あの日の恋は、なかったことにして
【5】価値観の違いは、簡単には埋まらないものである。
 社長室を出ると、神妙な顔をした猪狩くんが立っていた。

「すず……」

 無視して通り過ぎようとした私の腕を、猪狩くんが掴んだ。

「離して!」
「頼む、話を聞いて!」

 私は無理やり彼の腕を振り払った。
 そして、精一杯の虚栄を張って、彼の顔を正面から見据えた。

 泣かない。絶対に。

「聞かなくてもわかってる。あなたは自分の仕事をしただけでしょ?」
「ごめん」
「いいよ、私が馬鹿だっただけ」
「すず……」

 猪狩くんの方が泣きそうな顔をしている。
 罪悪感でいっぱいの顔をすれば、許してもらえるとでも思ってる?
 でも、もう絶対に騙されない。
< 42 / 78 >

この作品をシェア

pagetop