中古車

   12

 村上冴子。
 わたしの携帯の番号です、と言われて手渡された紙切りには、当然だけど彼女の名前が書かれていた。しかし絶対に連絡はしない。紙を捨てようかと迷っていた。必要なかった。しかし早過ぎて失礼じゃないかと思えた。相手には分からないのだが、勇作の良心が痛む。
 自分の番号を教えないで済んだことは本当に良かった。もし電話されたら、いずれ妻の明美にバレてしまうのが目に見えてる。あいつは絶対に許してくれないだろう。娘を連れて家から出で行くかもしれない。いや、このオレが追い出される可能性の方が強い。そうなっても文句は言えない。とんでもない事をやってしまった。
 やはり紙は早く捨てるべきだ。妻に見つかったら、とても誤魔化せない。証拠隠滅こそが家庭を守る唯一の手段だ。
 家に帰ってからは明美に対して普段通りに振舞う。もうオレは怒っていないという意思表示だ。向こうも折れてきたら、こっちから謝ろうと思う。勇作には強い罪悪感があるからだ。 
 しばらくスイミングクラブへ通うのは止めようかとも考えた。だけど今までプールで村上冴子に会ったことはない。きっと時間帯が違うのだ。じゃあ、心配しないでいいか? でも自重するに越したことはない。大人しくして様子を見ることにした。
 ところが勇作が想定した日常は翌日の朝、携帯電話に届いたショートメールで崩れてしまう。

   13

 『昨日は素敵だった。ありがとう』、と村上冴子からだった。
 どうして、オレの番号を知っているんだ? 短い文章だったが勇作に与えた衝撃は計り知れない。恐怖を感じた。あの女に付きまとわれたらオレは全てを失う。
 どうやってオレの番号を知ったんだろう? モーテルで彼女を一人にさせたのは、シャワーを浴びたのとトイレに行った時だけだ。それだけの時間で、ポケットに入ったオレの携帯を見つけて、番号を調べたのか? だけど、そわそわした様子は彼女には見られなかった。不思議だ。勇作は考えた。
 えっ、まさか、あいつか? 
 頭に浮かんだのは磯貝の顔だった。あの女を知っているのは、オレたち二人だけだ。間違いない。とんでもない事をしてくれたぜ。勇作は腹が立った。だけど何で? どういう理由であれ許すことは出来ない。
 今日は譲ったゴルフの代金を、磯貝から受け取る予定になっていた。丁度いい。その時に問い質してやろう、と勇作は思った。

