中古車

   19

 斎藤勇作はスイミング・クラブへ行くのに早めに家を出た。トレーニングが始まる前に、コーチの誰かにに尋ねたかったからだ。
 紫のBMWに乗り込んで運転席に座ったとき、僅かだが、あの女の香りを再び感じた。
 げっ、マジかよ。
 まだ消えずに残っているのが信じられない。消臭スプレーも芳香剤も効いていない。明美がBMWには指一本触れないと言ってくれたのが幸いだ。
 勇作はスイミング・クラブに着いてアリーナの水着姿になると、シャワーを浴びてプールサイドへ出た。近くに二人の女性コーチが喋りながら立っていたので、さっそく話し掛けた。都合がいい。飲み会に来ていたメンバーだ。
 「ねえ、コーチ。教えてもらいたいんです。飲み会で自分と磯貝の間に座っていた女性なんですが、いつ泳ぎに来ていますか?」会釈だけで挨拶を済ませると本題に入った。
「あの綺麗な方ですか?」
「そうです」
「会員の方じゃありません。ねえ?」首を横に振りながら言うと、もう一人の女性コーチに相槌を求めた。
「うん」
「えっ、そんなことは……」どうなっているんだ、一体。
「斎藤さん達の知り合いじゃないんですか?」
「いいえ、違います。じゃあ、コーチの誰かが彼女を誘ったということは?」
「それはないです。あの綺麗な方が斎藤さん達と一緒に早めに帰られたので、どんな関係なんだろうと皆で噂したぐらいですから」
「……」理解できない。また『斎藤さん達』、という複数形の言葉が引っ掛かった。「ちょっと待って下さい。僕らが三人で居酒屋から出て行ったと言うんですか?」
「は、はい」
「それ、本当ですか?」
「え、……ええ」躊躇いがちに二人の女性コーチが頷く。怪訝そうな目で勇作を見ていた。彼らが思っていることはただ一つ。この人ってバカじゃないかしら、だろう。
「……」気分が悪くなってきた。もう泳ぐ気はしない。その場から勇作は黙って離れると、更衣室へ戻った。
スイミングクラブの駐車場で、ゴルフから降りてきた磯貝洋平と顔を合わす。「斎藤さん」と声を掛けてきたが、勇作は「やあ」と返しただけでBMWへ乗り込む。話す気分じゃなかった。
 
   20

「この前は少し短過ぎたぜ。今日は長めに頼むよ」磯貝洋平は美容室アベニューで、担当してくれるスタイリストの小夜子に注文をつけた。
「あら、そう」
 相手は頷いてくれたが、言った通りに長めにしてくれるのか疑わしい。小夜子は自分の好き勝手で磯貝の髪を切った。この方が恰好いいからと、仕上がった後で説明するだけだ。客として扱ってくれなかった。文句を言いたい時もあったが磯貝は我慢するしかない。二人は付き合って長い。つまり磯貝の髪型から服装までが小夜子の好みに合っていなければならないのだ。
 「スイミイングクラブの飲み会は楽しかった?」ハサミを動かしながら、さり気なく小夜子が訊いた。
「え?」磯貝は即座に返事ができなかった。慌てた。答えを用意していない。聞こえなかった振りをして時間を稼ぐ。
「スイミイングクラブの飲み会のことよ。どうだったの、って訊いてんの?」小夜子は繰り返した。
「まあ、いつもの通りさ。たいして面白くない。面々が同じだからな」磯貝は何とか平常心を保とうと努力した。
 ちっ。スイミイングクラブの飲み会のことを、小夜子に話していたのをすっかり忘れていた。何もなければ訊かれても即座に返事が出来たはずだ。しかし磯貝は知り合ったばかりの女を連れてモーテルへ行っていた。浮気だ。罪悪感がある。何もなかったと嘘をつくしかない。 
 「……」小夜子のハサミを持つ手が止まった。疑っている。鏡の映った磯貝の表情を読み取ろうとしていた。
「……」ヤ、ヤバい。磯貝も見つめ返す。視線を逸らせては嘘がバレてしまう。
 小夜子の第六感は恐ろしいほど鋭い。今まで磯貝がついた嘘の全てを見破った実績がある。その度に償いをさせられた。但し今回は嘘を突き通すしかない。浮気は絞首刑に匹敵する重罪だ。 
 小夜子とは別れたくない。ずっと一緒に居たい。オレに尽くしてくれる本当にいい女だ。浮気をしたことを今は後悔している。
 どうする? ヤバいぞ。どうやって誤魔化せばいい。磯貝の額から汗が噴き出してきた。息も苦しい。と、その時だ。美容室のドアが開いて一人の男が入店してきた。乱れた髪型だけどラフでオシャレな感じ。カラフルなアロハ・シャツが似合っている。動きも軽快だ。
 「おはようございます」店の従業員のすべてが口を揃えて挨拶した。いらっしゃいませ、じゃないから客ではなさそうだ。
 「だれ?」反射的に磯貝は小夜子に訊いた。話題を変えられそうなチャンスだと思った。
「チーフよ」
「え?」
「ここの経営者。みんな、チーフって呼んでるの」
「それにしては若そうだな」
「でも三十代半ばよ」
「へえ。独り者かい?」
「ううん。去年の暮れに結婚したわ。娘さんが産まれたばかり」
「そうか」磯貝は返事を聞いて少し安心した。あんな見栄えのいい男が小夜子の近くにいるのは気に入らない。でも結婚しているなら話は別だ。
 ヤバい状況から抜け出せた感じだ。後で再び問い詰めされそうだが、この場は何とかしのげた。磯貝洋平は生き返ったような思いだった。 

