アンチテーゼを振りかざせ
「梓雪がまた踏み出す時、隣に居たい。
梓雪のことが、好き、すごく。
だから、置いていかないで…っ、」
恋は、自分の予想し得る範疇を超えることなく
始まって、進んでいくものだと思ってた。
相手が私を受け入れてくれるための
努力も、我慢も、当然だと思ってた。
だから、傷を隠した脆い鎧を、
いとも容易く剥がそうとしてくる
この男から、逃げていた。
___本当は、貰った言葉その全て、
嬉しくて堪らなかったのに。
「なんなの、紬は。」
「…何が。」
ハア、と大きな溜息の後、男が困ったような声でそう言ってくる。
私は今、一世一代の告白をしたところなのにその返事こそなんなのと、ちょっと聞き返す声が不満げになった。
「……置いていくわけ無いじゃん。」
でも、私の後頭部に手を回して、そっとおでこを合わせながら囁くような声で言われると、安心からぽたぽたと、再び泣けてくる私は単純だ。
いつの間にか、私が差し出したジュースは男のもう片方の手に収まっていた。
「枡川さんが、前に居酒屋に連れてきた人達がいて。
オフィス内のデスクを全部新しく取り替える案件を担当した、会社の人達。
今もたまに飲むくらい、仲が良いらしくて。
…その会社が、スポーツメーカーだった。」
「……、」
"え、もしかして10000mやってた久箕君!?"
「その中に、ランニング用品のカテゴリーを担当してる、当たり前に陸上競技にも詳しい人が居て。
俺が店員として接客に行ったら、驚いてた。
……一緒に働かないかって、その人がまた会いに来てくれて、誘ってもらった。」
枡川さんが、梓雪と話すようになったきっかけがあったと言っていたのはこのことだったのだと、そこで気づく。
「ずっと踏ん切りが、つかなかった。
俺はもう走ることから離れた人間で、今更また、スポーツに関係する会社なんか、大丈夫かって思った。
……でも。」
至近距離で絡む視線の先の、綺麗な瞳が微かな月明かりでもきちんと照らされていた。
その揺るがない光が、まるでこの男の真っ直ぐな言葉を、投影してるみたいだった。
「カルピスサワーだけじゃダメだって頑張る、面倒な紬を見てたら、もうそろそろ逃げられないと思って。」
「……」
"面倒"は、余計だと思う。
だけどそれを言うには、あまりに喉がつっかえる。
「その会社に話聞きに行ったら、楽しそうかも、って思う自分がいた。
ちゃんと、面接受けて採用が決まって。
…あんだけ八恵さんに走ることに関する仕事はしないって断ってたくせに。
面接で結局、"ランナーに関わることがしたいです"って言ってるから自分でも笑えた。
結局俺は、苦しんでも辛くても、
走ることが好きだったことは簡単に忘れられない。」
「……梓雪だって、面倒だよ。」
「うん、ごめん。」
全く反省の色が無い声で謝罪する男は、優しく私を見つめていた。
「就職するから髪も戻して、バイトも辞めた。
中途半端な状態じゃなくて、
どうするか決めた自分で、紬に会おうと思ってた。」
「……中途半端なんて、言わないで。」
「…、」
「梓雪は、またもう一回、
立ち上がるための休息してただけでしょ…?」
そう言った途端、笑っていた筈の梓雪は顔が少し歪んだ気がして。
それを隠すように、私を抱き締める。
"新しい生活の中には、新しい出会いがちゃんとあって。それを見逃さずに自分の進む方向をまた決めたあいつのこと、私は凄いなって、思うの。
____進み続けるのと同じくらいに、自分を奮い立たせてもう一回立ち上がるのだって、凄く大変に決まってる。"
「……紬。」
朝地さんの言葉を思い出していた私の名前を、くぐもった声で呼ばれた。
「なに?」
「___走って俺に会いに来てくれて、ありがと。」
この静かな夜にひっそり消えるような、
震えた小さな感謝が、私にはとびきり愛しかった。