちたところで車を路肩に寄せる。映画みたいなシーンを間近で見て全員が身動きできない。
「おい、助けに行かないと」一人が気づいて仲間に声を掛けた。
「ああ」
「待て。ガソリンに引火して爆発するんじゃないか」
「そうだ。その可能性はある」
「でも近くまで行ってみよう。まさか見殺しには出来ないぜ」
「よし。急ごう」
反対車線でも後続の車が停止すると、運転手や同乗者が降りてきて事故を起こした車に駆け寄っていた。
4人が大破した自動車の前まで来た。「大丈夫か?」反応を期待して声を掛けた。
現場は自動車同士が衝突した凄惨な有様を見せていた。ガソリンと熱せられた鉄が出す臭いが鼻を衝く。割れたウインドウ・ガラスとヘッドライトの破片が散乱する。ボンネットは外れ、エンジンが飛び出ていた。ラジエター・ホースから漏れた冷却液が熱で音をたてながら蒸発する。車内には二人の男女がいることを確認した。
フロント・ウインドウはヒビが縦横無尽に走っていたが、怪我人を助け出すほどの穴は開いていなかった。
「だめだ。こっちのドアは開けられない。ビクともしねえ」運転席から若い男を助け出そうとした一人が言った。
「おっ、こっちは開いたぞ。おい、大丈夫か?」もう一人が助手席の女に声を掛けた。でも反応がない。「おい、手を貸せ。オレ一人じゃ無理だ」
「これ、BMWじゃねえのか」三人掛かりで女を車から出しながら一人が言った。
「じゃ、外車か?」
「そうだ。まだ新しいぜ」
「勿体ねえ」
「おい、大丈夫か?」助け出した女に声を掛けた。
「こりゃ、厳しいぜ」抱えると女は、だらんと首と両手を下ろす。意識はない。
「息はしているか?」
「分からねえ」
「そこの歩道に寝かしておこうぜ」
「待ってろ。オレがステップ・ワゴンから寝袋を取ってくる。直に地面じゃ可哀想だ」
「頼む。それと誰か警察に連絡してくれ」
「オレがしよう」
応えた仲間が携帯電話を取り出して警察を呼び出す。残った3人が運転席の男を助手席側から助け出そうとするが、なかなか上手くいかない。「こいつの足が挟まっているみたいだぜ」
「マジか?」
「おい、ここはどこだ?」警察に電話をしている一人が戻ってきて訊く。
「さあ、どこだろう」
「それが分からないと警察が来れねえ」
「竹岡あたりじゃねえのかな」
「おい、あそこに城山トンネルって英語で書いてあるぜ」
「あっ、本当だ」携帯電話を持つ男が、確認の為に仲間から離れてトンネルの近くまで行く。「分かりました。城山トンネルを出たところです。その館山側にいます」声が三人にも届く。
「おい、大丈夫か?」一人が運転席の男に声を掛ける。
「足は挟まったままか?」
「いや、何とか取れそうだ」
「よし、頑張れ」
3人は苦労したが男を車から降ろした。「おい、大丈夫か?」
「……」
「こいつもヤバそうだな」
「いや、息はしているぞ。いま胸が動いた」
「よかった」
「おい、女はどうした?」警察との通話を終えた一人が戻ってきて訊いた。
「そこに、寝袋の上――。え、あれっ?」
「いねえぜ」
「そこに寝かせたはずだぜ。なあ?」
「そうだ。どこに行ったんだ、あの女?」
「もしかして意識が戻ったのか」
「でも重傷には変わりないぜ」
「出血も酷かった」
「遠くには行けないはずだ」
「みんなで捜そう」
「早く見つけないと、すぐに暗くなるぜ」
「下り方向だけでいい。ここから上りは、もし女が通ったとしたらオレ達が気づいているはずだから」
釣り仲間が辺りを捜し始めた。「すいません。怪我した女の人を見ませんでしたか?」近くの民家から出てきたと思われる地元の人達にも声を掛けた。
何分かすると救急車とパトカーがサイレンを鳴らして到着した。
まだ女は見つからない。仕方なく救急車は若い男二人と。白い乗用車に乗っていた老夫婦を乗せて立ち去った。警察も加わって怪我した女の捜索が続く。
「オレたち、いつ帰れるんだろうか?」
「分からねえ。たぶん、あの女が見つかるまでは無理じゃないか」
「マジかよ」
「もう疲れた。ヘトヘトだぜ」
とんでもなく面倒な事に巻き込まれたらしい。これからどうなるんだろうか? 釣り仲間の全員が不安を持ち始めた。女は姿を消したままだった。
01 2006年
「またダメって、どうして? これで二回目ですよ」斎藤勇作は声を荒げた。
中古のオートバイをオランダへ輸出するのに、船積みを予定していた船にスペースが無くなって載せられない、と運送会社のバンテックが言ってきたのだ。
横浜の本牧から送って現地に到着するまで約3ヶ月ほど掛かる。夏のシーズンが始まる前に届けなければならない。ここにきて2度目のキャンセルなので腹が立った。
「このフォールトレーサーっていう船には、どうしても乗せてもらいたい。次の船じゃダメなんです。お願いしますよ」
努力してみるという言葉を相手から引き出して受話器を置く。怒りは治まらない。安心できなかった。日産の自動車を専門にヨーロッパへ輸送する船に、なんとか空いたスペースに中古のオートバイを載せる予定だった。ところが運送会社と話がまとまった時から急速に円安が進んでしまう。すると相手は態度を変えた。なんとか多くの自動車を積載して為替利益を出そうとするのだ。斎藤勇作の依頼は二の次になっていた。
今から他の船会社を探すしかないのか。じゃ、ハパックロイドはどうだろうか。東京の電話帳を手にしてベージを捲ろうとすると、五歳の娘が事務所として使っている部屋に入ってきた。
可愛い。一瞬で仕事の問題が頭から消えていく。
「パパ」
「どうしたんだい、梨香ちゃん」何かを頼みにきたらしい。なんだろう。
「あのね、ドラエモンのビデオを借りに行きたい」
「日曜日に見たのに、また見たくなったのかい?」
「うん」小さい身体を摺り寄せてくる。媚を売ることを、この歳で知っているのだ。
「今日は、……なあ」
「行きたいの」
「パパは忙しいんだよ」
「お願い」
「でも、な」
「昨日、約束したじゃない」
「……」また同じ手を使う。約束したのに父親が忘れていると思わせる気だ。
「いいや、パパは約束なんかしていない」
「したもん」
「してません。ウソをついちゃダメだろう、梨香」斉藤勇作の口調は強かった。
夕飯の後でドラエモンのビデオを借りに行って一緒に見ると、昨日の夜に約束したと、娘は言い張っていた。
ここで断固とした態度を取らないと、このままズルズルと死ぬまで娘の言い成りになってしまうと思った。
「だって、約束したもん」
「……」勇作は拗ねて口を尖らせている五歳の娘に呆れるばかりだった。
この娘は五歳にして、親に対して「約束したでしょ」と言って何でも自分の思い通りに事を運ぼうとするのだった。色々と忙しい親が忘れてしまった娘との約束を、思い出させてやったかのような口振りで。
お前、どこでそんな知恵を身につけたんだと感心するばかりだ。しかしウソには違いないので父親として叱らなければならない。
身長は1メートルと少し、体重は20kgぐらいか。しっかりと立って歩く。赤ちゃんらしさは消えた。もう立派な子供だ。髪は勇作と一緒に美容院へ行って切ってもらう。ショート・ヘアにシャギーが入っていて、お洒落だ。すごく似合っている。
