アンチテーゼを振りかざせ
分からない。
だってそれが"普通"だったから。
笑顔で、淡々と、正確に、的確に。
そうやって捌くのが仕事だから。
「…お手洗い行ってきます。」
この課長の瞳は時々、何か奥の奥まで見透かされているような気持ちになってしまう。
思わず逃げたくなって、笑ってその場から離席した。
◻︎
お手洗いはテーブル席とカウンターのあるホールの左側に、通路がのびて奥ばって存在しているので、店内の賑やかしさが少しだけぼんやり遠く聞こえる。
仲良くというか、若干上下関係も忘れて会話を続けているであろう3人の元へ戻ろうと足を一歩踏み出そうとした時、
「_____紬?」
すぐ近くで聞こえてきた声の方を見向いた。
「……え、」
「やっぱり、紬だ。」
スーツにきっちりネクタイをしめた男性のことは、記憶が薄れても勿論覚えている。
「……久しぶり。」
それは、私が大学時代に付き合っていた椋だった。
にこやかに話しかけてくる彼に、咄嗟に私も笑顔をつくって挨拶を返す。
心臓の拍のリズムが刹那的に乱れたのを感じた。
「こんな店で、何してんの?」
"こんな店"
でもこの店を気にいる人が、私の周りには何故だか沢山いるのだけど。
そう心で唱え、苦笑しながら、
"なんかこの辺り、居酒屋しか無いな。
紬っぽい店無いわ。もうちょっと向こうまで歩こうか。"
私は付き合っていた時の会話を思い出してしまった。
やっぱりこの言葉だけは簡単に思い出せる。
それくらい自分の中で、刻まれていた。
「……今日は、会社の人たちと来てる。」
「あーなるほど。付き合いも大変だな。」
困ったように同調を表して笑う椋に、私は笑みを崩さない。
彼は、おそらく自分の中で
"私には、こう居て欲しい"
そんな理想像が、いつもあった気がする。
それを察知するのも、努力して可愛く女の子らしくあろうとするのも、当然だと思っていた。
だけど、それに応えれば応えるほどに、彼は喜んでくれるのと同時に友人付き合いやアルバイトの時間、私の日常の様々な部分への侵食が増して。
いわゆる束縛、だったと思う。
単位を取り終え、学内で顔を合わせるタイミングが殆ど無くなった頃、私はそのことに何処かホッとしている自分に気づいて、それがやけに辛くて。
卒業間近に別れを告げた時、最後まで椋は納得はしていなかったけど、逃げるように引っ越しをした。