中古車

   28  

 どうなっているんだ。
 斎藤勇作は途方に暮れるしかない。何から何まで、まったく理解できない事が自分の回りで起きていた。ひとつ一つを解決しようとしても新たな問題が生じた。警察だって当てにならない。もう疲れた。元の平和な生活に戻りたかった。浮気する前にだ。紫のBMWに対する愛着も薄れた。これを購入してから不可解なことが起こり始めたとも言えるからだ。明美が嫌っているなら、早く手放すべきかもしれない。

  29
  
すぐにでも明美と仲直りしたい。自分一人で問題を抱えるのは、もう無理だ。勇作は寂しかった。浮気の事実は、時を見て話すしかない。 
BMWを処分する決心がつく。でも白い封書のことが頭に残っていた。本人に知らせてやるべきだろう。できるなら取りに来てもらいたい。 
 「もしもし」斎藤勇作は強制保険証書を見ながら電話を掛けた。
「はい」応答したのは年配の声だ。
「平野さんの御宅でしょうか?」
「ええ、そうですが」
「私、斎藤と申します。平野伸太郎さんは、いらっしゃいますか?」
「……」無言。
「もしもし?」何だ、聞こえなかったのか。
「はい」
「あの――」勇作は繰り返そうとした。
「あんた、誰だい?」こっちの素性を疑っているような口調だ。
「え、……斎藤と申します。実は平野伸太郎さんが以前に所有していた、BMWを購入した者なんです」
「何だって?」
「あの、ですから……」仕方なく繰り返したが、この人じゃ埒が明かないと感じた。
「まさか、……嘘だろ」
「……」そんな言い方があるか。こっちは事実を話しているのに。
「その車は廃車になっているハズだぞ」
「えっ、それは何かの間違いでしょう」何を言い出すんだ、この人は。
「いいや。伸太郎が乗っていた紫のBMWだろ?」
「そ、……そうですが」
「6年前の事故で大破しているんだ」
「待ってください。平野伸太郎さんと話をさせてくれませんか」
「……」
「お願いします」
「死んだよ、その事故で」
「ええっ」

   30

 部屋の窓からは真っ青な空が見えた。ゆっくりと白い雲が動いていく。鳥の群れが横切った。木の葉は日光を反射して眩しいほど輝く。快晴の穏やかな一日っていう感じだ。
 視線を机に落とせば、コーヒーの湯気が立ち昇っていた。ゴールド・ブレンドの芳ばしい香りが漂う。
 斎藤勇作は携帯電話を耳の傍で握ったままで動けない。閉じてもいない。相手の最後の言葉が、ズシリと重く頭に残った。
 以前に所有していた男は、6年前に起きた事故で亡くなったらしい。それも、紫のBMWに乗っていてだ。
 勇作は何も考えたくなかった。これまでに知った事実と今、電話で聞かされた話を整理する気にはなれない。それらが組み合わさって、一つのストーリーが出来上がりそうな気はした。
 妻の明美に向かって、『お前に二股を掛けてた奴の名前を教えてくれ』なんて訊く勇気もない。怖くて知りたくもなかった。
 オレが購入したBMWは事故車だと、電話の相手は言う。
 よし。
 それなら板垣モータースへ行って問い質さなきゃならない。何も言わずに事故車を売りつけるなんて以ての外だろう。127号線にあるパイナップルで、BMWは買い取ってもらうつもりでいた。しかし事情が変わった。もし本当に事故車なら板垣モータースに引き取らせよう。金は、そのまま120万円を返してもらう。そしたら100万円を銀行から下して、キャッシュで国産の適当な車が新車で購入できる。オレの懐は、ちっとも痛まずに済む。
 勇作は携帯電話を閉じた。紫のBMWのキイを手にして、椅子から立ち上がる。急ごう。一刻も早くケリをつけたい。