驚くのは、その会話能力だ。自分の意思をハッキリ伝えてくる。それだけじゃなく、うちの娘は親にカマを掛けてきた。
三歳の頃だったろうか、勇作が忙しくて返事をしてやれなかった時だ、梨香は父親を「ゆうさく」と呼んで注意を促した。妻の明美に呼ばれたら直ぐに反応する父親の姿を見て学んだに違いない。これには驚いた。なかなか賢い娘だと嬉しく思った。
だけど子育ては難しくて大変だ、それが今の勇作の実感だ。親の方が人間として成長する為に、子供は産まれてくるみたいに思えてしまう。躾にしては親の態度の一貫性が重要だと聞いた。その通りだろう。子供は親の行動を見て真似をする。常に見られていた。この子にとって自分と妻の明美が手本なのだ。それは非常に疲れた。
でも可愛い。もう可愛くて仕方がない。あの偽りのない笑顔を見せられると、勇作は身も心も娘にメロメロだった。
言葉を覚え始めの頃には、柿を食べていて「骨、骨」と言いながら種を吐き出したのには笑った。
美人で性格のいい子に育って欲しいと思う。このまま行けば、なかなかの器量良しになりそうだ。だけど体型が子供過ぎて、いずれ母親みたいなスタイルになってくれるのか少し心配だった。妻は身長が167cmで痩せ型、高校時代は水泳の選手で、今でもスレンダーな体を保っていた。ヘアスタイルはロングよりも断然にショートが似合う。娘も彼女のような魅力的な女性になって欲しい。
「まだ子供だから、これでいいのよ」と妻の明美は笑って言う。
何でも思い通りにしてやりたい。しかし、それは娘をダメな人間にしてしまう。時として厳しく接しなければならない。それが勇作にとって最も難しい問題だった。「あなたは甘やかし過ぎる」、と妻の明美からは何度も注意を受けた。
テレビでは、我が子の育児を放棄したり虐待したりする親のニュースが、毎日のように報道されている。悲しかった。もし自分に力があるなら、それら全ての子供たちを保護してやりたい。自分の娘だけじゃない、斉藤勇作はすべての子供が大好きだった。
女の子が産まれて本当に嬉しい。いや、もし男の子だったとしてもオレのことだから喜んだに違いないだろうが。
勇作の母親はヘビースモーカーだった。吸い過ぎじゃないかと誰もが注意した。しかし当の本人は、『もう長くは生きられないんだから、好きなことをさせくれ』と言い続けた。ところがだ、孫娘が産まれると間もなく、すっかりタバコを止めた。少しでも長く生きて梨香の成長を見たいという気持ちに変わったのだ。赤ん坊の影響力って凄いと思い知らされた。でも3歳までしか一緒に過ごせない。母親の最後の言葉は『梨香』だった。
梨香という名前を考えたのは自分だ。好きなタレントの名前を少し変えた。普段はリンちゃんと呼んでいる。叱る時と真面目な話をする時だけは梨香と呼ぶ。
「約束して欲しい。もうウソはつかないって」
「……」上半身を左右に揺すって父親の言葉を無視しようとしている。
「梨香」強情な奴だ。でも、その誤魔化そうとする仕種は可愛い。
「……」
「ドラエモンのビデオが見たいなら、ちゃんと見たいって言えばいい。『約束したでしょ』、なんてウソをついちゃダメだ」
「……」ようやく頭を下げた。
素直な態度になってくれたみたいだ。しかし言葉に出して謝らない。「ウソついちゃダメだからな。わかったな」念を押した。
「……うん」
「はい、と言いなさい」
「……はい」
「よし、いい子だ。パパ,うれしい」
「……」しかし娘の顔は下を向いたままだった。
「どうした、梨香。元気を出しなさい」
「……うん」
「顔を見せてくれ」
「……」顔を上げたが目を合わそうとしない。
「お誕生日にはディズニーランドへ行こうな」数週間後に迫った
一大イベントを口に出してみた。
「……」頷いただけ。
効果なしだ。小さな頭の中では、すでにディズニーランド行きは契約済みの案件で、娘の帳簿上では売り上げ処理が終わっているみたいだ。つまりキャンセルの場合は契約不履行として猛烈に抗議するが、新たに言う事を聞いたり、機嫌を直したりする材料にはならないらしい。
「わかった。明日の晩はビデオを借りて一緒に見よう」父親は譲歩した。
「今日じゃ、ダメなの?」
「パパは忙しい。しなきゃならない事があるんだ」
「……」また口を尖らせて頬を膨らませる。小さな身体を左右に振って不満を表す。
斉藤勇作は中古のオートバイを主にシンガポールへ輸出する仕事をしていた。ここにきて新たにオランダへ輸出する話が舞い込んできて、それに関して通関手続きを調べたり、利用する船会社を探したりで忙しかった。シンガポールへはチャンギロード沿いに店を構えるバイク業者が取り引き相手だったが、オランダで商品を買い取ってくれる男は、これで2度目で、まだ大きく勇作のサポートを必要としていた。
これからドイツの船会社ハパックロイドが運行する、ルドウィック・シャーヘンという貨物船の日程を調べてみようと考えていたのだ。
駄々をこねる娘の姿を前にして勇作は友人の言葉を思い出す。そいつには小学三年生になる娘がいた。数日前に久しぶりに会った時だ、「近頃じゃ、もう一緒に風呂に入ってくれないんだ」と言って勇作に悲しそうな顔を見せた。
オレと一緒にビデオが見たいなんて言ってくるのは、今だけかもしれない。そんな寂しい考えが頭に浮かんだ。
梨香は一人でビデオを見るのは好きじゃない。誰かと一緒に見たいのだ。大げさに笑う勇作の方が母親よりも娘に好まれている。この時だけは夫婦はライバル関係になった。このポジションだけは絶対に譲りたくないと勇作は考えていた。
やばい。仕事なんかよりも娘と過ごす時間の方が大切だ。それに気づく。
「わかった。今日、一緒にビデオを借りて見よう」
「本当? うれしい」娘に笑顔が戻る。よかった。しかし、この豹変振りには驚かされる。演技だったのかよ、と疑いたくなる。
「だけど絶対にウソはつかないと約束してくれよ、いいな」父親として念を押した。
フォルクスワーゲンのゴルフⅡに乗って、娘と一緒に国道127号線にあるビデオ屋へ向かう。結局のところ梨香の思い通りに事が運んだ形だった。オレって父親失格なのかな、と考えてしまう。娘は今回の件でも父親は最終的に言いなりになってくれたと喜んでいるに違いない。いつか何か娘の意思に反して言うことを聞かそうとしても、この自分にできるのか自信がなかった。ああ、本当に躾って難しい。
情けなかったが、これから梨香と過ごす楽しい時間のことに気持ちを切り替えた。
借りるビデオのタイトルと内容は、ほとんど暗記していた。娘は同じ作品を何度も何度も見たがるのだ。
「ここでドラエモンが驚いて転ぶんだよ」
笑うシーンは前もって解説してくれる。勇作は初めて見たように装って大げさに笑えばいい。同じシーンを何度も繰り返し見せられて、うんざりしそうだが、ところがそうでもなかった。梨香の喜ぶ姿を見られてすごく楽しいのだ。
へえ、こういうビデオの見方ってあったんだ。三十歳を過ぎて新たな楽しみを知った思いだった。
