中古車

   38

 君津警察署に斎藤勇作という男から、娘の捜索願いが出されたのが午後3時半を少し回った頃。うろたえる父親の話には不可解な点が多くあった。しかし5歳になる少女の身柄確保が最重要課題なのは間違いない。緊急の捜査体制が布かれた。
 マリア幼稚園とパイナップル中古車販売店には、それぞれ数人の捜査員が向かう。
 中古車販売店の店長は協力的だった。紫のBMWの盗難届けを出そうとしていたところだと言う。さらに付け加えて、盗まれた時に店の受付けにいたのは22歳の女性一人で、彼女はオナニーの真っ最中で犯行には全く気付かなかったと非難した。ただし本人は顔を真っ赤にして強く否定している。
 間もなくだ、マクドナルドの駐車場に盗まれたBMWが、乗り捨てられているのが見つかった。犯人は別の車に乗り換えたらしい。捜査本部は監視カメラの分析を急いだ。
 設置された後に強風や地震の影響で何かしらの不具合が起きたらしく、その映像は鮮明とは言えなかった。しかし紫のBMWが駐車場に入ってくる場面が映し出されると、捜査員たちは息を殺した。
 「見えたっ。これだ」全員の視線が集中する。
 BMWがフォルクスワーゲンの横に停車すると、中から綺麗な女が降りてきた。と同時に隣の車のドアが開いて男が外に現れた。女の到着を待っていたらしい。
 「あっ、知っている。先週、安全課に来た男だ」協力要請で捜査本部にいた波多野刑事が声を上げた。
「本当か?」と、捜査本部長。
「間違いありません、この男です。名前は、えーと……確か磯貝だったと思います」
「住所は分かるか?」
「はい。書類を取ってきます」波多野刑事が部屋から出ていく。
「頼む」
 会話に関係なく映像は進む。モニター画面では男と女が言葉を交わす。音声の出力はなかった。捜査員たちは臍を噛む思いだ。犯罪に係わる重要な話をしているに違いないのだ。二人は協力して、眠っている少女をBMWからフォルクスワーゲンへと移す。そこで突然、画面が乱れて真っ黒になった。
 「おい、どうした?」
「わかりません」
「肝心なところなんだぞ」
「すいません。監視カメラの不具合みたいです」
「どうにかならんか?」
「無理です。こちらでは何も――」
 モニター画面に映像が戻った。フォルクスワーゲンが駐車場から出ていくところだ。監視カメラの前を通り過ぎた。磯貝という男が運転しているのが見えた。隣の助手席には誰も乗っていない。
 どうやら、男が指示して女に少女を誘拐させたらしい。捜査員の誰もが、そう思った。

 その頃、富津市の竹岡にある城山トンネルの壁に、乗用車が突っ込む事故が発生する。富津警察署の交通課が現場に直行。怪我人は男性と少女の二人で、どちらも重傷で意識不明。到着した警察官たちの印象は、スピードの出し過ぎで運転操作を誤ったのが事故の原因で一致。君津市で起きた少女の行方不明との関連に気づく警察官は、まだ一人もいなかった。

                     
additional 1

 三十代の後半になろうとしている男は、パイナップルの中古車展示場で見つけた紫色のBMWの運転席に腰を下ろした。ハンドルを握ってみる。と、そのとき微かに甘酸っぱい女性の香りが鼻を突く。
 誰か女の人がオレが乗り込む直前に、このBMWの運転席に座ったんだろう。そう思った。
 いい車だ。新車みたいにしっかりしている。キャメルのレザーシートが高級感を醸し出す。こりゃ、早く手を打たないと他の客に買われてしまうぞ。
 「どうですか?」外に立つセールスの男が訊いた。
「いいね。悪くない」
「そうでしょう。買い取ったばかりなんですよ。程度は保証しますよ」
「この118万円は、もちろん諸経費込みの値段なんでしょう?」
「そうです。ほとんど利益は出ないけど、その値段で今回だけはやらせて頂きます。うちにも事情があって、それなりの売り上げを中間決算の前に出さないと本部から叱責を受けるんですよ。お買い得だと思います」
「わかった。もらうよ」
「ありがとうございます」
「乗ってきた白いビートルなんだけど、下取りして貰えるよね?」
「もちろんです。あれなら、いい値が付くと思います」
「だったら嬉しい」
「じゃ、事務所の方へ」
 男はセールスに促されてBMWから離れた。展示してある中古車の間を通って事務所へ向かう。その途中だ、やはり中古車を探しに来た客らしき一人の女性と目が合う。
 えっ。
 なんて魅力的な人だろう。思わず足を止めてしまったほどだ。
 その女性は不思議なことに男から目を離そうとしなかった。どうして? もしかして知り合いか? いや、そんな事はない。あれだけの美人をオレが忘れるわけがないだろ。
 「さ、どうぞ」
「……」
 男は動きたくない。女性に見惚れたままでいたかった。しかしセールスの言葉に仕方なく事務所へ入っていく。
 ビートルの下取りやBMWの名義変更など色々と手続きを説明されたが、上の空で頭の中に入っていかない。ただ頷くだけでやり過ごす。
 あっ、そうか。
 あの綺麗な女性がオレが買うと決めた紫のBMWに座っていたんだ。甘酸っぱい性的な香りは彼女のらしい。横取りされたんで悔しい思いでオレを見てたのか。そう男は気づく。これで納得がいく。しかし、……相当な美人だった。

