あの日の恋は、なかったことにして
「桐生社長にも言ったけど、私は自分と母親を捨てた父とその家族を利用して、這い上がろうとしただけ。誤算だったのは、あなたが意外にも社長に対して忠誠心を持っていたってことね。見通しが甘かったわ」
「違う。君はそんなことは思っていなかった」
「あなたに私のなにが分かるの?」

 こらえていた涙がこぼれる。
 涙なんか、武器にしたくないのに。
 私はこぶしで涙をぬぐった。

「ありがと。いい勉強になった」
「すず、本当にごめん。許してくれなんて言えないけど、悪かったと思ってる」
「だからいいんだって。全部なかったことにしよう? 私もその方が好都合。目標達成するまでここで働きたいから。あ、でも難しいかもしれないね。クビになるか、異動になるか……。ま、そうなったらパパに頼んで金持ちのところに永久就職するからいいや」
「俺がそんなことさせない」

 ちょうど11階にエレベーターが到着した。
 猪狩くんの言葉には返事をせず、私はそれに乗りこむ。
 もの言いたげな、猪狩くんの悲しげな顔。

「バイバイ」

 好きだったけど、それはもう過去のこと。
 私はもう、失敗しないし、迷わない。

 狭まっていくドアと一緒に、心の扉もゆっくりと閉じていくのを感じた。

   ***
< 44 / 78 >

この作品をシェア

pagetop