   21

 「チーフ」
「なんだ?」店の経営者は一人の従業員に声を掛けられて振り返った。
「いま小夜子さんがカットしている人なんですが……」
「ん?」相手がニヤニヤしているので興味が沸いた。
「彼氏なんです」
「え、本当か?」
「はい」
「……」経営者の男は素直に喜べない。
 小夜子は店で一番の売り上げを常にキープする従業員だった。もし結婚でもして店を辞められたら、大きな打撃になることは間違いない。いずれ独立して自分の店を持つのは分かっている。しかし少しでも長く店に留まって働いて欲しいのが本音だ。
 背が高く痩せていてスタイルは抜群、服装のセンスもいい。カットの技術も確かだ。接客にしたって文句がない。これだけ優秀なスタイリストは滅多にいない。じゃあ辞められても困らないように、ほかの従業員を育てればいいのだが、その期待に応えてくれそうなのが一人もいない。経営者にとって頭の痛い問題だ。
 「付き合って長いのか、あの二人は?」
「ええ、多分。あたしが入店する前から一緒でしたから」
「そうか」
 この店舗は若くて綺麗な女性だけを雇って、男性客をターゲットに経営していた。狙いは当たって、なかなか繁盛している。だけど魅力的な女の子には、ほとんど彼氏がいた。当たり前だ。だから結婚を理由に辞めていくのが少なくなかった。
 早めに手を打たないと後で苦労しそうだ。男はポケットに手を入れて、フォルクス・ワーゲン ビートルの鍵を握りながら思った。

   22

 「あたしは『レント』の方がいい。トム・ハンクスの『ダ・ヴィンチ・コード』は見たくない」小夜子は言った。
「どうして?」磯貝洋平は訊いた。
「だって『ダ・ヴィンチ・コード』は、小説そのものが面白くなかったから。やっぱりミュージカルの方が好き。ブロードウェイで大ヒットだったらしいよ」
「……」
 いい展開になっていた。今度の休みに映画でも見に行こうか、と誘うと小夜子の機嫌は少し直った。まだ疑ってはいるだろうが、彼女の頭の中でのウェイトは小さくなったはずだ。このまま忘れてくれたら嬉しいが。
 「わかった。それでいいよ」磯貝は渋々、相手の意見を受け入れたように装う。彼女の機嫌を少しでも良くするための演出だ。
 「決まりね」小夜子が念を押す。
「ああ」
「よかった」
「この前の『ハイスクール・ミュージカル』みたいに面白いといいけどな」
「あれは凄く良かったあ。ビデオになったら、また見たい」
 スイミングクラブの飲み会の話で失った得点を、なんとか半分ぐらいを取り戻せた感じだ。上手くやった。一安心だ。
 小夜子は失いたくない。本当にいい女だ。ここでもう一押し。
 「今夜、一緒に食事しないか?」
「え、本当?」
「ああ。国道沿いに新しくイタリアンレストランができただろう。行ってみようぜ」
「え、あのオシャレなところ?」
「うん」すぐに反応して喜ぶところが可愛いと思った。
「行きたい」
「じゃ、店が終わる時間に迎えに――」
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。ポケットに入れた携帯電話の呼び出し音が鳴った。
 ヤバいっ。きっと、あの女だ。
 磯貝は直感した。間違いない。これで三度目だろうか。のらりくらりと、その度に磯貝は曖昧な返事を繰り返す。あの女と再び関係を持つことは良くないと思った。できれば自然消滅みたいな感じで別れたい。マナー・モードにしておくべきだったと後悔したが、もう遅い。
 「いいよ。出れば」と小夜子が手を止めて言う。
「……」迷った。……いや、出るべきじゃない。あの女じゃないかもしれない、でもリスクは高い。
「どうしたの?」
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。
「いや、……何でもないんだ」電話に出れば、オレの口調から相手が女だと小夜子に知られてしまう。
「え、どうして?」
「大した用事じゃないから」こんな説明が通ると思わないが、他に何て言えばいいのか分からない。
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。
「何で分かるの? 出てもいなくて」言葉には不信感が滲み出ている。
「……」
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。
「……」鏡を通して磯貝の表情を窺う小夜子。
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。
 「……」執拗に鳴り続ける呼び出し音。小夜子の視線が痛い。耐えられず、とうとう磯貝は視線を逸らしてしまう。
 ズズズーッ、ズズズーッ、ズズズーッ。
 「洋平。あんた、……何か隠してる」
 小夜子の口から出てきたのは死刑宣告にも近い言葉だった。