  31

 ……え?
 一瞬、道を間違えたかと思った。しかし見渡せば周りの風景は変わっていない。前と同じだ。ただ、板垣モータースの店舗だけが消えていた。きれいに更地だ。事務所も看板も一台の中古車もなかった。
 どういうことなんだ?
 こんな事って有り得るのか。途方に暮れる斎藤勇作だ。とりあえずBMWから降りた。更地の前に立つ。自分の目が信じられない。瞬きもしてみたが意味はなかった。
 あまりのことに、どう対処していいのか分からない。自分の無力を感じるだけだ。どのくらい佇んでいただろう。後ろから高齢の女性に声を掛けられた。
 「お兄さん」
「あ、……はい」振り向くと背の低い御婆さんが立っていた。色も柄も地味な服装だ。道路のコンクリートよりも目立ちたくないと気を使っている。歳を取ると、こういうファッションセンスになるらしい。
「あんた、板垣モータースに用事があって来たのかい?」
「そうです」よかった。この人から何か訊けそうだ。
「そりゃ残念だった」
「どうしちゃったんですか?」
「火事だよ」
「えっ」
「まだ何日も経っていない」
「本当ですか?」
「すごい燃え方だった。あんなの見たことがないよ。あんた、住まいは君津かい?」 
「ここから車で15分ぐらいの所に住んでいます」
「じゃ、知らなくても当然かな。とにかく大騒ぎだった。夜中に何台も消防車やパトカーが来たんだから。うるさくて寝てられたもんじゃなかった」
「で、どこかに板垣モータースは移転したんですか?」
「いいや」
「え、どういうこと?」
「もう何も残ってないよ。専務だった倅は自殺したから」
「えっ」嘘だろ。
「倅の奴が商品の中古車にガソリンを撒いて火をつけたのさ。その後に本人は事務所で首を吊ったらしい」
「どうして?」
「原因は奴の女房さ」
「何があったんですか?」
「あの女は綺麗だったけど、あたしは思っていたよ、したたかさは相当なもんだと」
「……」バイトをしてた磯貝洋平とキスまでいった人妻なんだ、並みの女じゃないことは聞いている。
「従業員だった男と仲良くなって姿を消したみたいだ。驚いたことに、会社の登記から銀行預金までが女の名義だったらしいじゃないか。亭主には内緒で、木更津にあるセントラル板金に会社を丸ごと売却してたんだって」
「すごいな」
「とんでもない女さ。何億かの大金を握って男と逃げたんだから。倅が首を括りたくなるのも無理はないよ。無一文にされたのと同じなんだ」
「……」
「あの女は美人だったけど相手を選ばない。誘われたら誰とでも寝るような感じがしてたさ。あたしが見るからに……」
 その後は御婆さんの、男と駆け落ちした人妻をこき下ろす言葉が続く。いつか天罰が下るとか、金がなくなれば男に見捨てられるとか、同じ文句が何度も繰り返された。そのうち自分の息子の嫁の悪口も混ざり出す。
 近頃の女は金銭感覚がなっちゃいない、買い物に行けば余計なモノまで買ってくるんだから。それに料理の腕が下手クソで、とても食べられたもんじゃないよ。あたしから学ぼうとしないからダメなんだ。
 もう付き合っていられない。これから仕事があるので、と言って勇作は立ち去った。その足で127号線にある中古車買い取り店のパイナップルへ向かう。

   32

 BMWをパイナップルの駐車場に停めると、車検証を持って事務所に入って行った。
 えっ。
 「奈々ちゃん」受付けにはイエローキャップで働いていた手塚奈々が立っていた。驚かされるのは今日、これで何度目だろう。
「あっ、斎藤さん。い、いらっしゃいませ」
「どうした?」
「あたし、転職しました」
「へえ、そうなの」また自動車関係の仕事を選んだのか。
「はい」
「泳ぎには行っている?」
「いいえ。もう、やめました」
「そりゃ、寂しいな」
「すいません」
「ま、いいさ。ところで、あのBMWを査定してくれるかな」
「はい、わかりました。いま担当者を呼びますから。では、こちらの書類に記入をお願いします」
「うん」
「斎藤さん、ゴルフに乗っていなかったですか?」
「あれは磯貝に安く売った。それで紫のBMWを中古で買ったんだけど、女房の奴が気に入らないって言うんだ」
「え? どうして。新車みたいに程度は良さそうに見えますけど」
「色がケバケバしくて嫌だってさ」
「へえ、勿体ない」
「奈々ちゃんの言う通りさ」 
 間もなく店長をしている小太りの男が来た。勇作に会釈してから外に出てBMWの査定を始めた。数分で戻ってくると、今の状態で80万円で買い取ると言う。40万円の損失だ。仕方がないと諦めるしかない。二、三日中に返事をすると言って店を出た。次に向かったのはスバルの営業所だ。
 国産で欲しい車と言えるのは、やっぱりレガシイB4しかない。スタイルと水平対向4気筒のエンジンが魅力だ。グレードは最も安いiタイプを選ぶ。レギュラー・ガソリン仕様で5段ミッションだった。色はアトランティック・ブルー・パールに決めた。丁度いま在庫があって数日で納車できるらしい。支払い総額は225万円になった。ローンは組まず、現金を用意すると伝えた。
 一応、念のために乗ってきたBMWの下取り査定をしてもらう。スバルの提示額は70万円だった。決まりだ。パイナップルに買い取らせよう。その場でレガシイB4の注文書にサインした。
 トルマリン・バイオレットのBMWを手にしてから、次々と不気味なことが起きた。頭の片隅では、あの女と紫のBMWが関係していそうな気がしていた。怖い。努めて考えないようにしていたが。 でも、これで手が切れる。新しいレガシイB4で平和な毎日を送りたい。肩の荷が下りたような気分だ。

