アンチテーゼを振りかざせ
ひとしきり笑った彼女は、涙を細い指で拭いながら「紬さん」と、優しい声で私を呼ぶ。
だけど溢れ続ける涙と焼けるくらい熱い喉のせいで、やはり上手く反応は返せそうに無い。
「あいつのことを諦められない私が、それでも連絡を取り続けて。
例えばもう、走らないとしても。
マネージャーとか他の仕事。
あんたのそのセンスを活かせることを何か見つけて欲しいって、まだ間に合うからって。」
"…連絡しても全部断ってくるし、ふざけてんの?"
"ふざけてないし、諦めてくださいよ。"
"八恵さん。
……俺はもう、戻らないよ。"
"私も簡単には、諦めない。"
今やっと、朝地さんに初めて会った時の、あの男との会話の意味が分かった。
「梓雪が、それを望んだわけでも無いのに。
……私はずっと、自分の罪悪感を減らしたかっただけな気がする。」
華奢な彼女は、涙で頬が相当濡れたままに私に言葉を続ける。
店内には人もまだ多い筈なのに。
私には、あの男のことを語る朝地さんの声しか聞こえない。
「陸上選手って体重制限がある訳じゃ無いけど、やっぱり重量はどうしても関わってくる。
梓雪は、大会前の食事制限だけじゃなくて、甘いお菓子もジュースも、一切口にしなかった。
今のあいつは、違うのね。
髪もなんか、アホみたいな色に染めてるし?
…紬さんの前では、もう最初から“陸上選手“じゃ無い自分しか、見せて無かったのね。」
私と同い年の、"ただの"フリーターで。
朝地さんが見せてくれた写真からは全く想像も出来ない、白に近いアッシュの"アホみたいな"髪色で。
いつも軽い調子のあの男が本当に抱えていたものを知った私の涙は、当然止まってくれなかった。