   23
 
 斎藤勇作は考えた
 村上冴子に会って話をするには、城山トンネルまで行くしかないらしい。どこに自宅があるのかは知らないが、近辺の家を何軒か回って尋ねれば分かるだろう。
 こうなったら金を払って解決するしか方法はなさそうだ。それでオレのことを許してくれたら嬉しい。
 翌日の午後、勇作はBMWを南房総へと走らせた。何か問題が起きたら早く始末したい。先延ばしするのは嫌いだ。
 近づくにつれて、改めて遠いと思う。こんなところから木更津のスイミングクラブへ通うのには無理がある。やはり会員じゃないのか。だったらどうして飲み会のことを知っていたんだ? 理解できない。
 城山トンネル周辺は道路幅が狭くてBMWを駐車させるには、半分ぐらい歩道に乗り上げなければならなかった。すぐそばに民家が一軒あった。そこが村上冴子の家である可能性が高い。緊張する。一度、深呼吸をしてから足を向けた。
 表札を見ると、期待に反して『高橋』と書かれていた。残念。しかし彼女と顔を合わすのが先延ばしになって安心する気持ちもあった。
 庭で白髪頭の老人が植木の手入れをしていた。勇作は近づいて声を掛けた。「すいません」
 「はい」
「この辺に村上っていう家はありませんか?」
「え、村上だって?」
「はい」
「知らないなあ」答えるのが早い。
「……そうですか」そんな事はないだろう。この近くで村上冴子を確かに車から降ろしているんだから。それとも、この爺さんの記憶が曖昧なのか。
「この辺は多くが高橋なんだ。他には柴田と鈴木くらいじゃないかな、オレが知ってい限り」
「じゃ、村上冴子という若い女性は知りませんか?」
「いいや。長く竹岡に住んでいるが、そういう名前は聞いたことがないな。まず若い女性が少ないよ。みんな年頃になると都会へ出て行っちまう」
「そうですか、……わかりました」彼女の家は探せそうにない。すべての手掛かりを失う。諦めるしかなさそうだ。
「すまないな。役に立てなくて」
「いいえ、とんでもありません。失礼しました」もう立ち去るしかない。勇作は頭を下げて庭から出て行く。
「えっ」見送ろうとしてくれた老人が道路へ出たところで、驚きの声を上げた。
「……」一体、どうしたんだろう。BMWのキイをポケットから取り出したまま勇作は立ち止まった。 
「これ、あんたの車かい?」
「そうですけど……」
「こりゃ、驚いたな」
「え、……どうしてですか?」
「もう何年も前になるけど、ここで正面衝突があった。悲惨な事故で忘れもしない。マツダのスポーツカーとBMWで、それがこれと瓜二つさ」
「……」瓜二つと言う言葉は妻である明美の口からも聞いていた。
「珍しい色なんでハッキリと覚えている。それだけじゃない、不思議なことあってな」
「え、……なんです?」
「BMWには男と女の二人が乗っていたらしい。すぐに男の方は病院へ運ばれたが数日後に亡くなった」
「で、女の人は?」勇作は話の先を促す。
「それが行方不明のままなんだ」
「えっ」
「大怪我しているのは間違いないのに見つからなかった」
「……」
「もしかしたら走って来た車に乗せてもらって、姿を消したんだろうか」
「歳は幾つぐらいの女性ですか?」
「知らない。でも年頃の女だろうな。二人は夫婦じゃなかったらしいから」
「そうですか」
「理解できない話だろ」
「まったく」
「とにかく運転には気をつけた方がいい」
「そうします」
 縁起でもない話を聞かされてしまった。帰り道でBMWのハンドルを握る勇作の気持ちは沈んだ。無駄足だった。
 心には引っ掛かるモノがあった。でも無視した。有り得ない。ただの偶然だろう。