   14

 うっ、……マジかよ。
 待ち合わをせしたファミリーレストランへ向かう為に、BMWに乗り込むと、強い女の香りが勇作の鼻孔を刺激した。あの女だ。その香りが車内に残っていた。ウソだろ。芳香剤が必要だ。もし妻の明美がBMWのドアを開けたら、車に女性を乗せたことがバレてしまう。誰なの? と問い詰められる。あいつは感が鋭い。浮気を白状するまで追及するだろう。勇作は磯貝と会う前にジョイフル本田へと急ぐ。イエローキャップには行かない。手塚奈々と会う気分じゃなかった。
 芳香剤の他に消臭スプレーも買った。完ぺきに彼女の香りを取り除かないと身の破滅を招く。
 磯貝と顔を会わると、普段通りに挨拶を交わして店内に入った。ゴルフの代金の受け渡しが終わるまでは問い質すことはしない。喧嘩にならないとも限らないからだ。
 勇作は怒っていたが調子抜けする出来事が起きた。馴染みのウェートレスがメニューを持って注文を訊きに来たのが、今日に限って水の入ったコッブを3つもテーブルに置いたのだ。冗談かと思って彼女の顔を見上げたが、表情は笑っていない。
 コーヒーを2つ注文すると、「2つでいいですか?」と確認まで取る始末。からかわれているんじゃないかと思った。
 「どうしたんでしょうね?」ウェートレスが立ち去ると磯貝が言った。
「わからない」勇作は首を左右に振るだけだ。
 磯貝洋平は会った時から機嫌が良かった。何かいい事でもあったのだろうか。コーヒーが運ばれてきた。20万円の受け渡しも終わった。勇作は強い口調で本題に入った。
 「お前、あの女にオレの携帯の番号を教えただろう?」
「え?」
「今朝、ショートメールが届いたんだ」
「さあ、……自分はしてませんけど」
「ウソつくな。あの女と仲良くしていたのは、オレたち二人だけなんだから」
「やってません。そんな事するわけないでしょう」
「じゃ、誰なんだ?」
「知りませんよ」
「……」勇作は黙った。磯貝の態度からは、ウソをついている様子が見えない。
 「斎藤さん」疑われたのに磯貝の機嫌は変わらないみたいだ。
「何だ?」
「昨日の女性ですが、本当にいい女でしたよ」
「どういう意味だ?」何を言い出す?
「実はオレ、ゴルフに乗せて欲しいって言われたので、二人で夜のドライブと洒落込んだんです」
「えっ」こいつ、本気で言っているのか?
「途中で意気投合しちゃって……」磯貝の笑顔が満開だ。「あは。
そのままモーテルへ行きました」
「……」勇作は相手の言葉よりも、表情を真剣に読もうとした。本気なのか冗談なのか知りたい。
「あんなに感度の良かった女は他に知りませんよ」
「……」呆気に取られて勇作は何も言えない。
「飲み会の途中で抜け出しちゃって失礼しました」
「お前、マジかよ、それ?」
「はい」磯貝は嬉しそうに頭を下げた。
「お前、あの女と本当にモーテルへ行ったのか?」念を押す。
「はい。ウソじゃないです。あの女の視線は特別でした。もう見つめられるだけで、こっちは興奮してきちゃって……うふ」
 勇作は言い返さない。こいつに何を言っても無駄だろう、そう感じた。自分が女とモーテルへ行ったと信じ込んでいる。どうしてだろう?
 お前は間違っている。女とモーテルへ行ったのはオレなんだ。そう言い返したいが止めた。こいつは有頂天になっていて、受け入れそうにもない。
 お前、美容師の小夜子はどうするんだ。もしバレたら大変な事になるぞ。そう忠告もしたかったが止めた。自分も同じ立場だ。人の事は言えない。
 何が何だか、さっぱり分からない。混沌とした気持ちで磯貝と別れた。あいつが理解できない。また会って話したいとも思わなかった。