   33  
 
 「すまなかった」斎藤勇作は家に戻るなり、妻の明美を見つけて謝った。
「……」黙って亭主を見つめるだけで返事がない。
「もう二度としない」勇作は深々と頭を下げた。
「どうして、梨香を怒鳴ったりしたの? 勇作らしくない」
「その通りだ。このところ仕事がトラブったりして、気持ちに余裕がなかった。訊いても、すぐに梨香が答えないので腹が立ってしまった」
「もう二度としないって約束して」
「わかった、約束するよ。今回だけは許してくれ」
「梨香にも謝ってよ」
「もちろん」妻が機嫌を直しつつあるので一安心。勇作は続けた。「しばらく梨香の送り迎えはオレにやらせてくれ」
「そう。いいわ」
 家事を手伝って、家族の役に立とうとしている訳じゃない。あの女から家族を守りたいから、少しでも娘から目を離したくない。
 「それと……」
「なに?」
「あのBMWは売ることにしたよ」
「本当?」
「うん」
「ずいぶん気に入っていたじゃない?」
「いや、もういいんだ。十分に楽しんだから。今度はスバルのレガシイB4にするつもりだ。中古じゃなくて新車を買う」
「それは良かった」妻が笑顔を見せてくれたのは、久しぶりじゃないだろうか。
「ありがとう」思わず感謝の言葉が口から出た。
 自分の部屋に戻ると、船会社のハパックロイドの担当者に電話をしてみた。無事にルドウィック・シャーヘンが、本牧埠頭を出港したか知りたかったからだ。予定通りだという答えが返ってきて、安心した。これでオランダへの出荷が終わった。あとは船会社が発行する船荷証券を相手側に郵送してやればいいだけだ。友達同士なので銀行決済を必要としない。これは楽だった。

   34
 
 数日後、斎藤勇作は紫のBMWを、中古車買い取り店のパイナップルに売却した。未練はない。せいせいした思いだ。
 まったくとんでもない車を掴まされたもんだ。あいつを手にしてから散々な目に遭った。手放して正解。これで縁が切れた。
 スバル販売店は徒歩で20分ぐらいの場所にあった。晴れていて散歩するには丁度いい。歩きながら考えた。
 これからは普通の生活を取り戻して平和にやって行きたい。明美との仲を完全に修復して家族サービスに努めよう。
 微風が気持ちよくて、気分も自然と良くなっていく。スバル販売店でアトランテック・ブルー・パールのレガシィB4を目にした時は、これまでの嫌な事をすっかり忘れられた。
 キイを受け取ってエンジンを掛けた。販売員に見送られて走り出す。まだ幼稚園へ梨香を迎えに行くまでは時間があったので、しばらく周辺をドライブすることにした。
 自動車評論家として尊敬する徳大寺有恒氏が、独特のフィールがあると言った水平対向4気筒 ボクサーエンジンをじっくり味わいたかった。
国道127号に出て館山方向へ数キロほど走る。
 え、これがそうなの? 
 勇作としては、それほど独特のフィールという感じは覚えなかった。調子抜けだ。オレの経験が少ないからかな? 
 うーむ、あのBMWのエンジンの方がよっぽど――、いや、それを考えるのはよそう。まあ、でもいいや。そのうち分かるだろう。とにかくレガシィB4はボディ・カラーとスタイルが気に入っているんだ。
 それでも独特のフィールを感じたくて、少し遠くまで走ってしまう。スピードを出したので距離が延びた。走りは2千ccだけに、文句はなかった。いい車だ。これを選んで良かった。
 あっ、ヤバい。
 気がつくと、急いで戻らなければ幼稚園に梨香を引き取る時間に遅れてしまいそうになっていた。斎藤勇作はレガシィをUターンさせて、アクセルを踏んだ。即座に反応してパワーが出る。軽快そのもの。この車を妻の明美と梨香が気に入ってくれると嬉しい。
 