24

メールをチェックすると、シンガポールから新たな注文が入っていた。四季がなくて常夏なので定期的に中古のオートバイを買ってくれた。オランダとは事情が違って仕事がやり易い。現地では雨季に少し売り上げが落ちるぐらいらしいが。
 斎藤勇作は注文してきたモデルの相場を調べて、幾らで買い集めれば利益が出るか計算する。円安の時は商売が楽だが、その逆は厳しい。電卓が表す数字をノートに記録していると、部屋のドアをノックする音がした。 
 妻の明美だ。娘の梨香はノックなんかしない。
 「いいよ」勇作は応えた。その瞬間だ、ヤバいっと思った。
「ちょっと聞いてほしいの」明美が部屋に入って来た。イエローのポロシャツにスリムのジーンズ姿だ。とても出産を経験しているような体形じゃない。なんて若々しい。
「ごめん。まだ梨香に訊いていなかった」
「……」明美の表情が固くなる。
「今すぐに訊きにいくから」
「そうして」
 すっかり忘れてしまう。妻が怒り出すのを恐れたが、それほど機嫌は悪くならない様子だ。安心した。このところ忙しくて疲れていた。「すまない」
「オランダへの輸出の件は、どうなったの?」明美が仕事のことを心配して訊いてきた。
「船会社を変えたりして大変だったけど、なんとかなりそうだ」
「それは良かった」
「なあ?」
「なに?」
「今夜はいいかい?」彼女の引き締まったウエストがヒップを豊かに見せていた。妻の身体に触れたい欲求が湧き上がる。これで完全に和解といきたい。
「……」明美が考え込む。
「気分が乗らないなら、またにしよう」相手の気持ちを尊重する。
「いいわ」
「ありがとう。ところで話って何だい?」
「そうだ。今日なんだけど幼稚園へ梨香を迎えに行ったのよ」
「うん」それは知ってる。
「そしたら古賀先生なんだけど、話している途中で後ろに停車してある、あたしの軽自動車に向かって会釈したの」
「……」勇作の背筋が凍りつく。
「振り返ったけど誰もいなかった」
「そ、そうか」
「すごく気持ち悪いの」
「だろうな」声は小さい。妻の顔を見ていられなかった。
「どう思う?」
「オレには何とも言えない、その場にいたわけじゃないから。もしかして誰かが通り過ぎたんじゃないのか」妻の口から、そうかもしれない、という言葉が聞けるのを期待した。
「違う。そんな事は絶対にない」
「そうか」
「こんなこと、勇作にはなかった?」
「いや、……ないよ」こう答えるしか選択肢はないだろう。
「そう」
「今から梨香のところへ行って訊いてこよう」これで話題を切り上げたい。
「わかった。そうして」
「うん」
 すごく気持ち悪いと明美は言ったが、オレはそれ以上だ。一体、どうなっているんだ。

