転生幼女はもふもふたちに愛されて最強でしゅ!
七度目の正直
一度目の死因は転落事故だった。
歩道橋から落ちた〝りほ〟は打ち所が悪く、二十六歳の身空で三途の川を渡った――心残りはひとり暮らしのアパートで飼っていたかわいいかわいい黒い子犬だ。雨の中びしょ濡れになっていたところを拾って、やっと家にも慣れてきてのんびり過ごせるようになった頃だったのに。現在子犬を飼っていらっしゃる方は重々ご承知だろう。子犬のかわいさを。もう、ころころころころ転がっていくようなあの毛玉を! 雑種で短毛だったが、毛質が細くてふわふわだった。ころころとりほの視界を横切っては、それだけでりほのSAN値を回復してくれた。子犬とはなんだ? 子犬というより『ふわころ』に名前を変更したほうがいい。
話がそれた。
とにかくりほは、そんな愛らしいふわころを残して歩道橋から落ちたのだ。
そして気づけば、二度目の人生が始まっていた。しかしなにか勝手が違う。自動車の代わりに馬車が走り、水道は整備されておらず井戸から水をくむ。照明にいたっては蝋(ろう)燭(そく)だ。日本製の蝋燭のように質がよくないので芯がつぶれてすぐ消えるし、炎が不安定でよくゆらめいている。消し忘れに要注意。見慣れた動物もいるが、見たことない動物もいる。家畜をかじる蝶なんて恐ろしい虫がいた。
そしてなにより違うのは、月がいつも欠けている――。満月がない。この世界はまっすぐ水平な大地に続き、その端は神々の領域へつながる道となっているらしい。まさかの地球平面説が生きている。
そんな世界で、〝りほ〟はリファとして生きていた。りほとして生きてきた現代日本とは似ても似つかない、なんなら五百年くらいさかのぼったような文明レベルの、いわゆるファンタジーの世界である。コンビニも電子レンジも存在しない。井戸からくんだ水を眺めて、(ねえ待って水質検査ちゃんとしてる?)って百回くらい考えた。電子レンジがない世界で、窯(かま)でごはんを温めながらリファはどうにかこうにか生きていた。
けれど、その人生はすぐにまた幕を閉じる。今度は転落事故ではなくて、なんと火炙り。二十三歳でりほの記憶を取り戻したリファは言動がおかしくなり、さらには動物たちに異様に好かれる体質になっていた。人々はそんなリファを魔女だと恐れ、とうとう同じ村の人たちに殺された。この時も二十六歳だった。
驚くことに三度目の人生もあった。リファは相変わらず動物たちに好かれてまとわりつかれたが、幸運なことにとても素敵な人と出会って幸せな結婚をした。このころには徐々にインフラが整備され始め、大きな街であれば水道が設置された家も珍しくなかった。快適な生活を送っていたけれど、その素敵な夫に先立たれた。
その後、なんと動物の言葉がわかるようになって発狂した。窓辺に降り立ってきた小鳥が、『きょうもげんきがないわ』『あたりまえよ、あんなにすてきなだんなさんをなくしたのよ』なんて、リファを見ながら井戸端会議を始めたのである。なんだここは、アニメーションの世界か?と泣き腫らした顔で小鳥たちを見た。悲しみのあまり自分は狂ってしまったんだろう。その後、小鳥や野良猫たちの心配をよそに、流行り病で亡くなった。やはり二十六歳だった。
四度目もあった。もう驚かない。こうなると二十六という数字が恐ろしくてたまらなくなる。二十六になる前に、すべての危険を回避できるように心身共に鍛えようと滝行をしていたら、イノシシがなでてと突撃してきてそのまま川に流されて溺死した。馬鹿だった。このとき二十一歳。二十六歳の呪縛はなんだったんだ?
