あの日の恋は、なかったことにして
「ねえ、すず。恋人にするなら、猪狩くんみたいな人がいいわよ」

 ぼんやりしている私に向かって、母が唐突に言った。

「なんでよ」
「だって、イケメンだし、御曹司だし、なにより誠実だし♡」
「最後の〝誠実〟ってのがよくわからないんだけど」
「あらあ、運転を見ていればわかるでしょ。こんなに丁寧で優しく車を運転するんだから、恋人にも絶対に優しいわよ」
「ふうん。本当に好きな人になら、そうするのかもね」


 本当は、運転がものすごく丁寧なことは知っていた。

 一緒にドライブに行ったときも、ずっと安全運転。
 マナーもいいし、適度に休憩を挟んでくれたりして、気遣いもパーフェクトだった。

 でも、もう傷つきたくない。
 裏切られるのが怖い。

 必死で忘れようとこうしているのに、同じ空間にいるだけでまだ心が痛む。
 猪狩くんがいない世界に行けば、この苦しみから解放されるのだろうか。


 食事の予約をしていたホテルに到着する。
 猪狩くんはうやうやしく後部座席のドアを開け、母を先に車から下ろした。
 そして、私が下りようとしたとき、車のふちに手をかけ、こっちを覗き込みながら言った。

「俺が言えた義理じゃないけど……負けるなよ」
「うん。……母のおしゃべりに付き合ってくれて、ありがとう」

 猪狩くんは、ちょっと驚いた顔をして、それから苦しそうに胸を押さえながら視線を下に向けた。
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