   25

子供部屋に入って行くと、娘はレゴで遊んでいた。何かを組み立てる楽しみを知って欲しいと考えて、勇作が買ってやったのだ。夢中になっていた。パパが来たというのに振り向きもしない。
 「梨香ちゃん」声を掛けた。
「……」無言。
「おい、梨香」
「なに?」
「返事ぐらいしてくれよ」
「したよ」
「二度目にじゃないか」
「……」レゴを扱う手の動きは止めない。
「梨香ちゃんに、訊きたいことがあって来たんだ」
「うん」 
「この前なんだけどママが部屋に入ってきた時に、誰かと話をしていなかった? 独り言みたいに」
「……」
「覚えていないのかい?」
「……」
「ママが心配しているんだ」
「……」
「もし思い出し――」
「オバちゃん」
「えっ?」
「……」
「オ、オバちゃん、て……誰だい? 四月に亡くなった――」
「違うオバちゃん」
「え、じゃ誰の事だい? パパの知っている人かい?」
「……だと、思う」小さな頭を振って頷く。
「どのオバちゃんか教えてくれ」
 娘が想像までして話をするような親しいオバちゃんなんて、勇作は思いつかない。
「綺麗なオバちゃん」
「綺麗な……」余計に分からなくなった。
「ネズミをくれたオバちゃん」
「ネズミだって?」そんなモノを貰っちゃ困るな。いくら娘がペットを欲しがっていても。
「うん」
「どこにいるんだ、そのネズミは?」まさか部屋で飼っているんじゃないだろうな。
「これ」そう言うと娘はポケットから何かを取り出した。
「げえっ」勇作は飛び上がりそうになるほど驚く。
 紫色のネズミのマスコットだった。村上冴子がキャメルのポシェットに付けていたモノだ。間違いない。
 あの女は娘の梨香に接触していた。オレに対する嫌がらせだ。いや、それ以上だろう。これは脅迫と言えた。なんて恐ろしい女だろう。「どこで貰ったんだっ、これを」口調は強くなる。
「……」娘のレゴをいじる手が止まった。
「梨香。言いなさいっ」 
「……」じっと動かない娘。
「どこで貰ったっ?」
「えーん」娘が泣き出す。
「あっ、……ご、ごめん」
 娘の身が心配なあまり思わず怒鳴っていた勇作だ。どこで女が梨香と接触したのか知りたかった。オレに娘がいることまで突き止めたんだ。浮気が原因で家族に危険が及ぼうとしていた。
 「許してくれ。パパが悪かった」
「どうしたの?」妻の明美が部屋に入ってきた。
「あ、……あのな」説明できない。
「何で怒鳴ったりするの?」
 明美は梨香に駆け寄って抱き締める。ママが来てくれたことで娘の悲しみが爆発。声を張り上げて泣き始めた。
「すまない」
「梨香を怒鳴って泣かせてくれとは頼んでいない」
「……」その通りだった。
 娘の身体をさすって宥めながら、明美は勇作に咎める視線を送ってきた。居たたまれない。立場がなかった。無言で部屋から出ていく。これで明美との今夜はなくなったな、と悟った勇作だ。