   35
 
 手塚奈々はイエローキャップから、中古車買い取り店のパイナップルに転職して新しい人生を歩んでいた。
 これまでは周りから、誰にでもヤらせる女と思われ続けてきた。新しい職場では、その尻軽女のイメージを完全に払拭した。
 イエローキャップからたんまり退職金をもらったので、その金で二十歳ぐらいの真面目な女性が着る地味な服を買い揃えた。最初は違和感を覚えたが、なんとか今は慣れた。自分らしくないが我慢するしかない。
 職場の仲間たちがするエッチな話には絶対に加わらなかった。以前はケラケラ笑って応えていたが、すっかり止めた。初心で無口な女を装う。喋ればボロが出るからだ。可愛いけど簡単にはヤらせない女いうイメージを作り上げた。やはり「君津南中学では生徒会長をしていました」の一言が抜群の効果をもたらす。
 男たちからの誘いは相変わらずだ。地味な服を着ていても連中は奈々のスタイルの良さを見抜く。多くがセクシーな身体を目当てに集まってきた。もちろんデートには応じない。ちゃんとした付き合いをしてくれる真面目な男性が現れてくれるのを待った。
 ここの店長も頻りに奈々を食事に誘ってきた。タイプじゃない。どころか嫌いなタイプと言っていいくらいだ。
 本人は3年ほど付き合った彼女と別れたばかりなんだと言っていたが、奈々は信じていない。こんなダサい男とデートする女がいるとは思えなかった。
 「あたし、ボーイフレンドがいるんです」そう嘘を言って申し出を断った。しかしそれで引き下がってくれない無神経な男だ。理性よりも性的な本能でしか行動できない人間。事ある度に食事や映画に誘ってきた。しつこい。つらいのは相手が職場の上司であるという事実だ。無下に断れず、のらりくらりと誤魔化すしかない。
 ふざけたり、また急いでいる振りをして、ときどき奈々の身体に触れた。いやらしい。腹が立った。タダで触って欲しくない。千円でも払ってくれるなら話は別だけど。
 「手塚さん、ちょっとタバコを買いに行ってくるから」
 そう言って平日の午後に、暇になった時間を見つけては近くのコンビニへと足を運ぶ。それは彼の習慣だ。コーヒーでも飲んでくるのだろう、しばらくは帰って来ない。奈々にとっては、性欲の塊みたいな獣への警戒レベルを解除できる瞬間だ。
 頻繁に話し掛けてくる店長がいない時に、事務処理を済ませることにしている。間違いは許されない。一人なら集中できた。
 これまでに買い取った自動車を仕入れ台帳に記載していく。メーカー、車種、グレード、年式、色、走行距離、車検の有無、コンディション等を詳しく記録するのだ。3台の処理が終わると、先ほど斎藤さんから買い取った紫のBMWの車検証とか保険証、譲渡証明書に印鑑証明を広げた。
 どうして、あんなに程度のいい車を奥さんは嫌うんだろう?
 奈々は腑に落ちなかった。あたしだったら絶対に売らない。あんなにオシャレなBMWは見たことがないもの。もし自分にお金があったら――あっ、そうだ。
 思い出した。紫のBMWは台帳に載せるなと店長に言われていたのだ。きっと知り合いに横流しをして小遣いを稼ぐか、それとも自分のモノにする気なんだろう。いい車が手に入るといつもそうだ。仲間に電話して誰か買わないか、と訊いて回った。相当な収入になるらしい。いつか本社にバラしてやりたい気持ちだった。
 あいつが紫のBMWに乗るのは気に入らない。似合う訳がない。あいつは国産で充分だ。
 えっ。
 ど、……どうして? 考えると、思わず外に停めてある紫のBMWの方へ目が向いた。その運転席に女の人が座っていたのだ。
 誰かしら?
 びっくりして、どう行動していいのか分からない。店の従業員の誰かが許可したんだろうか?
 なんか、すごくドキドキしてきた。その女の人が奈々をジッと見 つめているのだ。身体に突き刺さるような強烈な視線だった。
 え、安藤先生?
 君津南中学で美術を教えてくれた教師だ。似ている。でも有り得ない。彼女は精神に異常をきたして入院しているはずなのだ。それに運転席に座ってる女性は、もっとセクシーで魔女みたいな感じだった。
 う、……ああ。
 いやっ、どうして? 下腹部がムズムズしてきた。見つめられることで手塚奈々は急に性的な快感を覚え始めた。相手は女の人で異性じゃないのに、だ。
 わからない。どうしてなの?
