中古車
   08

 「決めた」勇作は夕食を終えると磯貝に電話した。
「じゃ、買うんですね?」
「そうだ」
「程度はどうでした?」
「いいよ。文句ない」
「良かったですね」
「うん。それでだ、明日中にゴルフⅡの名義変更と、新しく買ったBMWの名義変更を同時にやってしまいたいんだ」
「ちょっと待って下さい。金が用意できるのが金曜日なんです」
「それでいい。構わない」
「じゃOKです」
「で、これから手順を話す。しっかり聞いてくれ」
「はい」
「明日の朝、9時半ごろに、お前をゴルフで迎えに行く。そこから二人で板垣モータースへ向かう」
「ちょっと待って下さい。それは――」
「分かっている。お前は板垣モータースまで行かなくていい。近くの路上にゴルフを停めるから、そこでオレが買ったBMWを運転して戻ってくるまで待っててくれ」
「それなら大丈夫です」
「二人で陸運局へ行って手続きを済ます。お前は終わればゴルフを運転して帰ればいい」
「了解です」
「よし。じゃ明日の朝に」
「はい。失礼します」
 斎藤勇作は携帯電話を畳んだ。板垣モータースには手付金として5万円を払った。残金は帰りに銀行へ寄って引き出す。明日には憧れのBMWが自分のモノになるんだと興奮を覚えた。しかし新車に近い紫のBMWセダンは頭の片隅から離れないままだった。

   09

 「あの紫のBMWなんだけど……」
 翌日、再び板垣モータースを訪れた斎藤勇作は、残金を入れた銀行の封筒をウエストバックから取り出しなから言った。
 「はい。何でしょう?」と専務の板垣は応じた。
「本当に120万円なんですか?」勇作は腑に落ちない。ちょっと安すぎる。7年落ちとは言え理解できない。何か理由があるはずだ。それが知りたい。
「そうです」
 昨日、磯貝と電話で話をした後、ずっと紫のBMWのことを考えていた。いい車だった。自分の年齢を考えてみると4ドアセダンの方が似合っているような気がしてきた。青いBMWは2ドアのハッチバックでスポーティだが、どちらかというと若者向きだ。長く乗るつもりなら、大人の雰囲気があるセダンタイプを選ぶべきかもしれない。
 「今からでも青いのをキャンセルして、紫のBMWを選ぶことも可能ですか?」
「もちろんです。そちらの方が、かなりのお買い得と言えますよ」
「うん」それは勇作も理解している。だから心が揺らぐ。
「年式こそ古いかもしれませんがレザーシート仕様で、グレードがMスポーツなんです。私としては紫のBMWをお勧めします」
「じゃ、どうしてそんなに安いの?」勇作は疑問を口にした。
「たまたま仕入れが安かったんです。前のオーナーの方が安くてもいいから早く売りたいということで」
「へえ。そんな事ってあるの?」
「そりゃあ、皆さん,色々と事情がお有りですから」
「……」
「しかし滅多にありません。本当に、たまたまなんです。こんなチャンスに巡り合ったお客様は幸運と言っていいと思います」
「……」なるほど。(こんなチャンスに巡り合った客は幸運と言っていい)と、いう言葉は勇作の頭に心地よく染み込む。
「……」専務の板垣は口を閉じた。客の反応を窺うように。
「……どうしようかな」迷う。勇作は独り言みたいに呟く。
「斎藤さん」
「はい」勇作は名前を呼ばれて反射的に返事をした。
「もし紫のBMWを選んで頂けるのでしたら、新品のバッテリーをサービスしましょう」
「えっ」
「国産ですが適合品です」
「本当ですか?」きっと3万円はするだろう。
「ええ」
「……」これは決定打になった。
「実は、青いBMWにはキャンセル待ちのお客様がいらっしゃるんです。ですから斎藤さんに紫のBMWを購入してもらえれば、当店としては今週中に2台の売り上げが計上できるんです」
「そうなんですか」勇作は納得した。「わかりました。紫のBMWにします」
