あの日の恋は、なかったことにして
 最初はスーツに毛がつくのを気にしたのか、猫に触れるのをためらっていた社長だが、マンチカンに「にゃーん」と擦り寄られて目尻を下げている。
 私の足もとでは、ハチワレの美猫が猫じゃらしと奮闘していた。

 かわいい。
 こういうとき、人間はほんとうは猫に支配されているんじゃないか、と思う。


 社長は「猪狩のことなんだけど」と、いきなり(私にとって)本題に入った。

「ああ、運転手の人」

 もうリセットした他人だ。
 そっけなく、「車を手配していただいてありがとうございました。助かりました」とだけ返答しておく。

「猪狩と付き合ってるんだって?」
「は? 付き合ってませんけど」
「喧嘩させてしまって申し訳ない」
「いや、だから……」

 人の話をちゃんと聞く、とさっき言っていたような気がするのだが、聞き間違いだっただろうか。
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