   15

 どうなっているんだ、一体。
 勇作は数少ない友人の一人を失った思いだ。喪失感と孤独。なんとか妻の明美と早く仲直りしたい気持ちが強まった。
 よそよそしさはあるが、普段通りに言葉を交わすぐらいには戻っていた。もう一押し。勇作は出来るだけ家事の手伝いをしようと心掛けた。
 「今日はオレが梨香を幼稚園へ迎えに行くから」
「あ、そう。有難う」
 妻の口から感謝の言葉を引き出す。一歩前進。
 娘が通うマリア幼稚園は貞元グランドの近くにあった。県道から少し住宅街へ入っている。
 午後3時過ぎ、勇作が紫のBMWで迎えに行くと、門の回りには親を待つ数人の子供たちがいた。彼らの傍には古賀千秋先生が立っていた。
 愛想が良くて感じのいい女性だ。梨香も大好きだと言っていた。チャーミングで、スタイルも悪くない。歳は二十歳前後だろうと推測した。
 妻の話では、ルピタで何度か見掛けたが、その度に一緒にいる男が違ったと言う。さぞかし異性にはモテるらしい。外観からすれば当然だが、職業を考えれば相応しくない。
 勇作は車から降りて道路を渡った。と同時に住宅の門に繋がれた犬が吠える。名前はリボンだ。いつも帰りには勇作と梨香が、なでなでして可愛がっていた。
 「こんにちは」
「斎藤さん、車を買い替えたんですか?」
「ええ、そうです」
「BMWじゃないですか?」
「はい」
「かっこいい。なんて素敵な色なんでしょう」
「ありがとうございます」これが普通の反応だろ。うちの明美はどうかしてるぜ。
「新車ですか?」
「いいえ、中古ですよ」
「え、本当ですか? じゃ、さぞかし高かったでしょう。程度が良さそうだもの」
「いいえ。たまたま掘り出し物に当たったみたいで、かなり相場よりも――」
 勇作は続く言葉を飲み込む。突然、古賀先生が奇妙な行動を取ったからだ。
 勇作の背後、紫のBMWの方へ顔を向けると頭を下げたのだ。知り合いでも立っているんだろうか? 反射的に振り返ったが誰もいない。どうなってんだ?
 「こんにちは」別の父兄が近づいてきて、古賀先生に挨拶した。
続々と親が子供を迎えに来る。ご苦労様です、と言葉を返して対応に追われる彼女だった。もう会話は続けられない。中断されたまま終了だ。 
 「じゃ、梨香、行こうか」
「うん」
 さようなら、と古賀先生に言うのを促すと、勇作は娘の手を握って道路を渡った。すぐに車には乗らない。犬のリボンと遊んでからだ。雑種らしいが、人懐っこくて可愛らしい。忙しく尻尾を振っていた。体を撫でてくれ、と催促しているのだ。
 「パパ、うちも犬を飼いたい」この言葉を娘の梨香は何度も繰り返す。数多く言えば、そのうち実現すると確信しているのだ。
 「そうだな。いつかパパがママを説得しよう。でも今は待ってくれ」
「いつかって、いつ?」
「そのうちだ」
「そのうちって、いつ?」
「……」切りがなかった。子供との会話は疲れる。「あのな、すぐにはダメなんだ。分かってくれ」
「早く飼いたい」
「うん。パパも同じ気持ちだ」
 娘の梨香が産まれる前だ。勇作と明美は富津公園で野良犬を拾ってきて飼った。名前はエル。妻には特に懐いていた。それが散歩の途中で黒いドーベルマンに威嚇されて、身を引くと首輪が外れてしまう。走り出して妻の目の前でトラックに轢かれたのだ。頭が陥没して即死だった。相当にショックだったのだろう。それ以来、犬か猫のどれか、ペットを飼おうかと提案すると、明美は首を横に振るばかりだ。勇作一人の力では無理だった。娘の梨香と二人で頼み込むしかない。
 しばらくリボンを撫でてやってからBMWに乗り込む。車の中で勇作は娘に話し掛けた。
 「幼稚園は楽しかったかい?」
「うん」
「今日は何をやったの?」
「お絵描きした、みんなで」
「へえ、そりゃ良かった」
「うん」
「梨香は何を描いた?」
「リボン」
「……」そんなに好きなのか、犬が。「その絵を後でパパに見せてくれるかい?」
「いいよ」
 娘との会話は楽しい。日増しに大人びた言葉が、小さい口から返ってくるのが愉快だ。梨香の人間性を豊かにする為にも、何かペットが必要だと実感した。
 そうだ。
 クリスマスのプレゼントとして、我が家に犬か猫を迎えるのはどうだろう。この子に目隠しをさせて、サプライズで披露するなんていいじゃないか。どんな反応をするのか見たい。パナソニックのビデオ・カメラをセットして一部始終を記録しよう。いい映像が撮れたら一家の宝になるのは間違いない。何だか、わくわくしてきた。
 こうなったら一日も早く妻の明美と仲直りしたい。このアイデアには、きっと賛同してくれるはずだ。
久しぶりに勇作は楽しい気分になった。やっぱり家族なんだ、オレを幸せにしてくれるのは。

