アンチテーゼを振りかざせ
頼りなく映ったその顔を見て、声をかけられない私にやっぱり笑った彼女は、自分の隣の席に置いていたバッグを探った。
そして。
一冊の小さなノートを取り出して、開き慣れているようにとあるページを探し当てた朝地さんは笑ってそれをカウンターに置く。
「…これ、誰かわかる?」
「……、」
ノートに貼られた、新聞スクラップと1枚の写真。
記事より先に、写真が目に入ったのは自然なことだった。
その中央で、
青のベンチコートを羽織って表彰状と共に、
屈託なく三白眼を細めて笑っている、黒髪の男。
____私、この人懐っこい笑顔を知ってる。
驚きのままに朝地さんへと視線を戻すと、彼女は微笑んで、スクラップに蛍光オレンジのマーカーで色付けされている部分をトントンと、指さす。
「"久箕 梓雪
陸上競技トラック種目 男子10000m
大学1年生にして、大会新記録を更新して優勝。"」
____これ、その時の写真。
そうして告げられた言葉に、上手く反応が出来ない。
そっと、綺麗な細い指で写真の笑顔を撫でた彼女をただ、見つめた。
「……期待のルーキーだった。
10000mってね。
一見、長距離に聞こえるけどマラソンみたいに長いスパンでのペース配分を考えてる暇は無いの。
400mのトラックを25周。
変わらない景色の中で計算しながら毎周、自分の走りをコントロールしていく。
それなりに最初から速いスピードを保ってスタートする必要があるし、呼吸法もフォームチェンジも、そういう部分で当然センスが問われる。
__梓雪は、それが抜群に上手かった。」
"昔の記憶"だと片付けるには、あまりに滑らかに語る彼女の横顔をじ、と見たままに、生まれた疑問をぶつける。
「朝地さんは…その、何者、ですか…?」
ふっと柔らかく表情を崩した彼女の綺麗な唇には、コーラルの上品なリップが塗られている。
「私は、とある電機メーカーに勤めるただの社員。」
「……、」
「……それでいて、梓雪を去年うちの会社の陸上部に引き入れた人間の1人。
私は、選手達のマネージャーをやってるの。」
説明しつつ、いつの間にやら彼女が取り出していた名刺を受け取ると、そこに書かれた、聞いたことのあり過ぎる大手企業の名前に、素直に驚いてしまう。