あの日の恋は、なかったことにして
「答えは急がないけど……できればシンガポールに行く前に、婚約だけでもできないかな」
「十分急いでるじゃん! っていうか、なんなのよ。私は猪狩くんに、あの夜の責任をとってほしいなんてこれっぽっちも思ってない。意味わかんないよ」
「わかれよ、そんなの」

 猪狩くんの声は震えていた。

 結婚とか責任とか、突拍子もない話すぎてついていけないけど、猪狩くんの中ではきちんとした理由があるのかもしれない。

 話を聞こう。
 そして私も、彼のことをもっと理解しなきゃ。


「ちゃんと理由を言って。真面目に聞くから」

 すると猪狩くんは、くるりと私の体の向きを変えて、自分の正面に立たせた。
 膝を落とし、視線の位置を合わせる。

 ふっくらした唇から、ふうっと息が吐き出された。
 猪狩くんはそのあと、目を閉じて大きく深呼吸した。


「すず、好きだ。たぶん、はじめて会ったときに一目惚れしたんだと思う。俺、自分から動かなくても向こうから来てくれることが多かった。だから、すずが俺のことを友達としか思ってなくて、合コンに行きまくってたとき、本当はものすごく焦ってた」

 猪狩くんの目に涙が浮かんだ。

 え! 泣いてんの!?
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