あの日の恋は、なかったことにして
「猪狩くんも仕事があるでしょ? また機会があったらお茶でもしよ」
「そんなの、社交辞令じゃん」

 猪狩くんは、私をもう一度ぎゅっと抱きしめたあと、力を緩めて少し体を離した。
 いつもの飄々とした余裕のある表情と違い、思い詰めたような顔をしている。

「この手を離したら、もう戻ってこないじゃん……」


 ああ、この表情は、前にも一度見たことがあった。

 社長室に呼び出された日。
 閉じていくエレベーターの扉の向こうで、猪狩くんは今と同じような顔をしていた。


 私は、震えている猪狩くんの背中を、トントンと優しく叩いた。

「ごめんね。あの頃の自分とは、もう違うの。いろんなことがあって、もっとちゃんとしなきゃいけないって思った。猪狩くんも、自分の責任は果たさなきゃダメだよ?」
「ちゃんとすれば、俺のしたことを許してくれる? もう一度、やり直すチャンスをもらえる?」
「うん」

 猪狩くんが、悪気があって私と父のことを報告したのではないと、兄である桐生社長からさんざん謝罪された。
 私も私で、あのとき話をまったく聞こうとしなかったのだから、お互い様だ。


 猪狩くんは、私の両手を握りしめた。
 そしてそのあと、ひざまずいて言った。

「すず、俺と結婚してください」
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