02
「なあ、明美」斉藤勇作はリンビングに置かれたソファの反対側に座って雑誌を見ている妻に話しかけた。
「なに?」
FNNニュースを見ながらの昼食が終わって二人は、コーヒーを前にしてリビングで寛いでいた。娘の梨香は幼稚園だ。午後三時に勇作が迎えに行くことになっている。
妻の明美は駅前の学習塾で講師として働く。更に自宅でも、知り合いから紹介してもらった何人かの生徒に勉強を教えていた。それで夕方ぐらいから忙しくなった。
「そろそろ車の買い替えをしようかなと考えているんだ」恐る恐る勇作は言ってみた。高い買い物だから、妻である明美の許可がなくては実行できない。
「Winnyの製作者が逮捕されたけど、あなたは大丈夫なの?」
「は?」
「さっき、ニュースでやってたじゃない」
「ああ、それか」何だよ、人の話を聞いてないのかよ。「心配してない。オレはWinMXがメインで、あんまりWinnyは使ってないからな」
「でも違法なんでしょ?」
「まあな。でも大勢の人たちが使ってるんだぜ。オレだけが捕まるなんて考えられない」
「やめたら?」
「そんなに頻繁に使っているわけじゃない。時々なんだ」
「……」妻の無言。
「わかった、やめる。もう止めるよ」
妻の沈黙は恐ろしい。すぐに白旗を上げるのが最良の判断だと、これまでの結婚生活で学んだ。ほとんど夫婦喧嘩はしない。腹が立った時は無口になるだけだ。しかし絶対に娘の前では、そういう態度はとらない。勇作自身、父親が母親に暴力を振るう場面を何度も目にして辛い思いをしたからだ。夫婦喧嘩は子供に悪影響を与えてしまう。
勇作は洋楽と洋画が好きで、多くをインターネットから違法にダウンロードしていた。WinMXの存在を知ったのは君津図書館から借りてきた本だった。実際に書かれていた通りにやってみて、クリスティーナ・アギレラの『ビューティフル』をダウンロードした。
衝撃的だった。
好きな音楽が無料で、いくらでも手に入るのだ。その日から三日間は、ほとんど寝ないでWinMXの操作に没頭した。そして考えつく好きな楽曲を全てハードディスクに記録した。CDショップでは買えない古い曲も,例えばジェリー・ウォーレスの『マンダム ラブ・オブ・ザ・ワールド』もインターネット上には存在した。これは、すごい世界だと思った。
洋画は最新作が落とせた。勇作は字幕ナシを好んだ。その方が英語の勉強になるからいいのだ。
WinMXを使わないなんて考えられない。しかし妻の明美に反抗することは自殺行為に等しい。これから車の買い替えを進めようとしているところだ、素直に従う他はなかった。
「明美、車を買い替えたいんだ」もう一度、初めからやり直し。
「どうして?」
「どうしてって……。だってさ、そろそろ12年になろうとしているぜ、あのゴルフⅡは」
「でも、まだ調子いいじゃないの」
「そうだけど。磯貝が買ってくれそうなんだ、あのゴルフを」
「幾らで?」
「20万ぐらいかな」
「そんなに安く?」
「いや、いい値段だと思う。下取りに出したら二束三文にしかならない。とにかく年式が古いからな」
「幾らで買ったんだっけ、あたしたち?」
「140万だった、あの時は」
「それが20万?」
「そりゃそうさ、10年以上も乗ったんだから」
「じゃ、今度は何にするの?」
「BMWにしたいんだ」
「……」
「何だよ、どうした? BMWが嫌いなのかよ」急に妻の顔が曇ったのを、勇作は見逃さなかった。
「あんまり好きじゃない」
「どうして? あんなに素晴らしい自動車はないぜ」
「そうかもしれないけど……」
かなり失望した。BMWと言ったら、すぐに喜んで買い替えに賛成してくれるものと思っていたのに。
「ベンツの方がいいのかよ」勇作は好きじゃなかった。あの権威を誇示したみたいな雰囲気が、どうも気に入らない。
「そういう訳じゃないけど……」
「じゃ、何が理由なんだ?」
「……」
「カーセンサーで、いい中古車を見つけたんだ。それも、この近くにある店で」
「そう」
「極上車で、まさに買得と言っていいくらいのヤツなんだ」
「幾らなの?」
「220万ぐらい」ここは少し安めに言う。いろいろと経費が掛かって支払い総額が増えたと後で説明すれはいい。
「セダン?」
「いや、違う。ハッチバック・タイプなんだ。2ドアで少し使い勝手は悪いが、スタイルは抜群にいい」
「どんなの?」
「待ってくれ。今、カタログを持って来るから」
上手く行きそうな雰囲気。明美は了承してくれそうだ、そう勇作は確信した。
一年も前に正規代理店からカタログは送ってもらっていた。ほぼ毎日、ページを捲りながら、いつか手に入れてやろうという思いを熱くしていたのだ。
「ほら、これなんだ」
「……」明美が雑誌を置いてBMWのカタログを手にする。
「なかなかカッコいいだろう?」
「そうね、悪くない」
「だろう。BMWっていうとセダンのイメージが強い。それで、このタイプは人気がないらしい。だから新車で400万円もするのに、中古になると程度が良くても半値ぐらいになってしまうのさ」
「色は?」
「青にする。ミスティック・ブルーと言うらしいけど」
「オートマチック?」
「いいや、5段ミッションにしたい。BMWは何と言ってもエンジンあっての車だからな。それをダイレクトに味わえるのはミッションだろう」
「じゃ、勇作の好きにすれば」
「わかった。買っていいんだな?」
「うん。だけど男って、どうしてBMWがそんなに好きなんだろう?」
「お、お前な、……いいか、BMWってのは世界の自動車マーケットの、たった2%のシェアしかないんだ。それなのに、これだけ多くの尊敬と憧れを惹きつけているのさ。すごいと思わないか?」
勇作は口を閉じた。妻から驚きと賞賛の言葉が聞けるものと期待した。
「悪いけど、夕飯は昨日のカレーで済ましてくれない?」
「え?」一体、どういう意味だ。BMWとカレーと、どんな関係があるんだ。
「久しぶりに真理子が久美子の家に遊びに来るらしいの。あたしも行きたくて。いい?」
「……」なんだ、そういうことか。
北欧の血を引く蔵本真理子が、英語教師の加納久美子と久しぶりに会うから、妻の明美も一緒したいということだ。三人は高校時代のクラスメイトで仲良しだった。
彼女らは一人ひとりでもそうだが、集まると相当な存在感があった。背が高くてスタイルがいい、器量も文句ない。一人は鼻が高くて日本人離れした美人、教師の方は知的な美人だった。妻の明美はショート・ヘアが似合うスポーティな印象で、それに勇作は心を奪われた。
「じゃ、お前、授業は?」
「都合が悪くなったからって言ってキャンセルする」
「大丈夫なのか、そんなことして?」
「お隣の知恵ちゃんだから問題ないわ」
「そうか」
「じゃ、カレーで勝手に食べてくれる?」
「いいよ、それで構わない」
「よかった」
「帰りは何時ごろになる?」
「わからない。泊まってくるかもしれないし」
「……」
勇作は頷くだけだった。今夜は娘の梨香と一緒に寝ようかと思った。