   16

まったく、あの会社は信用できないな。
日産の自動車を専門に扱う船会社から、電話があったのは午前中だった。今度の船にも中古のオートバイを載せられない、と伝えてきた。
 最初の出荷は3か月前で、それは無事にオランダに着く。空いたスペースを利用してなので船運賃が安い。お互いにとって悪くない話だった。ところが今回は円安が進んで、これまで通りとは行かない。
 こうなれば正規の船賃を払ってでも、ハパックロイドのルドウィック・シャーヘンという船に載せなきゃならない。
 問い合わせをしてみると、中古のオーバイ12台をコンテナに詰めてくれるなら引き受けると言う。
 それで勇作は運送会社を探し出して、中古のオードイを本牧埠頭から、コンテナ詰めをする埼玉の業者まで運んでくれるように手配した。初めての事だ。何か不具合が起きないとも限らない。心配だった。
 シンガポールへ輸出するのは川崎にある梱包会社に頼んで、2台を1つの木箱に組んでもらう。輸出する国の決まり事が様々で、それによって出荷の方法は色々と変わる。
 やるべき仕事は今日のところ終わった。そう感じてゴールドブレンドでも飲もうかと考えた。するとドアをノックする音がした。明美だ。自分の他は家に彼女しかいない。
 「いいよ」嬉しかった。仲直りが近そうだ。
「いま、大丈夫?」明美が部屋に入ってきた。
「ああ。今、なんとか一段落したところだから」
「ちょっと話したいことがあるの」表情が深刻だ。 
「どうしたんだ?」どうやらBMWのことじゃないらしい。
「梨香なんだけど……」
「うん」勇作は立ち上がって妻のために、もう一つの椅子を用意した。「何か飲むかい?」
「ううん。いらない」明美は首を横に振ると椅子に座った。身のこなしが軽い。きっと、いつも泳いだり走ったり運動しているからだろう。
「梨香がどうした?」娘の問題なら、たちまち夫婦喧嘩は休戦状態だ。
「昨日なんだけど、2階へ上がると梨香が一人で喋っていたの。まるで誰かと話をしているみたいに」
「……」
「それで心配になって声を掛けたのよ」
「うん」
「でも返事をしない。振り向きもしなかった」
「えっ?」
「独り言はやめたけど何も言わないの。ただ黙っているだけ」
「本当かよ?」勇作は身を乗り出す。
「近づいて、また声を掛けたわ」
「それで」
「放心状態なの」
「なんだって?」
「何度も声を掛けたわ。そしたら目を覚ましたみたいに、正常に戻ってくれた」 
「マジかよ?」何かの病気じゃないだろうか。
「いま誰と話していたのかって訊いてみたわ」
「何て答えた?」
「知らないって」
「なに」
「覚えていない様子なの」
「おい。もしかして病気か?」
「わからない」
「その後は?」
「いつもの梨香よ。普段通り」
「医者に相談した方がいいかな?」
「そうする?」
「一人ぼっちの子が頭の中に想像で友達を作って遊んだりすると、聞いたことがあるけどな……」
「いいえ、そんな感じじゃなかった」
「よし、まずオレが梨香に訊いてみよう。あのとき誰と話していたのかって」
「そうして。お願い」
「わかった」
 妻の明美は心配事を夫に打ち明けて、少し気を楽にしたようだった。部屋から出で行こうとして立ち上がる。勇作は声を掛けた。「明美」このまま仲直りといきたい。
「なに?」
「どうして、あのBMWを嫌うんだ? その理由が知りたい」
「……」しばらく妻は立ったままだったが、また椅子に腰を下ろした。
「教えてくれ。お前に黙って紫のBMWに変えたのは悪かった。謝るよ」
「あの車には嫌な思い出があるの」妻が重い口を開く。
「何だって? 買ったばかりなんだぞ」意味が分からない。
「それは、あなたにとって」
「どういう意味だ?」
「前に付き合っていた彼氏が乗っていた車と同じだから」
「えっ」
「瓜二つって感じ」
「そうだったのか」
「二股を掛けられていたの」
「……」初めて聞く話だった。
「真剣に付き合っている人がいながら、あたしに声を掛けてきたんだから」
「ひどい奴だな」相槌を打つが、言葉に力が入らない。オレにしたって同類だ。
「それを知って別れたわ」
「……」今でも引き摺っているくらいなんだから、さぞかし辛い思い出だったのだろう。
「もう売って処分してとは言わない。勇作が好きで買ったBMWなんだもの。だけどあたしは指一本触れない、あの車には」
「……」そこまで言うか。
「家族3人で出掛けるときは、あたしの軽自動車を使えばいい」
「待ってくれ。少し考えさせてくれ」
「どうする気?」
「何とかしよう。このままじゃ、オレだって嫌だ」
「わかったわ」
 勇作は外装を別の色に塗り替えようかと考えた。しかしスタイルや内装はそのままだ。明美は態度を変えてはくれないだろう。
 仕方がない。何か月か乗ってBMWの運転を堪能したら、早めに売るしかないのかもしれない。せっかくの掘り出し物だったが、妻が受け入れてくれないのなら手放すしかない。残念だが。
 「ところで……」
「なに?」
「その男は真剣に付き合っていた女性と一緒になったのか?」
「ううん」
「え、どうした?」
「交通事故で亡くなったらしい。あたしが二股を掛けられていたのを知ってから間もなくだった」
「……」勇作の身体に緊張が走った。つい最近だ、同じような話を耳にしていた。嫌な偶然だ。何も言えない。言葉が口から出てこなかった。
 携帯電話が鳴った。
 それが会話の終了の合図となった。お互いに無言で頷く。勇作は携帯を手にした。明美は椅子から立ち上がって部屋から出て行く。
 「も、……もしもし」喉がカラカラに渇いていた。相手は埼玉にあるコンテナ詰めをしてくれる業者からだった。見積もりが出たという。