「ありがとうございます」
 勇作には専務の笑顔が、女房を褒められた時よりも輝いていたように見えた。

 路上に停車したゴルフの正面に勇作が紫のBMWを停めると、運転席のドアが開いて磯貝洋平が外へ出てきた。
 「え、これですか?」驚いている。
「そうだ」勇作もBMWから外へ出た。買ったばかりの自分の車を一緒に眺めたい。
「言っていたのと違いませんか?」
「うん」
「どうしたんですか?」
「気が変わった」
「……」
「どう思う?」勇作は磯貝の感想を訊いた。
「え、……すごい。……新車ですか?」板垣モータースが中古車店なのを忘れてる。
「中古だよ」
「マジで?」
「うん」
「信じられない」
「いいだろ?」
「最高じゃないですか。中古なんて信じられない」
「この紫って色は、どう思う?」
「お洒落でいいですよ。こんな色のBMWは初めて見ました」
 磯貝洋平の称賛は嬉しかった。勇は自分の判断が正しかったと確信した。いい買い物をした。得をしたような気分だった。
 
 二人で陸運局へ行って両方の名義変更の手続きを終えた。帰りは波岡の交差点まで一緒で、そこから磯貝は畑沢方向へ向かう。勇作の方は、そのまま国道127号を下って板垣モータースを目指す。名義変更の保証金として預けた5万円を返してもらう為だ。
 素晴らしい車だった。スタイルだけじゃない、その運動性能は申し分ない。アクセルを踏んで加速する、そのレスポンスの良さが際立つ。フォルクスワーゲン ゴルフの走ろうとする力強いエンジンには感動したが、BMWにはそれに加えて洗練されされた高級感が漂う。まさにプレミアム・カーだ。官能的なエンジンと言うが、まさにその通りだった。
 『間違いだらけのクルマ選び』の著者 徳大寺有恒氏が褒めた、シルキー・シックスと呼ばれる6気筒エンジンに匹敵する、バルブトロニックの4気筒エンジンだ。滑らか、それに尽きる。
 早く妻の明美に見せて驚かせたいと思った。いくら彼女でも、この車の良さは分かるに決まっている。 

   10

「おい、どうした?」斎藤勇作は問い掛けた。
駐車場に停めた紫のBMWを見せてやろうと、家から明美を外へ呼んだ。ところが、「どうしたの、これっ?」と言って驚くと、そのまま沈黙してしまったのだ。
 その美しさに驚いているわけじゃない。何か悍ましい物を目の前にしたみたいに硬直していた。
 「何で黙っているんだ?」勇作は妻の態度に不満だった。
「……」
「おいっ」
「何で、これがここにあるの?」やっと明美が口を開く。
「どういう意味だ?」勇作はムッとした。オレが家に粗大ゴミでも持ち込んだような言い方だ。
「あんたが言ってたBMWと違うじゃない?」
「う、……うん」それが気に入らないのか? いいや、それだけじゃなさそうだ。しかし理由が、さっぱり分からない。
「まさか、これを買ったって言うんじゃないでしょうね?」
「……」びっくりした。何て返事すればいいんだ。
「答えて」妻の口調が強い。
「それのどこが悪いんだ?」これが答えだ。もう口喧嘩に近い。
「すぐに売って」
「ふ、ふざけんなっ」
「だって話が違うじゃない」
「気が変わったんだ。こっちの方がいい車だったから」
「何で相談してくれなかったの?」
「急に思いついた」
「何百万もする買い物なのに?」
「いや、衝動的に決めたわけじゃない。こっちの方が安くて、ずっとコンディションは良かった。それにシートはレザーだし、グレードは一番上のMス――」
「もう知らないっ」
「おい、待てよ。この色が気に入らないのかよ」
 妻は怒って家の中に入ってしまう。勇作は駐車場に紫のBMWと共に取り残された感じだ。
 どうして明美が怒っているのか理解できない。この紫という色が気に入らないのだろうか?