additional 2

 いい買い物をした。この新車みたいなBMWが信じられない安さで手に入った。最高グレードのMスポーツで、キャメルのレザーシート仕様だ。下取りしてもらったVWのビートルが88万円になったので、支払いは30万円で済む。
 なんてラッキーなんだろう。
 幸運に酔いしれる気分だ。ここ何年かは、すべてが上手く行っていた。
 男は美容師で、ここ君津市で2店舗を経営していた。次の出店も視野に入っている。仕事は順調だ。
 私生活では、去年の夏に結婚した妻との間に娘を授かったばかりだ。今は退院して木更津の実家に行っている。明日の昼には自宅に赤ん坊を連れて帰ってくる予定だった。
 BMWに買い換えたことは妻に知らせていない。明日、驚かせてやろうと考えている。
 仕事柄、普通の自動車には乗れない。例えばカローラとかマークⅡなんかだ。個性が無さ過ぎる。美容師は技術も大切だが作業自体がパフォーマンスだ。ウェアーはアロハシャツを基本にした。カットはハサミの持ち方にも気を使う。常に人から見られていると意識して仕事をした。
 一つの店舗は住居と一緒で男が責任者として仕切った。従業員にはチーフと呼ばせていた。ここは確かな技術を売りに営業した。私生活でもスタイリュでありたいので、ほとんど自家用車は外車を選ぶ。購入したBMWはトルマリン・バイオレットという特殊色だ。これは洒落ている。気に入った。美容師が乗るには、もってこいの車だろう。
 もう一つの店舗は『アベニュー』という名前で駅前にあった。美容室でありながら若い男性客をターゲットに店を開く。技術者は全員が綺麗で独身の若い女性達だ。彼らを高い給料で集めた。そしてスタイリストと言うよりもホステスに近い接客をさせた。狙いは当たる。オープン以来、ずっと繁盛していた。
 ところがだ、数日前に主任をしていたトップ・スタイリストの小夜子が、通勤の途中で交通事故に遭って長期入院を余儀なくされてしまう。長身の美人で、最も多くの指名客を持っていた。これは痛い。
 怪我で顔にヒドい裂傷を負っていた。元通りになるのか分からないと医者は言う。さらには、付き合っていた彼氏と最近になって別れた、と他のスタッフから聞かされたばかりだ。彼女にとって不運が続いた。 
 リーダー格の小夜子を失うことは大きな売り上げ減を意味した。すぐに代わりを務められそうなスタイリストを見つけるのは不可能に近い。でも、とにかく欠員を早急に補充しなければならない。
 新聞に求人広告を出そうとする直前だった、うちの店でスタッフを募集していると人づてに話を聞いたと、一人の女性からと電話が掛かってきた。
 応対すると、しっかりと受け答えをする好印象の女性だった。声がハスキーで、もし容姿が良ければ多くの客がつきそうな感じがした。面接は今日だった。
 いい人なら嬉しい。そろそろ面接の女性が来る時間だった。それまで男は自分の所有になったBMWの車内とか外回りを点検しながら時間を過ごした。
 コンソール・ボックスを開けて車検証を取り出してみる。強制保険証が目に入った。三人の名前が並んでいた。一番上が車検を通した平野伸太郎という人物だ。その名前が二重線で消されて、下に斉藤勇作という氏名があった。これも二重線で消されていた。で、一番下が今の所有者である自分の名前だ。
 車のコンディションからすればワンオーナーの中古車だった。しかし保険証から判断すれば、すでに二人がBMWを所有して手放していた。こんなに程度のいい車をどうして? 経済的な理由からだろうか。ちょっと納得がいかない。
 それもだ、平野伸太郎という男は6年間も所持していたが、斉藤勇作は僅か1ヶ月で車を売却している。年式からして走行距離が少な過ぎた。何か変だ。二人とも電話番号が記載されていた。連絡を取って理由を訊いてみたい誘惑に駆られる。
 「あっ」
 男の名義にした車検証から、もし何か手掛かりが見つけられないかと思って手にしたところ、白い封筒が助手席の上に滑り落ちた。拾ってみると、宛名は書いてないが、差出人は安藤紫という名前が紫色のインクで裏に書かれていた。
 どうしよう、困ったな。
 他人の手紙を放置したり、また捨てたりするなんてことは出来ない。斉藤勇作という人に電話して、封書を預かっていることを伝えるべきだろう。その時に、どうして程度のいいBMWを短期間で売ってしまったのか訊けるかもしれない。
 「チーフ」インターンが店から駐車場まで出てきていた。
「なんだ」呼ばれて男は応えた。
「面接の方が見えました」
「わかった。すぐ行く」
「その人なんですが……」
「ん?」
「すっごく綺麗な人ですよ」
「そうか」
 男の表情が思わず笑みに変わった。こりゃ、また運がいいぞ。ハスキー・ボイスに美人とくれば、若い男性客に受けるのは間違いない。しっかり稼いで、駅前店の売り上げに貢献してくれるんじゃないだろうか。
 男は店に向かう途中でポケットからメモ帳を取り出して、面接に来た女性の名前を確認した。覚えていないと失礼だ。
 村上冴子。
 芸能人みたいな名前だった。こりゃ三拍子が揃っている。面接する前にもう採用は決まったようなもんだ。自分の運の強さに笑いが止まらない。何をやっても上手く行く。足取りは軽い。
 店に入って、待合の椅子に座っている一人のスリムな女性に近づく。モス・グリーンのスカートに、薄いパープルのプリントシャツを着ていた。カラフルで素敵だ。なかなか服装のセンスもいいな。気配に気づいて相手が顔を上げた。
 うっ、なんて綺麗な、――えっ。
 男の足が止まる。見た顔だった。最近、どこかで会っていた。でも、どこで? 相手も会釈こそしたが、その顔には同じように困惑の表情が浮かんでいた。あんな美人をオレが忘れ……。
 あっ、そうだ。
 中古車展示場で目が合った女性だと気づくまで、さほど時間は掛からなかった。先に思い出したことで優位に立った男は、ちょっと美人をからかってやろうと思い立つ。
 「お久しぶりじゃないですか」 
 期待した通りに、相手は驚いた様子を見せた。あはっ。楽しい面接になりそうだ。  