 込み上げてくる快感を抑えようと股間に手を当てた。前屈みになる直前だ、女の人と目が合う。笑っていた。確信した。あの人が意図的に視線だけで自分を絶頂へと追い詰めようとしているのだ。そんなテクニックなんて、あうっ、初めて経験する。
 ううっ。
 もう立っていられない。その場に手塚奈々は腰を落とす。
 はあ、はあ。激しいセックスをしたみたいな快感が自分の身体を一気に包む。汗びっしょり。でも気持ち良かった。強い余韻が残っていて動けない。ここは店の受付けだ。お客さんが来るかもしれない。早く、早く立たないと。でもダメ。肩と腹で呼吸している状態だった。顔だって火照っているに違いない。もう少し待って息を整えないと。
 「おいっ、あのBMWはどうした?」
「え?」入口のドアが開くなり店長の声がした。奈々は慌てて立ち上がった。「すいません」
「あれ、どうした?」
「だ、……大丈夫です」
「こんなところで何をやったんだ? お前」
「……」説明できない。
「しゃがみ込んで何をしてた?」
「転びました」とっさに出たウソだ。
「ウソをつけ。何をしていた?」
「……」店長が卑猥な視線を送ってきた。
「何もしてません」視線をそらした。
「信じられない。お前、オナニーしてたな」
「え?」
「こんな場所で、よくそんな事が出来るな? お前は」
「……」何も言ってないのに。
「そんなに欲求不満だったのか? オレがタバコを買いに行くのが待ち遠しかっただろう」
「違います」ひどい。オナニーしてたって勝手に決めつけてる。
「心配するな。誰にも言わない」
「違います。そんな事してません」否定した。
「オレには分かるんだ。お前の身体から女の匂いがプンプンしてるから」
「……」それは否定できない。
「二人だけの秘密にしてやるから。な?」
「ち、違うんです」
「そんなに恥ずかしがらなくていい。お前は、女らしい身体をしている。急にしたくなったりしても無理はない」
「……」ああ、大変。せっかく作り上げたイメージが崩れていく。更には、こんな店長に弱みを握られた恰好だ。
「ところで紫のBMWはどうした?」店長が訊いた。
「は?」
「誰が移動させた? 停めた場所からなくなっているぞ」
「え。あっ、本当だ」目を外に向けるとBMWは姿を消していた。
「どこに持って行った?」
「知りません」
「ふざけんな。お前は受付けにいたじゃないか」
「はい。でも……」
「オナニーに夢中になっていたから分からない、って言うつもりじゃないだろうな?」
「そ、そんな……」どんどん状況が悪くなっていく。
「キイも壁に掛かっていないじゃないか」
「……」
「お前がオナニーする前に誰かに渡しだんだ。それしか考えられない」
「でも知りません。あたし、本当に知らないんです」そう言い続けるしかない。「でも安藤先生に似た女の人が……」
「安藤先生? 誰だ、それは」
「あっ、何でもありません。女の人です」
「誰なんだ、それは?」
「知りません。気がつくとBMWの運転席に座っていました」
「お前が、その人にキイを渡したのか?」
「いいえ。してません」
「じゃ、その女はどうやってBMWのドアを開けたんだ?」
「知りません」
「ふざけんなっ。お前はオナニーのし過ぎで頭がどうかしちゃったらしいな」
「……」
「そんな説明は誰も信じないぞ」
「……」自分もそう思う。だけど事実なんだから仕方ない。
「あの紫のBMWは売り渡す相手が決まったんだ。もう前金をオレは受け取っている」
「すいません」
「すいません、じゃない。ちゃんと説明しろっ」
「……」
「黙ってちゃ分からないっ」
「すいません」どんどん店長の剣幕が激しくなっていく。反対に手塚奈々の声は小さくなっていく。
「横流しでもする気か? お前が」
「しません」
「じゃ、BMWはどこにある? 今日中に渡さないとオレは困ったことになるんだ」
「……」
「おいっ」
「う、痛い」肩のところを店長に殴られた。
「正直に言わないと、もっと痛い目に遭うぞ。それでもいいのか」
「ま、待って」
「よし早く言え」
「許して……。もう怒鳴らないで」
「じゃ、早く説明しろっ」
「わからない」
「馬鹿野郎、ふざけてんのか?」
「……ヤらせてあげる」
「え、何て言った?」
「もう怒鳴らないで、ヤらせてあげるから」
 手塚奈々の口から出てきたのは、この苦しい状況から抜け出せる唯一の解決策だった。
 