BMWを買う許しをもらえたので目的は達成された。残り物のカレーを娘と二人で食べるぐらい何でもない。もしかしたら逆に普段と違って楽しいかもしれない。
それにしてもだ、せっかくBMWの凄さを教えようとしたのに明美は無視した。女には自動車とか、そういうメカニズムで成り立つ存在を理解して楽しむということが出来ないみたいだ。ちょっと悲しい。
斉藤 勇作 36歳 中古のオートバイを海外へ輸出する仕事
明美 34歳 妻 塾の講師
梨香 5歳 一人娘
村上 冴子 安藤紫が改名 カートーヨーカ堂で保安員を
していた女になりすます
平野 伸太郎 以前に村上冴子と付き合っていた
磯貝 洋平 勇作の友人 美容師の小夜子と付き合う
板垣 順平 22歳 板垣モータースの専務 実質的な経営者
香月 22歳 妻
拓也 息子
波多野正樹 君津署の刑事 生活安全課
古賀 千秋 22歳 マリア幼稚園で働く保母
手塚 奈々 22歳 イエローキャップ自動車用品販売店
からパイナップル自動車買取店へ転職
美容師の男 フォルクスワーゲン ビートルが自家用車
小夜子 美容室アベニューのトップスタイリスト
リ ボ ン 幼稚園の向かいの家で買われている犬
prelude 1 2006年
板垣順平は二十二歳で役職名こそ専務だが、中古車販売店の板垣モータースの実質的な経営者だった。身長は180cmを超えて、中学時代はサッカー部のエース・ストライカーだ。肩幅は広く骨格はしっかりしていたので、若造じゃないかと、誰からも馬鹿にされることはなかった。少し太ったからだろうか、最近は貫禄さえ漂わせるほどだ。物腰が低くて信頼できそうな男、という好印象を客に与えた。
それまで元気に会社を仕切っていた父親は、急に体調が悪くなって入退院を繰り返していた。母親も順平が妻の香月と一緒になると間もなく交通事故で亡くなった。息子の結婚には強く反対していたので、嫁と姑の確執が心配された。その意味では順平は助かったと思う。
「すっげえ綺麗な女の人でした。パープルのスラックスに黄色のブラウスが決まっていて、まるでモデルみたいな感じでした」
「……」それなりの反応を従業員は期待したんだろうが、専務の肩書きを持つ板垣順平は頷くだけだった。
「しっかり書類は確認したんだろうな」
「そりゃ、もちろんです」
「そうか」
「見て欲しかったな。あんな美人は――あっ、いいえ、専務の奥さんほどじゃありませんでしたが……」
「わかった」
これ以上は従業員と無駄話を続けたくなかった。板垣順平は腑に落ちない。何か嫌な事が起こりそうな不安な気持ちが、どうしても拭えなかった。
順平が妻の香月と息子の拓也を連れてグアム島へ旅行している時だ。宿泊してるウェスティン・リゾートへ従業員から国際電話が掛かってきた。何事が起きたのかと驚いた。しかし話は、飛び込みの客がBMWを持ち込んで幾らでもいいから買い取ってくれということだった。
自分が会社にいない時は、一般の買い取りはしないという決まりがあった。ところが持ち込まれたBMWは以前に、うちが販売したクルマだった。しかも程度は極上で、持ち込んだ女は安くても構わないから引き取ってくれと言う。いい儲け話になりそうだと従業員は舞上がった。ぜひ買い取るべきだと国際電話をしてきたのだ。順平は従業員の熱意に押された。年式を考慮してお60万円以内に収まるならいい、と許可を与えた。
帰国して、そのBMWを目にして驚く。6年ほど前に販売した時と同じぐらいコンディションが良かったのだ。走行距離だけが5千キロほど増えていた。リペイントでもしたのだろうか。
どうして、うちに持ち込んだのかも理解できなかった。国道127号線に店舗を構えるパイナップルだったら、もっと高く買ってくれたはずなのに。
気になったので板垣順平は6年前の帳簿を出してきて、売った相手を調べた。平野伸太郎という若い男だ。はっきり覚えている。背が高くて痩せていた。なかなかの男前で女にモテそうな感じだ。そう言えば、あの時は女連れだった。ただし女とは順平は顔を合わせていない。下取り車として乗ってきたスバルのヴィヴィオの助手席に座ったままだった。サングラスを掛けていた。外に出たのは販売したBMWに乗り込む時だけ。後ろ姿しか見ていない。背中まで伸びたウェービーな髪が印象に残っただけだ。その女が今回、売りに来たのだろうか。
書類は印鑑証明から委任状まで全てが揃っていた。女の名前は村上冴子だ。従業員が言うには、相当に綺麗な女らしい。
BMWは318iというモデルで、色はトルマリン・バイオレットだった。滅多に見ないカラーだ。それゆえに欲しい人にとっては、少しぐらい多く金を払っても手に入れたいクルマになる。
板垣モータースが最初に仕入れたのは、中学時代のクラスメイトの母親からだ。彼女は再婚相手に新車で買ってもらう。離婚しても手放さなかった。再婚した男が娘に性的虐待をしていたことが発覚したからだ。刑事事件にすべきだったが、セキスイハウスで建てた家と多額の慰謝料で示談が成立した。表沙汰にはならなくて男は市役所の仕事を失わなかった。それどころか思春期の瑞々しい少女の身体も忘れなかった。酒を飲んだ勢いで夜中に、以前は義理の娘だった少女の部屋に忍び込む。二人は揉み合いになって男は不覚にも命を落とした。現場には不自然なところが多く見つかって少女は過剰防衛を疑われる。母親は娘の為に弁護士を雇うことになって、気に入っていたBMWを仕方なく売却したのだ。
その事情を順平は詳しく知っていた。そして今回の件だ。どうして、うちに戻ってきた? それもオレが、たまたま不在の時に。理解できない。売買益を期待して舞い上がった従業員とは反対に、なにか不吉な予感を覚えた。
BMWは2002年に車検が切れたまま継続されていなかった。こんなに程度のいい車なのに不思議だ。村上冴子という女は、わざわざ車検を取って持ち込んだらしい。そうする意味が何かあったのか。4年間の空白は理解できない。
紫というカラーも気に入らなかった。順平にとっては不気味な感じしかしない。大きく値引きしても早く売ってしまいたい。この板垣モータースの敷地内から早く消えて欲しかった。
現在、2台のBMWが店頭に並べてある。どちらも程度は極上で売れていくのは時間の問題だろう。
電話が鳴った。
板垣順平は反射的に受話器に手を伸ばす。思考は仕事モードに変わった。「はい。板垣モータースです」カーセンサーを見た客からの電話らしい。
「ええ、まだあります。いつでも見れますよ。はい。書かれている通り、程度は極上です」
ミスティック・ブルーのBMW 5MTモデルに対する問い合わせだった。
prelude 2 2000年
トルマリン・バイオレットのBMW318iが再び極上車として板垣モータースの店頭に並ぶ6年前。
「あんた、他に好きな女ができたの?」助手席に座る女がハンドルを握る男に訊いた。
「……」沈黙が答えだった。
「そうなの」女は言葉こそ穏やかだったが、心中は怒りが込み上がっていた。
「車の頭金は少しづつでも必ず返す」別れたいという意志をハッキリと男は口にした。