 冷静に話し合って、彼女の怒りの理由を教えてもらわないといけなかった。だけど勇作も妻の態度に腹が立っていた。もし何か気に入らない事があったとしても、あのケンカ腰は許せない。しばらく口を利くことはないだろうと思った。

   11

 斎藤勇作と妻の明美は翌日になっても、必要最低限の言葉しか交わさなかった。ただし梨香の前では仲がいいように装う。絶対に娘を夫婦喧嘩に巻き込んではならない。それは結婚する前に二人が決めていた。
 勇作の父親は日常的に息子の目の前で母親を殴った。一度は醤油のビンを振り下ろす。理由は母親が酒を買うのを忘れたからだ。
 ろくでもない父親だった。反面教師にして勇作は一滴も酒を飲まない。喫煙は二十歳の誕生日で止めた。
 妻と顔を合わせたくないので、自分の部屋に閉じ籠った。帳簿をつけたり書類仕事を片付けた。一段落すると駐車場へ行って輸出する中古のオートバイを磨く。しかし、おのずと目が購入したばかりのBMWへと向く。
 なんと素晴らしい車だろう。4ドア・セダンのスタイルがかっこいい。トルマリン・バイオレットの車体は日光を反射して輝いていた。どうして明美がこの車を嫌うのか、さっぱり理解できない。普段通りに話せるようになったら、時を見て問い質したい。
 勇作はBMWに近づくと、ドアを開けて車内を点検し始めた。後部座席に座ってみる。レザー・シートの感触はいい。やはり高級感が漂う。広さも十分だ。どこにも不具合は見つからない。前のシートに移って助手席に座った。外装だけじゃない内装も新車並みだと感じた。
 何で前の所有者は、こんな極上車を手放したのか不思議に思う。買ったはいいが、その後に金がなくなったのかもしれない。人それぞれ色んな事情があるだろうから。
 コンソール・ボックスを開けて車検証を取り出す。ユーザー・マニュアルとか点検簿が一緒になっている。強制保険の証書には、前の所有者である平野伸太郎という名前と、彼の電話番号が書かれていた。
 一体どんな奴なんだろう? 興味が湧く。
 車検証を戻そうとした時だ、勇作は中に封書を見つけた。手に取った。宛名は書かれていないが、差出人の箇所には安藤紫という名前が紫色のインクで書かれていた。封は切られていない。中に手紙が入っていた。
 困ったな。どうすりゃいいんだ。人の手紙だぞ。捨てるわけにはいかない。この平野伸太郎という人物に電話をして、知らせてやろうか。その時に、どうしてBMWを手放したのか理由を訊いてもいい。いつか、そうしよう。勇作は封書を車検証に挟んで、コンソール・ボックスの中へ戻した。

 今夜はスイミングクラブの飲み会だ。いい気晴らしになると期待した。あの手塚奈々ちゃんが来てくれると嬉しい、と願う。
 夕方,一人で紫のBMWに乗って木更津市の居酒屋へ向かう。磯貝は用事があるらしく、自分でフォルクスワーゲンを運転して行くと言っていた。
 居酒屋の駐車場に入ると、すでにゴルフがあった。他のメンバーも何人か見つけた。集まって立ち話をしている。勇作はBMWを停めると外に出て連中に挨拶した。同時に磯貝も車から降りてくる。
スイミングクラブのコーチ達も揃っていた。あと数分で予約した時間だ。
 「まだ奈々ちゃんきは来てません」開口一番、磯貝が言った。
「そうか」がっかりだ。「来るって言っていたのにな」
「気が変わったんでしょうか」
「仕方ない。あの器量だから、色々なところから誘いがあっても当然だ」
「そうかもしれないですね」
 若くで可愛い女の子をからかって楽しみたい、という勇作と磯貝の目論見は当てが外れたようだ。
 じゃ誰か、若い女性コーチの一人を選んで仲間に引き入れなきゃならない。誰がいいだろうか? 勇作は横目で物色を始めた。
 え?
