俺が優しいと思うなよ?
「都市開発に科学館を建てるって、ヴェール橘の万里子社長が張り切っているって噂だよ」
仁科係長から話をもちかけられたのは、それから三日後のことだった。
お昼休みにデスクで青じそと梅肉のおにぎりを食べていると、外出先から帰ってきた仁科係長が教えてくれたのだ。
ヴェール橘建築事務所社長、橘万里子は同時に建築士の肩書きがあっても会社の利益と若い男を優先する五十代の独身女性だった。
元は彼女の伯父が立ち上げた会社で、若かった彼女は伯父に憧れて建築の道を志した。その先代の伯父が亡くなり、遺書に基づいて万里子が社長の座についた。
万里子が社長になってからというもの、それまで真面目だった彼女の性格は手のひらを返したように傲慢で独裁者、且つ自分に従順な男性社員を侍らす会社の女王と変貌を遂げた。
その上利益重視な契約を重ねるようになり、社畜同然に扱われる私達は不満ばかり募っていった。
そんな万里子社長のことだ。今でも手懐けた部下を使って反抗できない社員を強引に仕事させているに違いない。
──私もあのことがなければ、今もまだあそこにいたのかもしれない。
当時のボス、橘万里子が豪華な社長机で金色に光るジュエリーボックスから大きな赤い宝石がついたピアスを取り出す。その机を挟んだ反対側で、呼び出された私は直立していた。
『三波、今回のレストランのデザインはよく出来ていたわ。オーナーがとても気に入ってくれたのよ。あなたの才能と西脇の話術があれば、契約なんていくらでも取れるわね』
『社長……お言葉ですが、西脇さんの言い方の半分は相手に強要しているようなものです。今回だって押しに弱いオーナーさんが仕方なく応じてくれたんです。西脇さんには何度もお客様の要望を取り入れるようにお願いしてるんです』
『西脇は建築法に基づいて出来ることと出来ないことを区別してお客様へ提案しているの。あなたは西脇のおかげで仕事もスムーズに進むのよ。言葉を慎みなさい』
『でも出来る施工を面倒だからと出来ないことにするのは間違っています!』
『西脇はあなたを気に入ってるのよ。甘やかして楽に仕事をさせてあげたいって言っていたわ。いいじゃない、最終的にはお客様も納得してるんだから』
『でも……!』
西脇さんに気に入られたいのではなく、市立図書館のように妥協のないデザインを描きたいのだ、と言いたかった。
『三波。あなた、西脇からもらってるんでしょ?』
ご褒美。
橘万里子の動く、真っ赤な唇。その同色の大きなピアスが両耳で濡れたように光ったことが目に焼き付いている。
そして、あの時の嫌悪感は今も忘れることが出来ない。
何度黒く塗り潰しても湧き上がる、西脇との交わり。
『俺のご褒美は、最高だろ?』
『いやっ!』
あの声で体が震え、気持ち悪くて吐きそうだ。
橘万里子と向かい合ったあの時、
「もう限界です」
と、私は辞表をデスクに置いて逃げるように会社を飛び出したのだ。