アンチテーゼを振りかざせ
新しい道を歩き始めたこの男にとって、
"今"は、とても大切だ。
そんなことは全然、分かっているのに。
それでも私は、
「__梓雪が居ない金曜日は寂しい、ごめん、」
とっくの前からこの男に心を占領されて、ままならない。
「なんで、謝んの。」
腕の中で、ちょっと距離を取って顔を覗き込んでくる男が、困ったように笑っている。
「…梓雪にとって大事な時間を、
邪魔したら駄目だって分かってる。
でも、結局我慢できなくて、
あんな風にメッセージ送った…」
そして、こうやって早めに
帰って来てくれてしまった。
この男が、本当は凄く優しいなんてずっと知ってる。
「2次会までちゃんと顔出してから帰って来てんだから大丈夫。もう大体みんな酔っ払ってて、主賓とかもはや関係無くなってたし。
…それに、あんな風に
紬が送ってくるのは珍しいから。
可愛すぎたのと、ちょっと引っかかった。」
__なんか、不安にさせた?
男の優しい声が、心の琴線にどうしたって触れる。
自分の中に巣食うモヤモヤを、吐き出しても良いのだろうか。
迷いからきっと情けない顔になっている自覚は充分にあって、俯こうとするとそれを遮るようにそっと顎を掬われてしまう。
「…ハート、ついてた…」
絡まる視線の先の三白眼に促されるように、
掠れた声が次いで出た。
「ハート?」
「スマホの通知たまたま見えて、それもごめん、
楽しみにしてますって、メッセージ、来てた。」
《久箕さんと飲めるの、楽しみにしてますね♡》
尻すぼみになりつつ吐いた言葉に、男は数秒間逡巡して「…あー、あれか。」と苦く嘆く。
そうして私の頬に1つキスを落として、そのまま「紬。」と名前を呼ばれる。
「1人、部署の中で
確かに好意を示してくるような人がいる。」
「……、」
「でもあのメッセージは、グループLINEで来てたものだから。個人のやりとりは、一切して無い。
まあ、俺が返信しないからだけど。」
ふ、と私に語りかけながら笑うその柔らかい表情が好きだと思えば思うほどに、また涙腺が刺激される。
「…俺が昔、陸上やってたこと、
部署の人は大体知ってる。
それで、その人に言われたことがある。」
"久箕君の過去とか、全然気にしないですよ。"
「…多分その人なりの気遣いだったんだと思うけど。
でも俺はあの頃のこと、忘れたいわけじゃない。
だって全部ひっくるめて、自分だし。」
軽い口調は変わらず、そう私に話す男の言葉にこくこくと何度も頷く。
懸命に走ってた頃も、辛くて葛藤の中にいた頃も。
「ぜんぶ繋がって、今の梓雪が居るんだよ。」
鼻声だし、ぐちゃぐちゃの頼りない顔だし。
だけど伝えたいって気持ちだけでなんとかそう言葉を紡ぐと、梓雪は少し驚いたような顔をして、やはり優しく笑う。
「…紬。
俺にとっても”全てまるごと受け止めてくれる”存在がどれだけ嬉しいか、分かる?」
「……、」
再び私の両頬を包む男の、
微熱を伴う温かさが愛しい。
「俺が走れない時は、代わりに走るって言ってくれる子なんか、大事にしたいに決まってる。
昔の自分も、ちゃんと受け入れられたのは紬が居たからだし、俺は紬にしか、全部を晒したいと思わない。
紬だけが、可愛い。」
耳に届く言葉の糖度に、クラクラしてしまう。
恥ずかしさが最高域に達して、もうやめて、って言いたくても、しっかり顔を固定されていてうまく言葉を発するのが難しい。
「…なんで、そんな言い切れるの。」
「好きだから。」
与えられた甘すぎる言葉を素直に聞き入れられない私の問いかけに即答した男は、そのまま力強く抱き締めてくる。
「それ、答えになって無い」とやっぱり可愛げの無い返答しかしない私の耳元で、クスクスと心地よい笑い声が聞こえていた。