自分たちの集まりの近くに一人の女性が立っていた。さほど若くはないが相当の美人だ。スタイルもいい。うちらの仲間か? だったら嬉しいが。
 「誰ですかね?」磯貝も気づいたらしい。
「分からない」その女性は誰とも話していなかった。
「プールでは見かけたことがありませんよ」
「もしかしたら時間帯が違うのかもしれないぞ」
「その可能性はありますね」
「声を掛けてみるか?」
「お願いします」
 勇作は女性に近づく。まったく関係がなかったりして。でもダメ元だ。綺麗な女の人と言葉を交わすだけでも楽しい。
 「今晩は」勇作は声を掛けた。女は無言だったが会釈を返してきた。飲み会なんかに参加するのは初めてみたいな感じだ。
 うっ。
 正面から見ると、その美しさは際立っていた。芸能人じゃないかと思うほどだ。薄い紫のニットに濃紺のタイトスカート姿だ。服装のセンスはいい。豊かなヒップを暗い色の服で引き締めている感じだった。脚はスラリと長い。手にしたキャメルカラーのポシェットが目立つ。それに紫色のネズミのマスコットがぶら下がっていた。化粧も上手い。自分を引き立たせる術を知っている女性だ。
 「スイミングクラブの飲み会に来られたんですか?」勇作は訊いた。
「はい」
「僕たちもなんです」表情には出さないように努めたが、心の中では飛び上がって喜んでいた。「な?」磯貝に相槌を求めた。
「磯貝です。よろしく」挨拶した。
「斎藤です」勇作も続く。
「村上です。よろしくお願いします」
「こちらこそ。どちらから来られたんですか、村上さんは?」いろいろと相手の情報を多く聞き出す。そして話の切っ掛けを掴む。女の子と仲良くなる常套手段だ。
「竹岡です」
「えっ。本当ですか」
「はい」
「そりゃ、ずいぶん遠くからですね?」
「そうなんです。向こうにはプールがないので」
「それにしても遠すぎる。そんなに水泳が好きなんですか?」
「はい。下手ですけど」
「あはっ。そんなことはないでしょう」美しいだけじゅない、性格も良さそうだ。気に入った。
 この幸運に勇作と磯貝は歓喜した。口には出さなかったが、手塚奈々が現れなくて良かったと思う。もし来てたら、この女性とは仲良くなれそうにない。
 勇作と磯貝洋平の間には作戦会議なんて必要なかった。二人とも無言のうちに、居酒屋では彼女を間に挟むように席につく。
 この美しい女性は我々の仲間で、他の誰とも親しく会話してもらいたくないという参加者全員に対する意思表示だ。勇作と磯貝、それに彼女の三人はコーラを注文した。
 「あら。磯貝さんはフォルクスワーゲンに乗ってらっしゃるんですか?」女性が訊いた。テーブルに置いたVWを形どったキイに気づいたらしい。
「そうなんです。ドイツ車には国産には無い独特のフィールがありますから」
「わたしも大好きです。車種は?」
「1991年式のゴルフです」
「じゃ、2代目ですか?」 
「はい」
「わたし、あの角ばった武骨なスタイルに憧れています」
「本当ですか? 僕も大好きで、しばらくは他の車に乗り換える気がしません」
「村上さんは自動車が好きなんですね?」勇作が口を挟んだ。
 二人の会話を聞いていて、まるでドイツ車を何年も乗り継いできたような磯貝の口振りには呆れた。しかし女性と仲良くなりたいのなら、そのぐらいのハッタリは必要だ。さすがオレの元生徒だな、と感心しないでもない。
「いいえ、ヨーロッパの車だけです。デザインが素晴らしい」
「同感です。デザインと言えばイタリア車、英国車は伝統で、ドイツ車はメカニズムと言うらしいですから」
「へえ、斎藤さんは詳しい」
「徳大寺有恒の『間違いだらけの車選び』という本を読んで知識をを得ただけです」コーラのグラスを持つ彼女の手には、紫色のマニュキュアが塗ってあった。セクシーだなと感じた。
「あの本は有名ですよね」
「村上さんは、どんな車に乗ってるんですか?」これほど自動車に興味を持つ女性は初めてだ。
「ただの軽自動車です。それも今は修理中なんです」笑いながら答えた。