   26

「波多野と申します。お話を伺いましょう」
「よろしくお願いします」斎藤勇作は君津警察署の刑事に頭を下げた。
 家に居ずらくなってBMWで外に出た勇作だ。しばらく周辺を走らせた。もう官能的なエンジンを味わうどころじゃない。どんな行動を女が次に起こすのか心配だった。妻や娘に危害を加えたりしないだろうか。
 意を決して警察に相談することにした。何かが起きてからでは遅い。
 君津警察署の受付けで事情を話すと、二階の生活安全課へ行ってくれと言われた。そこで入口の近くにいた人物に、同じことを繰り返して説明した。その男が窓際の机に座っていた波多野という刑事を呼んでくれたのだ。
 歳は勇作と変わらないだろう。身長も同じぐらい。お腹は出ていなくて、引き締まった体をしていた。刑事というより運動選手みたいな感じだ。勇作は彼の机まで導かれて用意された椅子に座った。
 「実は……」事情を詳しく説明した。その女が娘に接触したらしいことは何度も繰り返す。
「……」話し終わっても、しばらくは波多野刑事は黙ったままだった。何か考え事でもしているような感じで。
「ちょっと確認したいのですが……」
「はい」
「その飲み会が行われた日時は、O月X日のY時で間違いはありませんか?」
「その通りです」
「……」また黙り込む波多野刑事だ。
「家族に危害が及ぶんじゃないかと心配なんです」勇作は訴えた。
「お話を聞いた限りでは、まだ具体的な被害というのはないみたいですね」波多野刑事の口からは、それほど危険は迫っていないような言葉が出てきた。
「でも娘と接触しています」
「確かではないでしょう」
「でも女が持っていたネズミのマスコットを、ポケットに入れていました」
「それが女性が所持していたモノと同一だと証明できますか?」
「い、いいえ。しかし珍しいマスコットなので、女が娘と接触したのは確かです」
「それは推測にすぎません」
「そうかもしれないです。だけど無視は――」 
 机の上に置かれた電話が鳴った。
 「すいません」と言って受話器に手を伸ばす波多野刑事。勇作は頷く。
 「生活安全課、波多野」
「……」波多野刑事が電話で相手の言葉を聞いている。
「はい」
「……」
「もう出来上がっていますよ。いつでも取りに来られて結構です。
はい。お待ちしています」
「失礼しました」受話器を置くと、波多野刑事は勇作に向かって言った。
「刑事さん。言われた通りで具体的な被害は、今のところはありません。しかし女が娘と接触した可能性が――」
 また机の上に置かれた電話が鳴って、勇作は口を閉じた。
「すいません」
「どうぞ」
「生活安全課、波多野」
「……」
「うん。それは待ってくれ。まだ被害者から盗難届が出ていないんだ」
「……」
「もちろん知ってる。お互い様だよ、困っているのは。それなら連絡を取ってみよう。後で電話するから。今は手が離せないんだ。うん。じゃあ」
「すいません、何度も」波多野刑事は通話を終えて勇作に謝った。
「いいえ」
「話を続けましょう。斎藤さんが心配されるのは理解できます。しかし我々としては具体的な何かが――」
「待ってください。何かが起きてからでは遅いと思って、こうして警察まで来たんです」
「わかります。もう一度だけ確認させて下さい。飲み会はO月X日のY時に行われたんですか?」
「そうです」どうして日時を何度も訊くのか分からない。それが、そんなに重要なことか?
「わかりました。しかし不思議なのは、スイミングクラブの会員じゃないのに、どうして女性は飲み会の件を知ったのでしょう?」
「え、……」勇作は波多野刑事の言葉に違和感を覚えた。これまでに交わした会話を、二度ほど電話で中断されたが、順を追って頭の中で繰り返す。
「どうされました? 何か思い出され――」
「刑事さん」勇作の口調は変わった。
「はい?」
「どうして女性がスイミングクラブの会員じゃなかったことを、知っているんですか? その事実を、まだ私は話していないと思います」
「……」波多野刑事が黙った。表情が固まっている。
「教えて下さい。なんで知っているんですか?」
「……」
「刑事さん」
「す、すいません。電話で何度も話を中断されて、頭が混乱してしまったみたいです」勇作の目を見ずに話す。
「それは説明になっていない。頭が混乱したからって、女性が会員ではなかったという事実が思い浮かんだりしませんよ」
「申し訳ない」
「刑事さん、本当のことを教えて下さい」
「すいません。それが事実なんです」
「冗談じゃない。バカにしないで下さいよ」
「……」
「刑事さん」
「すいません」と言って頭を下げた。もう訊かないでくれと、態度で表現していた。
「……」勇作は呆れて何も言えない。
 信じられない。警察官が嘘をつく。これ以上、この人と話をしても何も解決しないと思った。勇作は何も言わずに立ち上がると、生活安全課の部屋を後にした。

   27

 大失態をやらかしてしまった。
 君津署の生活安全課に勤務する波多野刑事は、自分が犯した失敗に沈み込んだ。何年も警察官をやっていて初めてのことだった。情けない。こんなんじゃ刑事は失格だ。
 女性がスイミングクラブの会員ではなかったという事実を、口を滑らせて斎藤勇作という人物に話してしまう。相手が不信に思うのも無理はなかった。言ってもいない事実をオレが先に口にしたのだから。表情では見せまいと努力したが、気持ちは混乱していた。その結果が、これだ。
 相談に来た男が事情を話し出すと、波多野はからかわれているのかと思った。まったく同じ話を昨日の午後に聞かされていたのだ。確か磯貝洋平とかいう若い男だ。
 二人の話を合わせると、一人の綺麗な女性が同時刻に別々の場所で彼らと肉体関係を持ったことになる。有り得ない。しかし彼らは真実を話していた。ウソはついていない。経験から、それは分かった。
 たぶん二人は知り合いだろう。ところがだ、この件に関して彼らは話し合っていない。それほど親しくないのかもしれない。
 不気味だ。
 波多野は数年前に君津南中学校で起きた、不可解な事件を思い出す。あんな経験は二度としたくない。磯貝と斎藤の二人が再び生活安全課へ足を運ばないことを願う。
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