いま運転しているBMW318iは、購入するのに女が頭金を出したのだ。
「どこの女よ?」
「……」男は答えない。
「どこの女だって、訊いてるの」女は口調を強めた。
「そんなこと関係ないだろう」
「いいえ、関係あるわ。話をつけやるから」
「ダメだ、それはさせない」
「どうして?」
「もうオレの気持ちは変わらないからだ」
「これまで散々あたしの身体を楽しんできたのに、よくもそんな口が利けるわね」
「お互い様じゃないか」
「違うわ。あんたがベッドの上で楽しめるように、あたしが尽くしたからよ」
「……」
「一方的に別れるなんて許さない」
「気持ちの問題だから、もう仕方ないんだ。車の頭金は返すから」「あたしと別れても、このBMWは持っていたいんだ。なんて都合がいいのかしら」
「じゃ、くれてやるさ。持っていけばいい。紫色なんてオレの趣味じゃないし。BMWに乗れるならと車のカラーは妥協したんだ」
「いい色だって言ってたじゃないの」
「あの時は、お前に夢中だったからだ」
「じゃ何で今は違うのよ」
「怖くなったんだ、お前のことが」
「どういうこと?」
「……」
「あたしのどこが怖いのかしら?」
「あの娘は失明したらしいぞ」
「……」
「聞いているのか? お前に頼まれてコーヒーを飲ませた娘は、目が見えなくなったんだ」
「関係ないんじゃないかしら」
「ウソつくな。お前はコーヒーに何か劇薬を混ぜたんだ。そうに違いない」
「大丈夫、警察にはバレたりしない。心配しないでいいわ」
「ふざけんな。これは犯罪だ。畜生、オレを巻き込みやがって。言う事を聞いたオレがバカだった」
「もう終わった事よ」
「よく、そんなふうに言えるな。良心の呵責っていうもんがないのか、お前には?」
「あるもんですか。あの娘は当然の報いを受けたのよ」
「お前に何をしたって言うんだ、あの小娘が?」
「あの子の祖母に、あたしの少女時代はメチャクチャにされたの」
「じゃ、あの娘は関係ないじゃないか」
「いいえ、あるわ」
「意味が分からない。あの子の祖母だろう、お前が恨みを持っているのは?」
「そうよ」
「だったら何であの娘を失明させたんだ」
「祖母が一番苦しむことをやってやったのよ」
「……」
「あたしは本人には仕返ししない主義。そいつが最も苦痛に打ちのめされることを探し出して実行するだけ。ターゲットになるのは子供とか孫の場合がほとんど」
「信じられない。そこまでするのか。お前は恐ろしい女だ」
「あなたは当事者じゃないから、……分からないだけよ」
「それだけじゃない、お前は何か重大なことを隠している」
「さあ、何かしら」
「お前は一体、誰なんだ?」
「あんたの知っている女よ。それ以外の誰でもないわ」
「嘘だ」
「あんたと結婚の約束をした村上冴子よ」
「信じられない」
「どうして?」
「じゃあ、安藤紫って誰だ?」
「……」女は返事ができない。
「箪笥の引き出しの奥に隠してあった、古い身分証明書を見つけたんだ。お前のだろう?」
「……」
「お前は村上冴子なんかじゃない、本当は安藤紫なんだ。それで紫という色に執着するのが納得できた。どうして他人になりすましたりするんだ?」
「そうしなきゃならない事情があったのよ。話せば長くなるわ」女は白状した。
「お前がオレの仕事や生活のことに口出しして、何でも全てコントロールしたがるのが分かった気がする。身分を他人に変えてるからだ。そんなこと、そう簡単にできることじゃないぜ。もしかして警察に追われているのか?」
「それはないと思う」
「思う? 確かじゃないのか」
「あたしの言う通りにしていれば何も問題はなく生きていけるわ」
「世間から隠れて生活するのか。そんなのゴメンだ」
「……」
「頼む。オレと別れてくれ」
「あたしと別れて、その女と一緒になる気?」
「そんなこと、まだ分からない」
「じゃ、まずあたしと別れて身をきれいにしておきたいんだ」
「……」
女は男の沈黙を問いに対する肯定と受け取った。捨てられた。もう二度と元には戻れそうにない。自分は男に捨てられたのだ。
自分がダメな男を見限るということはあっても、その逆は今までになかった。ほかに好きな女が出来たなんて初めて言われた。信じられない。この自分よりも、いい女なんかいるハズがないのに。屈辱的だった。幸せな家庭を築きたいという夢が、また破れた。
許せない。この男と、唆した尻軽女を罰してやりたい。女の頭に血が登る。怒りは頂点に達した。
咄嗟にハイヒールの片方に手を伸ばすと、その踵部分で運転中の男を殴りつけた。BMWがどうなろうと考えなかった。ただ怒りしかない。
不意を食らった男はハンドルから片手を離して顔を押さえた。正面に向けていた視線も外すことになった。その動作がトルマリン・バイオレットのBMWを大きく反対車線にはみ出させる結果をもたらす。
丁度その時、下りの車線ではグリーンのマツダRX-7が城山トンネルを出たところで、前を走る高齢者運転マークを付けた白いプリウスを追い越してやろうと、二十代の若者が強くアクセルを踏んだところだった。
別れ話をしていた男と女は、いきなり前方に眩しい光が現れたことに驚く。対向車だ。ぶつかる。
物凄い衝撃が二人を襲う。
前方へ投げ出されようとしたところで、エアバッグが開く。全体が激しく回転し始めた。シートベルトが肩と腹部に食い込む。息苦しい。しかし音はなかった。それほど痛みもない。静かな中ですべてが起きる。そして、すぐに何も感じなくなった。
prelude 3
釣り仲間を乗せた白いステップ・ワゴンが、大房岬から木更津市へ向かって国道127号を北上していた。
全員が疲労困憊だ。仲間だけが知る、いつも釣れた穴場が今日は全然だったからだ。無駄足で疲れただけ。一刻も早く自宅へ帰って休みたいというのが仲間全員の一致した考えだった。
どうして今日は釣れなかったんだろう、ハンドルを握る50代の男は運転しながら、ずっと同じことを考えていた。
「ああっ」
目の前で起きた出来事に思考は現実へ。無意識に叫んでいた。同時に大音響がして、車内で心地良く居眠りしていた他の3人が目を覚ます。「えっ」
すぐさま事態を把握した。前方を走っていた紫色の乗用車が緑色の対向車と正面衝突して回転し始めたのだ。ガタン、ガタンという物凄い音を伴ないながら。火花も散った。
反対車線のグリーンのスポーツカーは、山を削って出来た高い壁へ弾き飛ばされた。そこへ後続の白い乗用車が避け切れなくて突っ込む。また大音響。
50代の運転手は事故に巻き込まれないように急ブレーキを踏んだ。スピードが落ちたところで車を路肩に寄せる。映画みたいなシーンを間近で見て全員が身動きできない。
「おい、助けに行かないと」一人が気づいて仲間に声を掛けた。
「ああ」
「待て。ガソリンに引火して爆発するんじゃないか」
「そうだ。その可能性はある」
「でも近くまで行ってみよう。まさか見殺しには出来ないぜ」
「よし。急ごう」
反対車線でも後続の車が停止すると、運転手や同乗者が降りてきて事故を起こした車に駆け寄っていた。
