あの日の恋は、なかったことにして
 そうこうしているうちに、空港ロビーの向こうから中年女性がふたり、手を振りながらこっちにやってきた。

「すず、お待たせ! あらあ猪狩くん、あいかわらず男前♡」

 ひとりは、花柄のシャツに7分丈スパッツ姿の私の母だ。
 もうひとりは……

「すずさん、1週間、通訳お願いね。ほんと楽しみだわぁ。旅行なんて、いつぶりかしら」
「あら加奈子さん、このあいだ山形まで遊びに来たでしょ? 宗一郎さんに内緒で」
「あのときはドキドキしたわ。ひとりで新幹線に乗るのも初めてで、夫にびっくりされちゃった」


 父の正妻である加奈子さんと元愛人である母は、なぜか食事会のあと意気投合し、なんと親友になったそうなのだ。

 お嬢様育ちでプライドの高い人かと思いきや、加奈子さん、じつは冒険心に飛んだ人だったらしい。
 性格もうちの母とよく似ていて、父のことなんかそっちのけで趣味の話で盛り上がったそうだ。


「すごい組み合わせの旅行だね……」
「だね。でも、母親がふたりできたみたいで面白いよ」


 最初はうちの母と加奈子さんのふたりでシンガポールに行こうという話になっていたそうだが、あまりにも不安だということで、急きょ私が通訳兼監視役として同行することになった。

 加奈子さんの性格を知り抜いた兄の薫は、私が有給申請をしていたことを知り、渡りに船だと思ったようだ。

 旅行費用も負担してくれようとしたけれど、それは辞退した。
(ただし、ホテルのグレードアップ料金は、通訳兼ガイド代としてありがたく頂戴した)



 空港内に、搭乗手続きのアナウンスが流れる。

「じゃあ、行ってくるね」
「帰ってきたら……」

 恋人になってね。
 猪狩くんは、照れくさそうに私の耳もとで囁いた。
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