   17

浮気した相手から斎藤勇作に二度目のショートメールが届く。開いてみると、「また逢いたいです」と書かれていた。
 気が重く沈む。
 あれで終わってくれたら、という身勝手な期待は脆くも崩れた。当たり前だけど……。それなりの償いをしないと、向こうは納得してくれないだろう。勇作は色々と考えて返信を書く。
 「会って謝りたいことがあります。斎藤勇作」
 シンプルな文にした。これで、こっちの察してほしい。そしたら顔を合わせた時に話を進めやすい。
 オランダへの輸出の件、それに紫のBMWと問題を2つも抱えているところに、もう1つ、自らの過ちでトラブルを抱えてしまう。
 あ、そうだ。梨香の不可解な行動も心配の種だった。それらを一つ一つ解決していかなければならない。人生とは大変なモノだと、つくづく思う。
 携帯電話が着信メールの音を鳴らした。
 えっ、早い。村上冴子からの返信だ。勇作は悪寒を覚えた。文面は「許さない」の一言だった。
 急いで相手の番号に電話を掛けた。メールじゃダメだ、言葉で相手を宥めないと。しかし呼び出し音だけが鳴り続けるだけだ。彼女は怒って電話に出ない気らしい。その日、勇作は何度も連絡を取ろうとした。「会って話がしたい」、と何度もメールを送る。ところが相手からの返信は二度となかった。
 困った。連絡が取れない。どうすれば彼女と会えるだろう。
 自宅は城山トンネルの近辺だが、どの家なのかハッキリとは知らない。勤め先も知らない。歳すら聞いていなかった。彼女については、ほとんど何も知らないのと同じだ。
 じゃ、手掛かりはスイミングクラブだ。コーチに訊けば彼女が何曜日に泳ぎに来るか教えてもらえる。今日は久しぶりにプールへ行こう。