4人が大破した自動車の前まで来た。「大丈夫か?」反応を期待して声を掛けた。
現場は自動車同士が衝突した凄惨な有様を見せていた。ガソリンと熱せられた鉄が出す臭いが鼻を衝く。割れたウインドウ・ガラスとヘッドライトの破片が散乱する。ボンネットは外れ、エンジンが飛び出ていた。ラジエター・ホースから漏れた冷却液が熱で音をたてながら蒸発する。車内には二人の男女がいることを確認した。
フロント・ウインドウはヒビが縦横無尽に走っていたが、怪我人を助け出すほどの穴は開いていなかった。
「だめだ。こっちのドアは開けられない。ビクともしねえ」運転席から若い男を助け出そうとした一人が言った。
「おっ、こっちは開いたぞ。おい、大丈夫か?」もう一人が助手席の女に声を掛けた。でも反応がない。「おい、手を貸せ。オレ一人じゃ無理だ」
「これ、BMWじゃねえのか」三人掛かりで女を車から出しながら一人が言った。
「じゃ、外車か?」
「そうだ。まだ新しいぜ」
「勿体ねえ」
「おい、大丈夫か?」助け出した女に声を掛けた。
「こりゃ、厳しいぜ」抱えると女は、だらんと首と両手を下ろす。意識はない。
「息はしているか?」
「分からねえ」
「そこの歩道に寝かしておこうぜ」
「待ってろ。オレがステップ・ワゴンから寝袋を取ってくる。直に地面じゃ可哀想だ」
「頼む。それと誰か警察に連絡してくれ」
「オレがしよう」
応えた仲間が携帯電話を取り出して警察を呼び出す。残った3人が運転席の男を助手席側から助け出そうとするが、なかなか上手くいかない。「こいつの足が挟まっているみたいだぜ」
「マジか?」
「おい、ここはどこだ?」警察に電話をしている一人が戻ってきて訊く。
「さあ、どこだろう」
「それが分からないと警察が来れねえ」
「竹岡あたりじゃねえのかな」
「おい、あそこに城山トンネルって英語で書いてあるぜ」
「あっ、本当だ」携帯電話を持つ男が、確認の為に仲間から離れてトンネルの近くまで行く。「分かりました。城山トンネルを出たところです。その館山側にいます」声が三人にも届く。
「おい、大丈夫か?」一人が運転席の男に声を掛ける。
「足は挟まったままか?」
「いや、何とか取れそうだ」
「よし、頑張れ」
3人は苦労したが男を車から降ろした。「おい、大丈夫か?」
「……」
「こいつもヤバそうだな」
「いや、息はしているぞ。いま胸が動いた」
「よかった」
「おい、女はどうした?」警察との通話を終えた一人が戻ってきて訊いた。
「そこに、寝袋の上――。え、あれっ?」
「いねえぜ」
「そこに寝かせたはずだぜ。なあ?」
「そうだ。どこに行ったんだ、あの女?」
「もしかして意識が戻ったのか」
「でも重傷には変わりないぜ」
「出血も酷かった」
「遠くには行けないはずだ」
「みんなで捜そう」
「早く見つけないと、すぐに暗くなるぜ」
「下り方向だけでいい。ここから上りは、もし女が通ったとしたらオレ達が気づいているはずだから」
釣り仲間が辺りを捜し始めた。「すいません。怪我した女の人を見ませんでしたか?」近くの民家から出てきたと思われる地元の人達にも声を掛けた。
何分かすると救急車とパトカーがサイレンを鳴らして到着した。
まだ女は見つからない。仕方なく救急車は若い男二人と。白い乗用車に乗っていた老夫婦を乗せて立ち去った。警察も加わって怪我した女の捜索が続く。
「オレたち、いつ帰れるんだろうか?」
「分からねえ。たぶん、あの女が見つかるまでは無理じゃないか」
「マジかよ」
「もう疲れた。ヘトヘトだぜ」
とんでもなく面倒な事に巻き込まれたらしい。これからどうなるんだろうか? 釣り仲間の全員が不安を持ち始めた。女は姿を消したままだった。
01 2006年
「またダメって、どうして? これで二回目ですよ」斎藤勇作は声を荒げた。
中古のオートバイをオランダへ輸出するのに、船積みを予定していた船にスペースが無くなって載せられない、と運送会社のバンテックが言ってきたのだ。
横浜の本牧から送って現地に到着するまで約3ヶ月ほど掛かる。夏のシーズンが始まる前に届けなければならない。ここにきて2度目のキャンセルなので腹が立った。
「このフォールトレーサーっていう船には、どうしても乗せてもらいたい。次の船じゃダメなんです。お願いしますよ」
努力してみるという言葉を相手から引き出して受話器を置く。怒りは治まらない。安心できなかった。日産の自動車を専門にヨーロッパへ輸送する船に、なんとか空いたスペースに中古のオートバイを載せる予定だった。ところが運送会社と話がまとまった時から急速に円安が進んでしまう。すると相手は態度を変えた。なんとか多くの自動車を積載して為替利益を出そうとするのだ。斎藤勇作の依頼は二の次になっていた。
今から他の船会社を探すしかないのか。じゃ、ハパックロイドはどうだろうか。東京の電話帳を手にしてベージを捲ろうとすると、五歳の娘が事務所として使っている部屋に入ってきた。
可愛い。一瞬で仕事の問題が頭から消えていく。
「パパ」
「どうしたんだい、梨香ちゃん」何かを頼みにきたらしい。なんだろう。
「あのね、ドラエモンのビデオを借りに行きたい」
「日曜日に見たのに、また見たくなったのかい?」
「うん」小さい身体を摺り寄せてくる。媚を売ることを、この歳で知っているのだ。
「今日は、……なあ」
「行きたいの」
「パパは忙しいんだよ」
「お願い」
「でも、な」
「昨日、約束したじゃない」
「……」また同じ手を使う。約束したのに父親が忘れていると思わせる気だ。
「いいや、パパは約束なんかしていない」
「したもん」
「してません。ウソをついちゃダメだろう、梨香」斉藤勇作の口調は強かった。
夕飯の後でドラエモンのビデオを借りに行って一緒に見ると、昨日の夜に約束したと、娘は言い張っていた。
ここで断固とした態度を取らないと、このままズルズルと死ぬまで娘の言い成りになってしまうと思った。
「だって、約束したもん」
「……」勇作は拗ねて口を尖らせている五歳の娘に呆れるばかりだった。
この娘は五歳にして、親に対して「約束したでしょ」と言って何でも自分の思い通りに事を運ぼうとするのだった。色々と忙しい親が忘れてしまった娘との約束を、思い出させてやったかのような口振りで。
お前、どこでそんな知恵を身につけたんだと感心するばかりだ。しかしウソには違いないので父親として叱らなければならない。
身長は1メートルと少し、体重は20kgぐらいか。しっかりと立って歩く。赤ちゃんらしさは消えた。もう立派な子供だ。髪は勇作と一緒に美容院へ行って切ってもらう。ショート・ヘアにシャギーが入っていて、お洒落だ。すごく似合っている。
驚くのは、その会話能力だ。自分の意思をハッキリ伝えてくる。それだけじゃなく、うちの娘は親にカマを掛けてきた。
三歳の頃だったろうか、勇作が忙しくて返事をしてやれなかった時だ、梨香は父親を「ゆうさく」と呼んで注意を促した。妻の明美に呼ばれたら直ぐに反応する父親の姿を見て学んだに違いない。これには驚いた。なかなか賢い娘だと嬉しく思った。
