俺が優しいと思うなよ?
怖いのだ。
怒声をぶつけられて仕事に追われた、あの日々。
精神的も体力も限界だった、ボロボロの私。
「…っ」
両手に持つカップが、スッと取り上げられた。
「震えている。コーヒーが手にかかるところだった」
「あ…」
言われて初めて自分が震えていることに気づいた。目の前の影に、私は見上げた。
整った彼の顔の切れ長の目が私の様子を見ている。
「私は…」
──この人に建築デザインの仕事を辞めた理由を言えば諦めてくれるのだろうか。
そんなことを思っていると、成海さんは口を開いた。
「言っておくが、響建築デザインに入社すれば、俺と組んで仕事をすることになる。初めは会社のことを覚えてもらうことになるし、仕事を始めれば余計な考え事ができないくらい忙しくなる。チームの連中に振り回されることもある」
その言葉が、私の背中をゾクリと冷たくした。
──や、やっぱり断ろう。
そう思った矢先。
ぽん。
再び私の頭に乗せられた、成海さんの手。
「お前が何を考えているか知らないが、よく聞け」
と、低音ボイスが頭の中へ入ってくる。
「プレゼンのために忙しくなる。仕事で追い詰められることもあるかもしれない。だが…」
俺はチームの連中を見捨てることはしない。
──信じて、いいの?
視界が滲んでいく。
成海さんは私の頭をそっと撫でる。
「仕事に過去の泣き言を割く時間はない。だから泣きたいことがあるなら、今ここで泣いておけ」
ヴェール橘建築事務所に入社して七年、フリーターになってキヨスクの販売員になって三年。その間、協力してくれる同期も、話を聞いてくれる友達もいなかった十年。
仕事することに必死で、生きることに必死で。「泣けばいい」なんて言ってくれる人は、今までにいなかった。