「え。じゃ、今日はどうやって来られました?」
「電車とバスです」
「なんだ。もし知っていたら迎えに行きましたよ」こんな美人だったら、金を払ってでも自宅へ迎えに行きたいぐらいだ。
「ありがとう御座います。斎藤さんは、どんな車に乗ってらっしゃるんですか」
「僕はBMWです」口調が自慢げにならないように気をつけた。
「えっ。じゃ、あの紫色がそうですか?」
「はい」居酒屋の駐車場に停めるところを見てくれたらしい。
「珍しい凄く素敵な色じゃないですか」
「え、そう思いますか?」褒められて嬉しかった。妻の明美とは大違いだ。
「エレガントな感じがします。3シリーズですか?」
「はい。あのコンパクトさが好きです。それに徳大寺有恒が言うには、BMWは3シリーズに限るらしい。但し僕のは4気筒ですが」
「シルキーシックスと呼ばれる6気筒が有名ですが、4気筒だって最近ではバルブトロニックとか言うシステムになって、相当に滑らかなエンジンらしいじゃないですか?」
「その通りです。ハンドルを握って走り出したら、もう車から降りたくない、ずっと走り続けていたい気持ちになります。エンジンの音は音楽みたいに心地いいです」
「うわぁ、そんな車に乗ってみたい」
「そうだ。だったら帰りは家まで送らせてもらえませんか?」
 勇作は知り合ったばかりの女性に、すっかり心を奪われしまう。美しいだけじゃない、会話していて楽しい。妻の態度に腹が立っていたので余計にそう思う。女らしい身体つきでセクシーなのも、スポーティな妻とは対照的だ。新鮮に感じた。特に目が凄く魅力的だった。見つめられるだけで性的な興奮が込み上げてくるみたいな。
 「え、そんな……悪いです。あたし、遠いですから」
「構いませんよ。一緒にドライブさせて下さい。お願いします」
 結婚してから他の女性に、ここまで心を寄せたことはない。家ではストレスを感じていたので、ここで一気に気分転換したい気持ちが強かった。浮気するわけじゃない、ドライブするだけだ。それほど罪悪感は勇作になかった。 
 会話は弾んだ。勇作の冗談に心から笑ってくれた。楽しい。家が遠いので、みんなと最後まで付き合えない、と言う。勇作に異存はなく、むしろ好都合。スイミングクラブの飲み会よりも、彼女と夜の127号線をドライブする方がずっといい。二人は一時間を過ぎたころに居酒屋を後にした。
 磯貝に、彼女を家まで送って行くから早めに引き上げると伝えたが、ニヤニヤしているだけで返事をしなかった。何が、そんなに嬉しいのか分からない。変な奴だなと思ったが、それほど気に留めなかった。
 新車のような紫のBMWを、助手席に美女を乗せて走らす。彼女の口からは沢山の称賛を浴びた。買って良かったと思う瞬間だ。
 むっ。
 運転席に座った瞬間から、大人の女性が発散する甘酸っぱい香りが漂ってきた。勇作の脳下垂体を刺激する。紫の車体色と官能的なエンジンに調和して、半端なくエロチックな気分だ。
 「村上さんは付き合っている人とかいるんですか?」勇作は気になっていたことを口にした。
 これほどセクシーで美人なんだから、彼氏がいて当然だろう。もし「います」と答えられても、それほど傷つかない。自分も結婚しているのだから。
「いません」
「えっ、本当ですか」勇作は驚いた。と同時に飛び上がるほど嬉しい。
「はい」
「信じられない」
「……」
「嘘みたいな話だ。村上さんほど綺麗な人が……」勇作は繰り返した。
「捨てられました」
「えっ」思わず振り向く。冗談で言っているのかと思った。しかし彼女は真顔だ。
「6年も前のことですが」
「びっくりだ。村上さんみたいな人を振る男が、この世にいるなんて……」楽しかった雰囲気が一気に吹き飛ぶ。
「ショックでした。結婚の話も出ていたのに、他に好きな女性ができたと告げられたんです」
「……」勇作は何と言っていいのか分からない。そいつは相当な男前なんだろうと想像した。
「そんな事を言われたのは初めてでした」
「辛かったでしょうね」