   18

 女は稀に見る美貌の持ち主だ。父親を譲りと言えた。痩せて背が高く、目鼻立ちの整った精悍な男らしい顔をしていた。
 よく友達から、「紫ちゃんのパパってカッコいい」と言われた。だけど嬉しくなかった。それが、いざこざが絶えない家庭の原因だったからだ。父親の女性問題。
 「その気がオレになくても、女の方から寄って来るんだから仕方ない」、そう本人が誰かに話しているのを聞いたことがある。母親の方は癇癪を起して、よく泣いていた。
 女は中学二年の時、転校生してきた母子家庭の女の子と仲良くなる。同じように背が高くて、朝礼で並ぶ順が前後だったのが切っ掛けだ。二人とも異性を引きつける容姿をしていた。周りの目から見れば、似た者同士と映っただろう。
 ときどき家に招いて遊んだ。そのうち母親同士も仲良くなった。
女の母親は、女手一つで娘を育てる友達の母親を憐れんだ。色々と世話を焼くようになっていく。家族で一緒に食事をすることも何度かあった。それが間違いの始まりだ。
 数か月後には友達の母親と自分の父親が不倫関係にあることが発覚。母親は逆上した。
 三人の大人が家に集まって話し合いが行われた。その席で母親は用意していた包丁を取り出して、友達の母親に襲い掛かった。騒々しい音に驚いた女は二階にいたが、すぐに居間へ降りてきた。母親は半狂乱だった。見境なく包丁を振り回す。娘である女にも切りつけた。そして包丁は止めようとした父親の腹部に突き刺さる。急いで病院へ運ばれたが数時間後には息を引き取った。母親は警察に逮捕された。女は家族を失う。
 祖父の家に引き取られた。失意の日々が続く。無口になった。死にたいと強く思う。まず場所を探して、そして日時を決めた。
 崖から海へ飛び込むのが自分らしいと考えた。台風の日を選ぶ。しかしだ、いざという時に近くに置いてあったダンボールの箱から子猫の鳴き声が聞こえた。
 捨て猫だ。箱を開けてみると、中には痩せて汚れた黒い子猫がいた。お腹を空かしているらしい。この子を助けてあげたい、と思った。いつだって自殺は出来る、別に今日じゃなくてもいい。
 祖父の家に連れて帰って汚れた体を洗う。キャットフードを近くのスーパーまで買いに行く。座布団の上に寝床も作った。初めての経験だ。忙しくて疲れた。お腹が満たされた子猫はスヤスヤと居眠りを始めた。それを見ると疲れは吹き飛んだ。やっと休める。一段落すると自殺の意志は消えていた。この可愛い子と一緒に生きて行きたい、という気持ちに変わった。助けてやった子猫に逆に助けられたのだ。
 両親とは違う幸せな家庭を自分は築こうと考えた。それを目的に前向きに猫と一緒に生きていく。
 幸せそうな子連れのカップルを街中で見ると、すごく羨ましく思った。理想の男を見つけたい。その為に自分には磨きを掛けた。女らしい曲線を保ちながら、エアロビスクで引き締まったボディを手に入れた。雑誌でオシャレについて学ぶ。自分が素敵に見える服には出費を惜しまない。
 ところが、なかなか上手く行かない。何度も裏切られた。近寄って来る男たちは多くが、自分の美貌と肉体だけが目的だった。
 怒り。このままでは許さない。
 女に復讐心が生まれた。男と付き合うのに、この人に裏切られた場合に、どう仕返しするか前もって考えた。
 肉体だけを楽しんで女から去ろうとする男には、厳しい制裁が待つ。ペナルティと名付けた白い粉をドリンクに混ぜて飲ます。毒が体の機能の一部を麻痺させた。殺しはしない。残りの人生を障害者として歩ます。ターゲットが本人とは限らない。そいつの最も愛する人物を傷つけるというのも選択肢だ。肉体的か精神的に苦痛を与えてやる。復讐は楽しかった。バカな男どもを懲らしめるのは愉快だ。
 女は美術教師になった。赴任したのは君津南中学校だ。何年か後の入学式だ、会場となる体育館と本校舎を結ぶ通路で、中学二年の時に仲が良かった女とすれ違う。直感で分かった。相手も気づいたのは間違いない。不自然に立ち止まったからだ。一瞬だけ目が合うと、その場から足早に離れていく。
 かつて仲が良かった女は大人の色気を身にまとって、ずいぶんセクシーになっていた。式の最中、それが終わってからも、女の姿を探した。でも二度と目にしない。帰ったらしい。あたしを恐れて避けたのだ。
 女は理解した。自分を不幸のどん底に落とした女の孫が、君津南中学校へ通う一年生の中にいる。手の届くところにいるのだ。
 かつての友人は自分よりも先に結婚して子供を産んでいた。くやしい。復讐してやりたいという気持ちが沸き上がった。
 時間は掛かったが、その生徒を見つけ出す。母親に似た綺麗な娘だった。やり甲斐がある。在学中はチャンスがなかったが、ずっと追い続けた。最終的に意のままに操れる男を使って白い粉を飲ませる。母子家庭だった女が産んだ娘は、成人する直前に失明した。
 ざまあみろ。いい気味だ。
 母親と祖母は深い悲しみに落ち込んだろう。できることなら、あたしの仕返しだと教えてやりたい。悲しみが倍増するハズだから。
 復讐とか、楽しんだ代償を払わない愚かな男たちに、天罰を下すのは愉快だ。
 今は刑を執行してやりたい男が二人いた。どんな量刑にするか考え中だ。二度と立ち上がれないくらいの苦痛を味わせてやりたい。

