あの日の恋は、なかったことにして
 小暮ディレクターがオフィスに戻っていったあとも、私はしばらくその場で余韻に浸っていた。
 気持ちはすでに、シンガポールの空の下だ。


「やったぁ!」

 両手をあげてその場でのびあがる。
 すると、誰かのお腹にぽすんと頭をぶつけてしまった。

「すみません!」

 振り返ってぶつかった相手に謝罪する。
 するとそこには、神妙な顔の猪狩くんが立っていた。

 仕事の合間の休憩時間なのだろうか。
 帽子と手袋は外しているけれど、ドライバーのユニフォームを着ている。


「ねえ、さっきの話、本当?」
「さっきの話って?」
「シンガポールに行くって」
「ああ……」

 聞いていたのか。
 社長付きの運転手さんは、いろんな情報を仕入れて社長に提供するけれど、社長からはそういう話は聞かないのだな。

「入社してすぐに希望を出していたんだけど、運よく通ったみたい」
「そっか。すずの夢だったもんね。よかったね」
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