「ええ。でも今では何とか立ち直りました」
「それは良かった」勇作は安心した。
「前に進まないといけませんから」
「その通りです。村上さんは美しいだけじゃない、しっかりした女性だ」
「ありがとう御座います。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞なんかじゃありません。本気で、そう思っています」
「会ったばかりなのに、つまらない話をしてしまいました。すいません」
「気にしないで下さい」
「ところで斎藤さんは誰かいらっしゃるんですか?」
「え、僕ですか」こっちに話が回ってきた。やばい。
「はい」
「いません」ここまできて結婚しています、とは言えなかった。
「それこそ信じられない。素敵な方なのに」
「あはは」笑って受け流す。美人に褒められて嬉しかった。心臓はドキドキ。好きな女の子と初めてデートした高校生の時に戻った気分だ。
「理想が高いんですか?」
「そんな事はありません。ただチャンスがなかっただけです」
「本当かしら」
「村上さんを振った男の人は、新しく見つけた彼女と一緒になったんですか?」勇作は話題を変えたかった。こんな美人を相手に、嘘をつき続けるのは辛い。
「いいえ」
「え?」じゃ、どうなった? この女性には本当に驚かされると思った。
「交通事故で亡くなりました」
「……」
「即死ではありません。数日後に病院で息を引き取ったと聞きました」
「そうですか……」
 BMWは購入した板垣モータースの前を通り過ぎた。ここからは道路は空いている。信号も少ない。官能的なエンジンを思う存分に味わえた。
 彼女を振った男が死んだと聞かされてビックリだ。その後は二人の口数が減った。静かになった分、成熟した女性の甘酸っぱい香りが、勇作の理性を奪っていく。
 彼女はキャメルのポシェットからキイホルダーを取り出すが、それをコンソール・ボックスの上に落としてしまう。反射的に勇作も拾おうとして二人の手が触れた。
 「すいません」彼女が謝った。
「あ、こちらこそ」身体の一部に触れることができて、勇作は嬉しかった。
「村上さんは紫色が好きなんですか?」ニットのカラーとマニュキュア、それにマスコットのネズミが紫だったので訊いた。
「実は、そうなんです」
「そのニットと紺のスカートが似合ってますよ」
「ありがとうございます」
「この車を買ってから僕は好きになりました。なんか神秘的な色ですよね」
「そう思います」
 回りに店舗や民家がなくなり道路は暗い。対向車も少なかった。BMWのキセノン・ライトが前方を照らしているだけだ。この世に二人だけしか存在しないような雰囲気になっている。
 ほとんど口を利かなくなっていたが、勇作は女性の香りを楽しんでいた。なんて素敵な香りなんだろう。彼女の身体に触れてみたい欲望が募っていく。
 我慢できない。叱られてもいい。拒絶されたら潔く身を引こう。
 勇作は思い切って片手を、BMWのハンドルから彼女の膝の上へと移した。軽率な男だと失望させるかもしれないが、もう限界だ。頭から妻と娘のことは消えていた。ただ魅力的な女性に触れたいだけだ。
 すかさず彼女の手が、膝に乗った勇作の手に伸びてきた。拒絶される。慌てて身を引く。
 「す、すいません」勇作は謝った。恥ずかしい。情けない。
 ところがだ、彼女の手は勇作の引っ込めようとする手を掴むと、膝の上に戻した。びっくりだ。言葉が出ない。さらには手を勇作の手に重ねたままでいた。
 汗びっしょり。受け入れてくれたという嬉しい事実を、ただ嚙みしめるだけだ。なかなか興奮が治まらない。こんな美人が自分に好意を寄せてくれるなんて……。
 欲望に火がつく。ゆっくり勇作は膝の上に乗せた手を動かす。太腿の柔らかい感触を味わいたい。内側に忍ばせようとすると、彼女が両脚を広げてくれるのが分かった。これは、もう決定的だ。
 「あのう、……この先に『オアシス』とかいうモーテルが――」最後まで言わせてくれない。 