 生まれつき女は美しかったが、今では永遠の美貌を手に入れていた。決して老いることがない。悪魔の子を産んだ見返りだ。
 双子だったが一人は死産で、しくじった。誰も助けてくれず、血の儀式は自分の手で行う。その代償として精神病院へ収監されてしまった。
 女は自由になる為に、警備員として働いていた初老の男を色仕掛けで手懐ける。病院からの脱走を手伝わせ、真夜中の公園で一休みしたとこで、盗んできた懐中電灯を後ろから男の頭に振り下ろす。それが報酬だ。
 気を失った初老の男の財布から数千円を抜き取り、女は国道へ出た。そこでヒッチハイクをして、若い男が運転していた青い乗用車に乗せてもらう。
 その後は次々と男を取り換えて、自分の生活基盤を整えていく。
住む場所を確保して、仕事を見つけた。男たちに貢がせて貯金もできた。最後は正規の身分証明書だ。それを手に入れたら堂々と生きていける。
 目をつけたのは、君津のカトーヨーカドーで万引きを取り締まっていた保安員の女だ。身長は同じくらいで顔の輪郭が似ていた。
 手懐けた若い男を接近させてドライブに誘う。そのまま拉致すると山奥の小屋に監禁した。硫酸を使って指紋を消す。本人と判別不能になるまで歯を抜く。食事は最小限にして、病人みたいに痩せさせた。身体を傷つけるのは、そこまでだ。精神的には発狂するまで恐怖と苦痛を与え続けた。途中で若い男が怖気づいて尻込みしだしたので、後ろからナイフで刺した。死体は小屋の近くに穴を掘って埋めた。
 計画が最終段階になると、自分が脱走した精神病院まで行ってみた。兄弟に病人がいるとか嘘を用意して建物の中へと足を運ぶ。知っている職員が多くいた。誰一人として自分が数年前に脱走した患者とは気づかない。驚いたことに初老の男も勤務を続けていた。
 この野郎は、女の脱走を助けて頭を殴られたことを誰にも言っていない。それでいい。思った通りだ。その時、きっと病院は大騒ぎになったハズだ。なにしろ女の患者一人が消えただけじゃない。そいつは産婦人科で赤ん坊を殺害している凶悪犯でもあるのだから。
 女は自分が精神病院で身につけていた名前入りの白いガウンを、発狂した女に着せた。その上に初老の男が貸してくれた茶色のコートを羽織らす。あの野郎の名前が内側に刺しゅうしてあった。そして真夜中の公園に発狂した女を解放してやった。きっと病院は脱走した患者が見つかったと思うだろう。同時に初老の男が窮地に陥るのが愉快でならない。ざまあみろ。
 こうして女は安藤紫から村上冴子に生まれ変わった。
 新しい身分を得て理想の男を見つけることに精を出す。しかし、なかなか上手く行かない。いい男には、ほとんど綺麗な女がいるのだ。見つけられても多くが、自分の美貌と肉体だけが目当ての連中だった。
 数週間前だ、Dマーケットで買い物をするオシャレなカップルを見つけた。ワンレングスの女は人目を引くほどの美人だ。二人は三十歳前後だろう。周りを気にせずによく笑って仲が睦まじい。女のお腹が大きかったから結婚しているのが分かる。もうすぐ産まれるのは間違いない。
 羨ましい。
 男の方は色彩豊かなアロハ・シャツを着て、破れたジーンズを穿いていた。ボサボサの髪に痩せて精悍な顔つき。芸術家みたいな繊細な雰囲気を漂わす。好みのタイプだ。自分が、あの女に取って代わりたいと切に願う。遠くから、ずっと二人の様子を窺う。買い物が終わって彼らが、駐車場でフォルクス・ワーゲンの白いビートルに乗るところまで追いかけた。
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