アンチテーゼを振りかざせ
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最寄駅に到着した後、特に何も深く考えなくても帰路へと足は進められる。
そのままスマホを取り出そうとすると
「_____おかえり。」
「、びっくり、した…」
聞こえてきた声に、そう素直な感想をこぼした。
車道と歩道を隔てる何の変哲も無いガードレール。
いつかと同じように、もたれかかって器用に片足を引っ掛けている男を見ると胸がきゅ、と掴まれたようになる感覚には、もうきっと終わりが来ないような気がしている。
暗闇に反射した白のアッシュはもう無いけど、黒髪を夜風に優しく靡かせて笑う梓雪に近づいた。
「もっと遅くなるかと思った。
案外早かったな。」
「…わざわざ迎え、良かったのに。」
「嬉しくなかった?」
「……、」
嫌な聞き方をする。
ぐ、と分かりやすく言葉が詰まった私の様子を見終えてクスクス笑う男が、私の髪を撫でるというより揶揄うようにくしゃりと乱した。
「楽しかった?」
「……うん。」
「…なに、その間《ま》。」
「ちひろさん、異動するんだって。」
「…営業じゃなくなんの?」
____
『……異動、ですか。』
『はい。企画部へ行くことになりました。』
もう頼んだおつまみも残り少なくなったところで、ちひろさんは急にそう報告をしてきた。
赤い顔のままに、微笑む彼女が纏う空気は柔らかいけれどピン、と伸びた背筋は決意を物語っていて。
『……相当、悩みました。
新しいことにチャレンジするのは不安です。
でもヘタレで臆病者だからこそ、どんな仕事もきっと丁寧に頑張れるって、言ってもらったので。』
嬉しそうに紡がれた言葉は、きっと彼女の想い人の受け売りなのだろうな、と直ぐに分かった。
瀬尾さんは漸く、ちひろさんにプロポーズを果たしたらしい。
『あのヘタレ男、ちひろに入社した時からベタ惚れだったから。まあ一目惚れみたいなもん?』
『入社した時からですか…』
『そこから何年間もモジモジ焦れ焦れ、逆に尊敬するわほんと。怖。』
ちひろさんがお手洗いで席を外したタイミングで、呆れたように笑う亜子さんも、結局嬉しそうだった。
『プロポーズの言葉は?』
『教えません。』
『私も知りたいです。』
亜子さんと私の攻撃に、もうやめて、と恥ずかしそうに制するちひろさんの恋は、なかなかロマンチックな始まりなのだなと笑みが漏れた。
_____
彼女が内勤中心の仕事になれば、これからも会社同士の関わりが続いていくとしても、うちのオフィスを訪れることは無くなる。
「…寂しい?」
擽るように私の頬に触れる男にそう尋ねられる。
「寂しい。
けど、これからいつでも飲みに行けるから。」
今日だって、"じゃあまた"、そう言って解散した。
それを思い出して告げると、
「…枡川さんのことなら素直だな。
俺には、なかなか言わないのに。」
ガードレールから身体を離した男が、そのまま私の右手を掬い上げて繋いで、先を歩いていく。