   36

 いつもより5分ほど遅れて、斎藤勇作は幼稚園に着く。門のところには古賀先生が立っていて、その回りを数人の子供たちが囲んでいた。全員、親の迎えを待つ園児たちだ。トイレにでも行っているのか、梨香の姿が見えなかった。
 新車のレガシィB4が幼稚園に近づくと、見慣れない車だからだろう、古賀先生は警戒するような視線を向けた。それが開けたウインドウを通して、運転しているのが梨香の父親であることを認めると途端に笑顔に変わる。勇作は会釈した。
 え、どうした?
 古賀先生の顔が困惑した表情に戻ったのだ。何か拙い事でもあったのか? 斎藤勇作は笑顔のままレガシイ B4から降りて、古賀先生に近づく。
 「あの……今、……さっき」古賀先生は戸惑っていた。
「はい?」どうした。梨香に何かあったのか。もしかして妻の明美が迎えに来たんだろうか。オレに連絡もしないで。
「親戚の方が……」
「え?」ウソだろ。親戚の誰かが梨香を迎えに来ることなんか有り得ない。
「最近、一緒に梨香ちゃんを迎えに来られていた女性の方です。その方が、いつもの紫のBMWを運転して来られて……」
「……」勇作の全身から力が抜けていく。紫のBMWと聞いて全身に恐怖を覚えた。
「斎藤さんが乗っていないので不思議に思ったのですが、梨香ちゃんが嬉しそうにBMWのドアを開けて中へ入って行くので……」
「……」息が苦しい。
「あの綺麗な女性の方です。長い髪をした」
「……」斎藤勇作は返事が出来なかった。あの女が梨香を連れ去ったらしい。
「だ、大丈夫ですか? 斎藤さん」
 立っていられない。その場に勇作は腰を落とした。心配した古賀先生が、頻りに容態を訊いてきたが受け応えられない。
 一刻も早く行動を起こさないといけない。それはハッキリしている。警察だ。君津署へ急がないと。
 「あの女は親戚なんかじゃないっ」古賀先生に向かって吐き捨てた。
 新車のレガシイ B4に乗り込もうとした時だ、勇作の視線が正面の家に向く。犬のリボンが遊んでもらおうと一生懸命にシッポを振っているのが目に入った。
 
   37

マクドナルドの駐車場が、磯貝洋平が待ち合わせに指定された場所だった。もうすぐ女が現れるはずだ。
 村上冴子。
 散々、嫌がらせをされて参った。付き合っている人はいないと、嘘をついて肉体関係を持った自分に非があるのは事実だったが。二度、三度とベッドを共にすると、女は磯貝洋平の私生活にズカズカと入り込んできた。仕事のこと、将来のことに話題を持っていく。すべてを知りたがる。うんざりだ。肉体関係を持つのはいいが結婚したいとは思わない。綺麗過ぎて手に余る。いつも妻の浮気を心配してなきゃならない羽目になりそうだ。それに虚栄心が強い。他人をライバルとしか見ていないのだ。長い時間を一緒に過ごすと疲れた。距離を置いて別れる口実を考え始めた。それに気づくと、女の仕返しは執拗だった。家族の前に現れて嘘を言われたり、会社へは電話してデマを流されたりした。女性関係でトラブルになっていると、周囲に知られて評判は地に落ちた。金を払って解決しようとしたが姿をくらまされてしまう。こっちから連絡は取れない。もう疲労困憊だ。結婚を前提に付き合っていた美容師の小夜子からは、「洋平には失望したわ」と吐き捨てられる始末だった。
 警察へ相談に行ったりもした。しかし取り合ってくれない。自分に落ち度があったし、それに嫌がらせについては具体的に立証するのが難しい。何か実質的な損害がないと警察は動けなかった。
 八方塞がりで窮地に陥っていた。すると突然、女から電話が掛かってきた。
 「そろそろ許してあげてもいいわ」
「悪かった」磯貝洋平は謝った。「出来る限り償いをしたい」金を払うこと仄めかした。
「いらない、何も」
「え」
「そんな事しなくても嫌がらせを止めてあげる」
「本当か?」女の言葉に磯貝は安堵した。
「だけど一つ手伝って欲しいことがあるの」
「いいよ、言ってくれ」金を払わないで済むなら何だってしてやろう、そんな気持ちだった。
「今度の金曜日に金谷のフェリー乗り場まで送ってくれる?」
「……」それだけか。なんか肩透かしを食らったみたいで、返事すらできない。まさか騙しているんじゃないだろうな。
「お願いできるかしら?」
「金谷のフェリー乗り場まで行くだけでいいのか?」確認したくて繰り返した。
「そうよ」
「わかった」磯貝は引き受けた。
 詳しい事は何も聞かない。すんなり言うことを聞いて、こっちの誠意を見せたい気持ちがあった。あの女が他県に行ってくれるなら安心だ。遠ければ遠いほど嬉しい。
 
