アンチテーゼを振りかざせ
「スカウトマンや監督と一緒に、この時の大会を観に行って、決勝のレースであの子の走りに完璧に惚れた。
4年間、大学の陸上部に所属してた梓雪に会いに行ってアプローチし続けて。
……他にも梓雪をスカウトしたい実業団なんて沢山あったけど。」
"しょうがないから、八恵さんのとこ行きますよ"
「いつもの調子で、なんならスパイク履きながらだったし、全然、真剣な口調じゃなかったけど。
……そう言ってくれた時は、やっぱり嬉しかったな。」
両手で握るカップに視線を落として、思い出を語る彼女の横顔が酷く切なく見える。
「……でも。
何か1つのことを成し遂げた人は、きっとそれ以上の凄い成績をこれからも上げ続けるだろうって。
いつの間にか当然のように思ってしまうのは、なんでなのかな。」
私に、問いかけているのだろうか。
それとも自分自身の中で、なのか。
あまりに実感のこもったそれは、心に真っ直ぐに刺さって、もうずっと私は何も彼女に言葉を紡げていない状態が続いている。
「梓雪は、うちの陸上部に入ってから暫くして、突然スランプになった。
そんなこと、まあ長く走ってたら、よくあることなの。
でも梓雪は陸上界では、大学の頃からもうすっかり有名になってた。大会で記録を残さなければ、周りはそれを放っておいてはくれない。
……レースと同じ距離を走ってタイムを測定する練習メニューのこと、タイムトライアルって言うんだけどね。
それをすればするほど、自己ベストからかけ離れていく日々の中で、私は毎日、あいつに声をかけ続けてた。」
そこで漸く、彼女は私の方を見向く。
「だけど、
あいつのいつもの調子、紬さんも分かるでしょ?」
そう続けて、努めて明るい声でこちらに問いかける朝地さんの瞳は、とっくに濡れていた。
"…俺は、大丈夫っすよ。"
「いつも、気にしてないって顔で笑ってるから。
……私は、選手の異変に気づけてなかった。」
震える声が、店のジャズクラシックの音楽の中に、頼りなく紛れてしまう。
「1年の中でも大きな大会を見据えた練習メニューは、勿論私も把握してた。
大会が近づくにつれて、メニューのレベルは緩めていくのが当たり前。筋肉のリカバリーが必要だし、最後は本当にジョギングで流す、くらいに仕上げていくべき。
そんなこと、あいつが1番、痛いほど分かってる。」
___だから。
隠れてその後も1人、
無茶な走り込みしていること、誰も知らなかったの。