あの日の恋は、なかったことにして
 私はすかさず、猪狩くんに交渉する。

「ねえ、社長室の人たちとの飲み会なんてない? クライアントとの接待なんかも請け負っちゃうよ」

 おにぎりを頬張りながら、猪狩くんは眉をひそめる。

「残念。桐生社長、女性は同伴しないんだよね。行きつけの店も下町の寿司屋だし。社長室付きの人間にも、そういうのめっちゃ厳しい」

「そうなんだ。残念」
「がっついてるなー」

 否定はしない。
 チャンスなんて待っていても落ちてこないことは、ずっと前から知っている。

「女の賞味期限が切れる前に、将来有望な男を捕まえるんだもん」
「じゃあ俺なんてどう?」
「もうちょっと出世したら考えてもいいよー」
「お買い得だと思うんだけどな〜」

 猪狩くんはダメだ。
 こうしてくだらない話をしているのが楽しいんだから。

「私、そろそろ行くね。また明日、お弁当持ってくる」
「おー」

 私は、もっと広い世界を見たい。
 たくさんの価値観に触れたい。

 だから、ここで立ち止まるわけにはいかないんだ。
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