 約束した日の午後三時半、127号線にあるマクドナルドの駐車場に、磯貝洋平はフォルクス・ワーゲンのゴルフで乗り付けると、運転席に座って女が現れるのを待った。
 茶色のチノ・パンツにウェスタン・シャツ姿で、ちょっと着飾った。洗車をしてワックスもかけた。嫌がらせをされて苦しんだが、本当に綺麗な女だった。それなりに身だしなみを整えるのが礼儀だと考えた。
 金谷のフェリー乗り場まで最後のドライブを楽しもうか、という気分だ。幸いにも天気はよかった。途中で食事してもいい。別れるにしてもロマンチックに行きたいもんだ。
 (オレはキミと付き合えるほどの男じゃなかった。言ってみれば役不足なんだな。それに早く気づくべきだった。すまない。キミは美人なんだから、きっと幸せになれるだろう)
 そのぐらいの言葉を掛けてやってもいいだろう。相手を持ち上げて気分良く別れたい。
 洋平には失望したわ、と吐き捨てた美容師の小夜子には電話する気だった。ヨリを戻したい。それなりのセリフは用意した。
 (他の女と付き合ってみて、キミの素晴らしさが本当に良く分かった。もう一度やり直せないだろうか)
 どうだ、なかなかいい文句じゃないか。これでダメだったら諦めるしかない。そうだ、電話する前に花束を贈ってやろう。女は花に弱い、と斉藤さんが言っていたのを思い出した。
 えっ。
 ところがだ、マクドナルドの駐車場に紫色のBMWが入ってくるのを目にして、磯貝洋平の楽観的な考えは一気に吹っ飛ぶ。女と最後のドライブを楽しむどころじゃなさそうだ。
 どうして? ここに何で斉藤さんが……えっ。
 BMWを運転していたのは村上冴子だった。一体、どういうことなんだ?
 驚いてゴルフから外へ出た磯貝洋平に、同じようにドアから出てきた村上冴子が言った。
 「手伝って」
「……」疑問を口にしようとしたが相手の言葉の方が早かった。
「えっ」女がBMWの後部ドアを開けると中に少女が寝ていた。
「あんたのゴルフに乗せてやって」
「ま、待ってくれ。これは斉藤さんとこの――」
「いいから、早くして。急いでいるんだから」
「……」やばい。誘拐じゃないか? 
「早くっ」
 磯貝洋平は女の形相と気迫に圧倒されてしまう。言うことを聞かないと逆上するかもしれない。説得できるチャンスを待とう。
 名前は梨香ちゃんだ。確かに斉藤さんの一人娘だった。ぐっすり寝ている。BMWからゴルフの後部座席に移動させた。磯貝が運転席に座ると、当然のように村上冴子は言った。「車を出して。早く」
「で、でもな――」躊躇う磯貝洋平だ。
「うるさい。早く、このゴルフを動かせって言ってんの」
「……」辛らつな言われ方にたじろいでしまう。
 磯貝は言うことを聞くしかなかった。斉藤勇作から購入したゴルフのアクセルを踏む。
「金谷のフェリー乗り場まで行けばいいんだな?」そこまでは一時間ぐらい掛かるはずだ。説得して誘拐を止めさせるチャンスがあるだろう。
「そうよ」何度も訊くな、というニュアンスが言葉に滲んでいた。
「……」
「急いで」
「わかった」磯貝は国道127号に出てハンドルを左に切った。
 高価なBMWを、マクドナルドの駐車場なんかに乗り捨てることになった。盗まれてしまうかもしれない。本当に行ってしまっていいのだろうか。そんな心配が頭に浮かんだが、女の機嫌が悪そうなので口にしなかった。気づくとシートベルトを忘れていた。やろうとすればスピードを落とさなければならない。女が文句を言いそうなので諦めた。この先どうなってしまうのか不安だ。
 村上冴子。
 なんて恐ろしい女だろう。何が目的なのか知らないが、可憐な少女を誘拐するなんて。金谷のフェリー乗り場に着くまでに説得できるのか自信がなくなってきた。
 スイミングクラブの飲み会で意気投合して、モーテルへ誘ったのが間違いだった。その美貌と色気に我を忘れてしまったのだ。その代償は大きい。いや、大き過ぎる。今のオレは犯罪に加担しているのと同じじゃないか。
 もし警察に捕まったら共犯者だ。それどころかオレは男だから主犯にされてしまう可能性が高い。人生は絶望だ。何とかしないと。