「行きましょう」
「はい」
 もう言葉は交わさなかった。モーテルで料金を払って部屋に入ると、真っ先に勇作は抱きしめてキスをした。なんて女らしい身体なんだろう。
 二人は愛を交わした。勇作は高校二年の夏に、4歳も年上の女性と関係を持った時と同じくらいの興奮を覚えた。女体に溺れる、そんな感じだ。
 すごく感度のいい女だった。喘いで、悶えて、悩ましく身体をくねらす。勇作は夢中になった。しばらくすると彼女は苦しそうに肩と腹で呼吸をしていた。広げたままの太腿を閉じる気力もないようだ。少し休んだ方がいい。勇作は彼女から離れた。
 浮気をしてしまった。
 欲望が満たされると勇作の頭に理性が戻ってきた。回復したら、また彼女の身体を楽しみたいと考えていたが、家族のことを思い出して、その気が萎えた。
 付き合ってくれと言われたらどうしよう。
 本当は結婚しているんです、と言って謝るしかないのか。最低の男だ、オレは。自己嫌悪に陥る。ここは早く手を引くべきだ。
 「遅くなる前に送っていくよ」勇作は服を着始めた。
 彼女もベッドから降りた。無言だ。BMWに戻って、竹岡方向へ走り出しても二人は口を利かない。どうしていいのか勇作は分からなかった。妻の明美と別れて、この女性と一緒になる気はない。娘の梨香のこともあるんだ。娘を悲しませることは絶対にしたくなかった。
 女性が口を開いた。「あたし願望があるんです」
「どんな?」この場合、こう応えるしか選択肢はないだろう。
「結婚して家を持って娘を産んで、三人で幸せに暮らしたいと思っています」
「いいね」やばい。自分の家族構成と同じじゃないか。この話題は続けたくない。
 勇作の反応が冷たかったからだろうか、女性は口を噤んだ。もし自分が独身で、この女性が本命だったら、「僕で良かったら、協力させてほしい」とか、そんな優しい言葉を掛けてやれたはずだ。そうじゃないから、今はこの状況から無傷で脱出することしか考えていない。なんか自分が卑怯な男に成り下がってしまったみたいで、すごく嫌だ。事実、その通りなんだけど。ああ、浮気なんてするもんじゃない。つくづく思った。
 BMWは竹岡を通り過ぎた。しかし何も言わない。女性の家は、まだ先らしい。こんなに遠いのか。この辺から木更津市のスイミングクラブへ通うなんて、たとえ週一度にしても非現実的に思えた。
 「すいません。遠くて」勇作の胸中を察したのか女性が言った。
「いいえ。構いませんよ」
 ところが本心は一刻も早く女性を降ろして、君津にある自宅へ戻りたかった。木更津の居酒屋を二人で出たときと、気持ちは大違いだ。
 「次のトンネルを抜けたところで降ろして下さい」
「はい」やっとだ。しかし遠かった。
 ずっと気まずい雰囲気だ。それから解放される。BMWが『城山隧道』と書かれたトンネルを抜けた。
 え、こんなところで? 周りに民家が少なかった。道路沿いに何軒かあるくらいだ。心配になってくる。
 「そこで停めて下さい。ありがとう御座いました」
「こんなところで大丈夫なんですか?」辺りは暗かった。
「はい」
「わかりました」彼女がそう言うなら、という感じだ。
 勇作はBMWを停車させると助手席へ回ってドアを開けた。そのぐらはしないと。
 「この先に空き地があって、そこでUターンが出来ます」
「見えます」これで彼女と別れられる。
「あたしの携帯の番号です」と言って小さな紙切れを手渡す。
「ありがとう。電話します」真っ赤な嘘だ。これ以上は彼女と深い関係になれない。
「……」
 別れ際の彼女の様子は悲しげだった。オレの態度から気持ちを察したんだろうか。それで引き下がってくれるなら嬉しいが。彼女に悪い事をしたなという罪悪感が残った。独身とウソをついて関係を持ったのだから。ああ、やりきれない。
 もう二度と浮気はしない。BMWのハンドルを握りながら勇作は誓う。
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