だけど子育ては難しくて大変だ、それが今の勇作の実感だ。親の方が人間として成長する為に、子供は産まれてくるみたいに思えてしまう。躾にしては親の態度の一貫性が重要だと聞いた。その通りだろう。子供は親の行動を見て真似をする。常に見られていた。この子にとって自分と妻の明美が手本なのだ。それは非常に疲れた。
でも可愛い。もう可愛くて仕方がない。あの偽りのない笑顔を見せられると、勇作は身も心も娘にメロメロだった。
言葉を覚え始めの頃には、柿を食べていて「骨、骨」と言いながら種を吐き出したのには笑った。
美人で性格のいい子に育って欲しいと思う。このまま行けば、なかなかの器量良しになりそうだ。だけど体型が子供過ぎて、いずれ母親みたいなスタイルになってくれるのか少し心配だった。妻は身長が167cmで痩せ型、高校時代は水泳の選手で、今でもスレンダーな体を保っていた。ヘアスタイルはロングよりも断然にショートが似合う。娘も彼女のような魅力的な女性になって欲しい。
「まだ子供だから、これでいいのよ」と妻の明美は笑って言う。
何でも思い通りにしてやりたい。しかし、それは娘をダメな人間にしてしまう。時として厳しく接しなければならない。それが勇作にとって最も難しい問題だった。「あなたは甘やかし過ぎる」、と妻の明美からは何度も注意を受けた。
テレビでは、我が子の育児を放棄したり虐待したりする親のニュースが、毎日のように報道されている。悲しかった。もし自分に力があるなら、それら全ての子供たちを保護してやりたい。自分の娘だけじゃない、斉藤勇作はすべての子供が大好きだった。
女の子が産まれて本当に嬉しい。いや、もし男の子だったとしてもオレのことだから喜んだに違いないだろうが。
勇作の母親はヘビースモーカーだった。吸い過ぎじゃないかと誰もが注意した。しかし当の本人は、『もう長くは生きられないんだから、好きなことをさせくれ』と言い続けた。ところがだ、孫娘が産まれると間もなく、すっかりタバコを止めた。少しでも長く生きて梨香の成長を見たいという気持ちに変わったのだ。赤ん坊の影響力って凄いと思い知らされた。でも3歳までしか一緒に過ごせない。母親の最後の言葉は『梨香』だった。
梨香という名前を考えたのは自分だ。好きなタレントの名前を少し変えた。普段はリンちゃんと呼んでいる。叱る時と真面目な話をする時だけは梨香と呼ぶ。
「約束して欲しい。もうウソはつかないって」
「……」上半身を左右に揺すって父親の言葉を無視しようとしている。
「梨香」強情な奴だ。でも、その誤魔化そうとする仕種は可愛い。
「……」
「ドラエモンのビデオが見たいなら、ちゃんと見たいって言えばいい。『約束したでしょ』、なんてウソをついちゃダメだ」
「……」ようやく頭を下げた。
素直な態度になってくれたみたいだ。しかし言葉に出して謝らない。「ウソついちゃダメだからな。わかったな」念を押した。
「……うん」
「はい、と言いなさい」
「……はい」
「よし、いい子だ。パパ,うれしい」
「……」しかし娘の顔は下を向いたままだった。
「どうした、梨香。元気を出しなさい」
「……うん」
「顔を見せてくれ」
「……」顔を上げたが目を合わそうとしない。
「お誕生日にはディズニーランドへ行こうな」数週間後に迫った
一大イベントを口に出してみた。
「……」頷いただけ。
効果なしだ。小さな頭の中では、すでにディズニーランド行きは契約済みの案件で、娘の帳簿上では売り上げ処理が終わっているみたいだ。つまりキャンセルの場合は契約不履行として猛烈に抗議するが、新たに言う事を聞いたり、機嫌を直したりする材料にはならないらしい。
「わかった。明日の晩はビデオを借りて一緒に見よう」父親は譲歩した。
「今日じゃ、ダメなの?」
「パパは忙しい。しなきゃならない事があるんだ」
「……」また口を尖らせて頬を膨らませる。小さな身体を左右に振って不満を表す。
斉藤勇作は中古のオートバイを主にシンガポールへ輸出する仕事をしていた。ここにきて新たにオランダへ輸出する話が舞い込んできて、それに関して通関手続きを調べたり、利用する船会社を探したりで忙しかった。シンガポールへはチャンギロード沿いに店を構えるバイク業者が取り引き相手だったが、オランダで商品を買い取ってくれる男は、これで2度目で、まだ大きく勇作のサポートを必要としていた。
これからドイツの船会社ハパックロイドが運行する、ルドウィック・シャーヘンという貨物船の日程を調べてみようと考えていたのだ。
駄々をこねる娘の姿を前にして勇作は友人の言葉を思い出す。そいつには小学三年生になる娘がいた。数日前に久しぶりに会った時だ、「近頃じゃ、もう一緒に風呂に入ってくれないんだ」と言って勇作に悲しそうな顔を見せた。
オレと一緒にビデオが見たいなんて言ってくるのは、今だけかもしれない。そんな寂しい考えが頭に浮かんだ。
梨香は一人でビデオを見るのは好きじゃない。誰かと一緒に見たいのだ。大げさに笑う勇作の方が母親よりも娘に好まれている。この時だけは夫婦はライバル関係になった。このポジションだけは絶対に譲りたくないと勇作は考えていた。
やばい。仕事なんかよりも娘と過ごす時間の方が大切だ。それに気づく。
「わかった。今日、一緒にビデオを借りて見よう」
「本当? うれしい」娘に笑顔が戻る。よかった。しかし、この豹変振りには驚かされる。演技だったのかよ、と疑いたくなる。
「だけど絶対にウソはつかないと約束してくれよ、いいな」父親として念を押した。
フォルクスワーゲンのゴルフⅡに乗って、娘と一緒に国道127号線にあるビデオ屋へ向かう。結局のところ梨香の思い通りに事が運んだ形だった。オレって父親失格なのかな、と考えてしまう。娘は今回の件でも父親は最終的に言いなりになってくれたと喜んでいるに違いない。いつか何か娘の意思に反して言うことを聞かそうとしても、この自分にできるのか自信がなかった。ああ、本当に躾って難しい。
情けなかったが、これから梨香と過ごす楽しい時間のことに気持ちを切り替えた。
借りるビデオのタイトルと内容は、ほとんど暗記していた。娘は同じ作品を何度も何度も見たがるのだ。
「ここでドラエモンが驚いて転ぶんだよ」
笑うシーンは前もって解説してくれる。勇作は初めて見たように装って大げさに笑えばいい。同じシーンを何度も繰り返し見せられて、うんざりしそうだが、ところがそうでもなかった。梨香の喜ぶ姿を見られてすごく楽しいのだ。
へえ、こういうビデオの見方ってあったんだ。三十歳を過ぎて新たな楽しみを知った思いだった。
02
「なあ、明美」斉藤勇作はリンビングに置かれたソファの反対側に座って雑誌を見ている妻に話しかけた。
「なに?」
FNNニュースを見ながらの昼食が終わって二人は、コーヒーを前にしてリビングで寛いでいた。娘の梨香は幼稚園だ。午後三時に勇作が迎えに行くことになっている。
妻の明美は駅前の学習塾で講師として働く。更に自宅でも、知り合いから紹介してもらった何人かの生徒に勉強を教えていた。それで夕方ぐらいから忙しくなった。