 女はずっと無言で、車の中は緊張感に満ちていた。額から汗が流れていたが、手で拭うのも躊躇う。ハンドルから手を離せば、女から文句が飛んできそうだからだ。
 磯貝洋平は運転しながら頭で考え続けた。このまま金谷のフェリー乗り場まで着いたら、村上冴子と少女を降ろす。すぐにオレは立ち去るが、国道に出たら停車して警察に連絡しよう。そこで待つ。
もしフェリーが出航した後だとしても問題はない。反対側の久里浜で神奈川県警が待機すればいいのだ。そうすれば、もはや村上冴子に逃げ場はない。斉藤さんの一人娘は助けてもらえる。これしかない。
 女の沈黙が怖かった。一言も喋らない。オレが何を考えているか探っているんだろうか。
 「急いで」
「うっ」ビックリした。いきなり声を掛けられて、どっと汗が全身に噴き出す。
「フェリーの時間に間に合いそうにないわ」
「わかった」磯貝はアクセルを踏み込む。スピードが上がった分、より神経を使う。事故は絶対に起こせない。斉藤さんの娘が後部座席に寝ているんだ。
 え、……そうだ。
 新たな考えが頭に浮かぶ。スピード違反で警察に捕まるのだ。パトカーに見つけてもらえたら全てが解決する。磯貝は積極的にアクセルを踏んだ。
 「急いで」 
 竹岡の辺りまで来ると、女は頻りに言い出す。これ以上は無理だ。危険を覚悟で何台もの車を追い越してきた磯貝だった。
 「わかった」でも逆らわない。言葉だけでも、指示に従っているという態度を見せないと。
 パトカーには出くわさない。じゃ意図的に追い越す途中で前の車に接触したらどうだろう。相手は怒って警察に通報するはずだ。ただオレに、それだけの運転テクニックがあるかだ。ましてや乗り出して僅か数日のゴルフだった。大事故にならないという保障は、どこにもない。
 「もっと急いで」女は言い続けた。
「うん」焦る。
 これ以上は危ない。お気に入りのウェスタン・シャツは汗でびっしょりだ。パトカーに見つけてもらうのを期待しながらハンドルを握ってる。頼む、頼むからスピード違反で検挙してくれ。
 あれっ、おかしい。
 不安が磯貝洋平を襲う。アクセルが戻らないのだ。女に急げ、急げと言われて踏み続けた。しかし道幅は狭くなって危ないと感じたので右足をペダルから離した。ところがだ、スピードが落ちてくれない。まさか、故障か? 慌ててブレーキ・ペダルに足を乗せた。
 ええっ。
 踏み込めなかった。動かない。力を入れてもビクともしない。ブレーキ・ペダルが固まっていた。ゴルフの制御が出来ない。磯貝洋平は助けを求めるように助手席の方に顔を向けた。女も同じように恐怖を感じて慌てているものと思った。
 まさか、嘘だろっ。
 村上冴子の顔に浮かんでいたのは冷ややかな笑みだった。状況が理解できない。目は女の表情に釘付けだ。すると煙が拡散するような感じで、その姿が消えていく。錯覚かと思って瞬きをしてみた。もう助手席には誰も座っていなかった。
村上冴子が消えた。
信じられない。じゃ、斉藤さんの娘は? いた。少女は後部座席で横になったままだ。死んだように眠っている。きっと斉藤さん達は必死になって捜しているに違いない。ヤバいっ。これじゃ、オレが誘拐犯になっちまう。
 ゴルフの今の速度を考慮すれば、磯貝洋平が行った一連の行動は完全に命取りだった。顔を前方に戻した時は、トンネルの入り口の赤黒いレンガの壁が迫っていた。ハンドルを切ろうにも、もう手遅れ。無意識に目を閉じた。
 激突のショック。
 同時に衝撃音が鼓膜に響く。磯貝洋平の身体は宙に浮いてフロントガラスに叩き付けられた。ゴルフⅡにはABSもエアバッグも装備されていない。助けてくれと叫びたいところだが、口の中は喉の奥から流れてくる血液で溢れそうになっていた。咳き込んだ。身体に激痛が走った。とても声は出せない。意識を失う直前だ、城山隧道と書かれた文字が目に映る。しかし〝隧〟を何て読むのは分からなかった。
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