   additional 3 final 数週間後
 
 この先どうなってしまうのだろう?
 斎藤勇作は途方に暮れていた。何もかも失った思いだ。もう取り返しはつかない。4DKの家に、たった一人残された。妻は浮気を許してくれず、さっさと出て行った。
 仕事は手につかない。エンジンのトラブルで貨物船が予定通りにアムステルダムに到着しない、とハパックロイドから連絡があったが、まだ相手側には報告していなかった。
 毎日、自分の部屋で机の前に座ってボーッとしているだけだ。何日も髭は剃っていない。風呂にも入っていない。食事は不規則。コーヒーだけは飲む。音楽は聞かない。映画もドラマも見る気がしない。うなされて夜中、何度も目を覚ます。睡眠不足だ。
 えっ。
 久しぶりに携帯電話が鳴った。まだバッテリーが残っていたのが意外だ。誰だろう? 明美だったら嬉しいが。あいつがヨリを戻してくれるなら、もう一度やり直す気持ちになれそうだ。勇作は携帯を手にしたが、知らない番号からなので応答しなかった。妻以外とは話をしたくない。しかし電話は鳴り続けた。
 しつこい野郎だ。うるさい。
 仕方なく勇作は携帯電話に出る。でも無言だ。
「もしもし」聞き覚えのない男の声。
「はい」面倒臭そうに返事をしてやった。  
「斎藤勇作さんでいらっしゃいますか?」
「はい」オレの名前をフルネームで知っている。誰だ? 親しげな相手の声が耳障りだった。
「初めまして。実は自分は斎藤さんが以前に所有していた、トルマリン・バイオレットのBMWを、数週間前に中古車店で購入した者なんです」
「……」勇作の背筋が凍りつく。
「もしもし」応答を求めている。
「はい」ど、どうする? 会話は続けたくない。電話に出るべきじゃなかった。
「それでですね、BMWの車検証の間に挟まれて――」
「オレは一切関係ない。封書のことは忘れろっ」相手に最後まで言わせない。勇作は怒鳴った。
「えっ?」
「いいか。あんたが思いを寄せてる女とは早く手を切るんだ」
「はあ? ……ど、どういう事です?」
「BMWも早く処分しろ。そうしないと身の破滅だ」
「一体、何を言ってるのか――」
「その女は人間なんかじゃない。悪霊だ」
「ちょっと待って下さい。誰ですか、その女って?」
「紫の服を着て、あんたに近づいてきた女だっ」そこまで言うと斎藤勇作は携帯電話を切った。手が震えていた。全身が汗でびっしょりだ。

                         end  


Thanks to lucy redman. Without you this story would not be created.
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