あの日の恋は、なかったことにして
「私、今、不幸に見えます?」

 言葉で言っても、彼の不安は消えないかもしれない。
 だから、自分の目で確かめて、判断してほしいと思った。

 桐生社長は私の顔をじっと見たあと、かすかに笑った。

「いや、不幸には見えないかな。入社してからの君の様子は、猪狩や木暮ディレクターから聞いていた。ずいぶんたくましい子だな、と思っていたよ」

 うわ、木暮ディレクター経由でも私のことを聞いていたのか。
 いい話ではなさそうだ。でも、あれがいちばん自分の素に近い気もするので、「たくましい」という評価は、あながち間違いではない。


「母とはふたり暮らしでしたけど、楽しかったです。だから、幸せだったと断言できますよ」
「それを聞いて安心した」

 心底ほっとしたような桐生社長の顔を見て、なんだか私も、憑き物が落ちたようなスッキリした気持ちになった。

 きっとこれから、私たちは新しい関係を築くことができるだろう。
 そんな予感がした。
 そして、私のこういう予感は、滅多に外れない。


「私のこと、これから『すず』って呼んでくれませんか? 家族なんだし」
「じゃあ、僕のことも『薫』で」
「わかった、薫」
「……いきなり呼び捨て?」
「えー? だって、『お兄さん』とか、絶対無理」
「あはは。じゃあ、それでいいよ、すず。これから、家族としてよろしくね」
「うん!」

 こんなにかっこよくて素敵な兄ができるなんて、私はやっぱり幸せ者だ。
 だから、父と母と奥様に、感謝しなくてはならない。
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