あの日の恋は、なかったことにして
 父はどうにも居心地が悪いようで、さっきからずっとそわそわしている。
 桐生社長も同様で、お品書きの文字をずっと目で追っていた。

 ああもう、男どもはどうしてこうなんだろう。

「そういえば、私、桐生社長の会社で働いているんですよ。といっても、働くフロアが違うから滅多に顔を合わせることがないんですけど。でも、入社式の社長の言葉がとても印象的で」

 私は就活や合コンで培った話術で、この緊迫した場を打破しようと試みた。

「ほう、どんな話をしたんだい?」
「あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう」
「いい言葉だね。薫が自分で考えたのか?」
「まさか。ガンディーの名言です」

 よし。いい感じで会話が続いたぞ。


「学生の頃と違って社会人生活はとても忙しくて……ときどき目標を失いそうになるんですけど、そのたびに社長の言葉を思い出して頑張っているんです」
「いくつになっても、夢や目標を持ち続けることは大事よね」

 母も調子を合わせてくれた。
 私はさらに、社長を褒める作戦に出る。

「そういえば、このあいだ社長直々にお茶を淹れていただいたんですけど、そりゃあもう美味しいお茶で。なんていうか……もっと雲の上の人だと思っていたので、意外だったというか……」

 最後のエピソードは、余計なことだっただろうか。
 あのときしたのは、私と父のことを責める話だったから。
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