「そろそろ車の買い替えをしようかなと考えているんだ」恐る恐る勇作は言ってみた。高い買い物だから、妻である明美の許可がなくては実行できない。
「Winnyの製作者が逮捕されたけど、あなたは大丈夫なの?」
「は?」
「さっき、ニュースでやってたじゃない」
「ああ、それか」何だよ、人の話を聞いてないのかよ。「心配してない。オレはWinMXがメインで、あんまりWinnyは使ってないからな」
「でも違法なんでしょ?」
「まあな。でも大勢の人たちが使ってるんだぜ。オレだけが捕まるなんて考えられない」
「やめたら?」
「そんなに頻繁に使っているわけじゃない。時々なんだ」
「……」妻の無言。
「わかった、やめる。もう止めるよ」
妻の沈黙は恐ろしい。すぐに白旗を上げるのが最良の判断だと、これまでの結婚生活で学んだ。ほとんど夫婦喧嘩はしない。腹が立った時は無口になるだけだ。しかし絶対に娘の前では、そういう態度はとらない。勇作自身、父親が母親に暴力を振るう場面を何度も目にして辛い思いをしたからだ。夫婦喧嘩は子供に悪影響を与えてしまう。
勇作は洋楽と洋画が好きで、多くをインターネットから違法にダウンロードしていた。WinMXの存在を知ったのは君津図書館から借りてきた本だった。実際に書かれていた通りにやってみて、クリスティーナ・アギレラの『ビューティフル』をダウンロードした。
衝撃的だった。
好きな音楽が無料で、いくらでも手に入るのだ。その日から三日間は、ほとんど寝ないでWinMXの操作に没頭した。そして考えつく好きな楽曲を全てハードディスクに記録した。CDショップでは買えない古い曲も,例えばジェリー・ウォーレスの『マンダム ラブ・オブ・ザ・ワールド』もインターネット上には存在した。これは、すごい世界だと思った。
洋画は最新作が落とせた。勇作は字幕ナシを好んだ。その方が英語の勉強になるからいいのだ。
WinMXを使わないなんて考えられない。しかし妻の明美に反抗することは自殺行為に等しい。これから車の買い替えを進めようとしているところだ、素直に従う他はなかった。
「明美、車を買い替えたいんだ」もう一度、初めからやり直し。
「どうして?」
「どうしてって……。だってさ、そろそろ12年になろうとしているぜ、あのゴルフⅡは」
「でも、まだ調子いいじゃないの」
「そうだけど。磯貝が買ってくれそうなんだ、あのゴルフを」
「幾らで?」
「20万ぐらいかな」
「そんなに安く?」
「いや、いい値段だと思う。下取りに出したら二束三文にしかならない。とにかく年式が古いからな」
「幾らで買ったんだっけ、あたしたち?」
「140万だった、あの時は」
「それが20万?」
「そりゃそうさ、10年以上も乗ったんだから」
「じゃ、今度は何にするの?」
「BMWにしたいんだ」
「……」
「何だよ、どうした? BMWが嫌いなのかよ」急に妻の顔が曇ったのを、勇作は見逃さなかった。
「あんまり好きじゃない」
「どうして? あんなに素晴らしい自動車はないぜ」
「そうかもしれないけど……」
かなり失望した。BMWと言ったら、すぐに喜んで買い替えに賛成してくれるものと思っていたのに。
「ベンツの方がいいのかよ」勇作は好きじゃなかった。あの権威を誇示したみたいな雰囲気が、どうも気に入らない。
「そういう訳じゃないけど……」
「じゃ、何が理由なんだ?」
「……」
「カーセンサーで、いい中古車を見つけたんだ。それも、この近くにある店で」
「そう」
「極上車で、まさに買得と言っていいくらいのヤツなんだ」
「幾らなの?」
「220万ぐらい」ここは少し安めに言う。いろいろと経費が掛かって支払い総額が増えたと後で説明すれはいい。
「セダン?」
「いや、違う。ハッチバック・タイプなんだ。2ドアで少し使い勝手は悪いが、スタイルは抜群にいい」
「どんなの?」
「待ってくれ。今、カタログを持って来るから」
上手く行きそうな雰囲気。明美は了承してくれそうだ、そう勇作は確信した。
一年も前に正規代理店からカタログは送ってもらっていた。ほぼ毎日、ページを捲りながら、いつか手に入れてやろうという思いを熱くしていたのだ。
「ほら、これなんだ」
「……」明美が雑誌を置いてBMWのカタログを手にする。
「なかなかカッコいいだろう?」
「そうね、悪くない」
「だろう。BMWっていうとセダンのイメージが強い。それで、このタイプは人気がないらしい。だから新車で400万円もするのに、中古になると程度が良くても半値ぐらいになってしまうのさ」
「色は?」
「青にする。ミスティック・ブルーと言うらしいけど」
「オートマチック?」
「いいや、5段ミッションにしたい。BMWは何と言ってもエンジンあっての車だからな。それをダイレクトに味わえるのはミッションだろう」
「じゃ、勇作の好きにすれば」
「わかった。買っていいんだな?」
「うん。だけど男って、どうしてBMWがそんなに好きなんだろう?」
「お、お前な、……いいか、BMWってのは世界の自動車マーケットの、たった2%のシェアしかないんだ。それなのに、これだけ多くの尊敬と憧れを惹きつけているのさ。すごいと思わないか?」
勇作は口を閉じた。妻から驚きと賞賛の言葉が聞けるものと期待した。
「悪いけど、夕飯は昨日のカレーで済ましてくれない?」
「え?」一体、どういう意味だ。BMWとカレーと、どんな関係があるんだ。
「久しぶりに真理子が久美子の家に遊びに来るらしいの。あたしも行きたくて。いい?」
「……」なんだ、そういうことか。
北欧の血を引く蔵本真理子が、英語教師の加納久美子と久しぶりに会うから、妻の明美も一緒したいということだ。三人は高校時代のクラスメイトで仲良しだった。
彼女らは一人ひとりでもそうだが、集まると相当な存在感があった。背が高くてスタイルがいい、器量も文句ない。一人は鼻が高くて日本人離れした美人、教師の方は知的な美人だった。妻の明美はショート・ヘアが似合うスポーティな印象で、それに勇作は心を奪われた。
「じゃ、お前、授業は?」
「都合が悪くなったからって言ってキャンセルする」
「大丈夫なのか、そんなことして?」
「お隣の知恵ちゃんだから問題ないわ」
「そうか」
「じゃ、カレーで勝手に食べてくれる?」
「いいよ、それで構わない」
「よかった」
「帰りは何時ごろになる?」
「わからない。泊まってくるかもしれないし」
「……」
勇作は頷くだけだった。今夜は娘の梨香と一緒に寝ようかと思った。
BMWを買う許しをもらえたので目的は達成された。残り物のカレーを娘と二人で食べるぐらい何でもない。もしかしたら逆に普段と違って楽しいかもしれない。
それにしてもだ、せっかくBMWの凄さを教えようとしたのに明美は無視した。女には自動車とか、そういうメカニズムで成り立つ存在を理解して楽しむということが出来ないみたいだ。ちょっと悲しい。
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