俺が優しいと思うなよ?

俺は「はぁ」と息を吐いて、詩織の前に立った。
「この際だから言っておく。俺たちは学生時代に別れてからお互いに各々いろいろな経験をして大人になった。俺はあの頃とは違うし、詩織もパリでピアニストになって一度は婚約もした。俺たちがやり直すことは、もう有り得ない」
第三者から見れば多少冷たい言い方だったかもしれない。しかしこれくらい言わないと詩織に俺の気持ちは分からないと思った。

詩織は納得しないように「でも聞いて」と泣きそうな顔で見上げてきた。
「あの婚約は間違いだったのよ。あの人はお金持ちで私に贅沢な生活をさせてくれたけど、彼が欲しかったのは私との愛じゃなくて「ピアニスト二条詩織の夫」という肩書きだったのよ」
「詩織……」
彼女は興奮気味に婚約は失敗だったと主張した。
二条詩織は小さい頃から兄妹のように育った唯一の幼馴染みだ。そして元カノだったからと言って適当にあしらうつもりもない。しかし今の俺の脳内に存在する女は、詩織ではない。
彼女は綺麗な顔を歪めて縋ってきた。
「私、目が覚めたの。やっぱり私には柊吾しかいないって気づいたの。柊吾はずっと私の味方でいてくれたじゃない。少し遠回りしちゃったけど、私たち絶対に上手くいくと思うの」
学生の頃と違う、大人の色気を覚えた完璧なメイクで訴える彼女が、俺には知らない女性に見えてきた。

「私、柊吾に相応しい奥さんになれるように頑張るから!」

多分、彼女なりの精一杯の口説き文句だと思った。人目もはばからず言い放ったその言葉は、俺の心を動かすことはなかった。

「言っただろ?俺たちがやり直すなんて有り得ないって」
「私は柊吾じゃないとイヤなのっ!」
まるで親にオモチャを買ってくれと強請って怒る子供のような我儘な態度に、詩織のこの昔からの癖に呆れてため息を吐く。大声を出した詩織に、周りの人々がなにごとかと視線を向けてきた。
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