なんと五度目もあった。もういい加減にしてほしい。二度あることは三度あるどころじゃない。前世の記憶が戻った二十二歳にして、はいはいどうせ死ぬんでしょ、わかってますって達観していた。相変わらず動物たちに好かれ、彼らの言葉も理解できたが、そのせいで大型の動物たちにも好かれ、そんな大型動物がリファを求め暴走した。サイのような巨体を持つ牛だった。おかげでいくつかの村や町で怪(け)我(が)人を出してしまって、自責の念に駆られ寺に入った。その寺に敵国が攻めてきて、敵兵に殺された。このとき二十四歳。もう年齢とかどうでもよくなっていた。
あるんじゃないかと思っていた六度目。
十七歳で記憶が戻った。もうなんのやる気も起きなくて、相変わらずぺちゃくちゃとしゃべる動物たちにまとわりつかれながら、無気力に生きていたら親に奴隷市場に売られた。そのまま神殿のような場所でいけにえにされたわけだが、死の直前、どえらい大きな獣に包まれるように抱かれたような気がして、あったかーいなんてのんきに思いながら死んだ。お風呂に入ってるみたいだった。享年十八歳。今度は意外と短い人生だったな、温かい空気の中でそんなことを思った。
そしてなんと七度目。
リファは、初めて幼女に転生していた。
今までの人生とはあきらかに違う変化である。記憶が戻るのも今までで一番早かった。四歳の頃には、もう記憶があったような気がする。今度は、それなりに大きな都市の一般家庭に生まれた。この頃には馬車は馬車でも幌馬車ではなく、軽量の一頭立ての二輪馬車が登場するようになっていた。要するにスタイリッシュなかぼちゃの馬車のようなものである。 もっと技術が進んだ国では、列車も走っているという。文明開花って素晴らしい。
リファはこの変化をじっくりと時間をかけて受け止めた。七度目のこの人生で、初めて幼女に転生したのはなぜか――知るかそんなもの。今度こそはおばあちゃんになるまで生きると、ただただ誓う。
『りふぁ、おはようにゃー』
飼い猫のナーコが、朝日差し込む窓辺から寝起きのリファを見ていた。
リファはそれに「にゃー」と答える。ベッドから抜け出して、窓を開けると冷たい空気が音もなく入ってきた。冷気が嫌だったのか、ナーコがリファにすり寄ってくる。
『またげんかんにきぞくのおじさんがきてるわよ』
ナーコが言った言葉に、リファはまたかと、うんざりする。ナーコを抱っこしてベッドに腰かけると、壁にかけられた鏡に自分の姿が映った――今度の転生で一番の変化といえば幼女として転生したことだが、もうひとつ大きな変化があった。
バラ色の頬にきめ細やかな踏み荒らすことの許されない雪原のような肌、朝日を浴びて発光せんばかりに輝く金髪を無造作に垂らし、どんな宝石よりも美しい海色の瞳を憂いに陰らせ、六回の転生を経て得てしまった常人ならざる眼光と雰囲気をまとう――リファは、まごうことなき絶世の美少女だった。
街を歩けば人々の視線を釘づけにし、通っている学舎では皆がその美しさにしりごみして友達ひとりできない。美しい容姿で大人びた発言をするリファは教師たちからも一目置かれ、動物に囲まれていても気味悪がられることもなく、まるで天使のようだと感嘆のため息を吐かれる――リファは七度目の人生で初めて思い知った。この世のすべては見た目である、と。
『あのおじさんもこりないわね』
「そうだね。母さんも、もう何十回も断ってるのにってあきれてた」
そんな会話をしている間も、開けた窓から外の声が入ってくる。リファの母親と、件(くだん)の貴族のおっさんの声である。リファは一度しか見たことがないが、某芸術家のように口ひげの両端を逆八の字にピンと跳ね上げた、黒のシルクハットが似合う貴族然とした男だった。
今のリファは九歳である。
そんな幼いリファに、なぜ貴族のおっさんが訪ねてくるかというと――。
「マダム、どうかこの手土産をリファ嬢に直接手渡す許可をいただけないか」
「申し訳ありません、あの子はまだ眠っているので」
「そこをなんとかお願いできませんか。今回のこれだけは彼女に直接手渡したいのです」
「前からお伝えしていますが、あの子はまだ子供です。分不相応の贈り物は困りますわ」
今世の母親が毅然と断ってくれた。
リファが絶世の美少女に生まれて毎日されるようになったことがある。求婚である。
まだ幼いリファに、親子ほど年の離れた男たちがかしずき愛をこうために訪れる。身分は様々だ。向かいに住む二十歳(はたち)の青年から、貴族のおっさん、果ては王族の末端に名を連ねる伯爵とやらもやって来た。今すぐロリコン死にさらせである。
まだ朝方だというのに、無礼にも家を訪ねてきてはリファの母親のスタミナをガリガリと削っていく彼らが、リファは大嫌いだった。
「それに、あの子は寝起きがとても悪いのです。無理に起こしてしまったら、怒ってベッドの上で四回飛び跳ねて椅子に飛び乗りカーテンを引きちぎって絨(じゅう)毯(たん)の下に隠れて三日ほど出てこなくなります」
いったいどこのモンスターの話だ?
初めの頃はしどろもどろに対応していた母の嘘も、そろそろ堂に入ってきた。リファのプライドのためにも、もう少しあたりさわりのない嘘をついてくれとお願いしたいところではある。しかしそうでも言わないと求婚者たちはそう簡単に引き下がらないのもまた事実なのだ。
「ああマダム、リファ嬢の寝起きの話なら存じております。大変なご苦労をなさっておりますね」
ここで、「存じておりますじゃないわー!」と叫ばなかった自分を褒めてあげたい。
母親がリファを訪ねてくる求婚者たちに重ねた嘘がどんどん独り歩きしていって、今や常軌を逸(そ)した美少女リファの噂は絶えない。
『りふぁ、またすごいこといわれてるね』
ザリザリの舌でリファの指先を舐めながら、ナーコが言う。
「私のためを思っての嘘だもの。我慢するしかないわ」
リファが死んだ目で答えたのがおかしかったのか、ナーコが目を細めてにゃあと笑った。
「さて、朝食の準備をしなきゃね」
あの貴族のおっさんも、もうそろそろ帰るころだろう。リファは立ち上がって分厚いカーディガンを羽織ると、階段を下りてキッチンへと向かった。煉(れん)瓦(が)づくりの内装がかわいらしい洋風のキッチンには、たくさんの調味料が並んでいる。リファがこの年で様々な店や行商人からおこづかいで買い集めた調味料である。どれも安いものではなかったが、大多数がリファの容姿を見ると値引きしてくれるのでとても助かった――。
何万回でも言おう。この世は顔である――。
リファは調味料のなかからひとつを選ぶと、氷室から魚の切り身を取り出した。玄関の向こうからはまだ話し声がする。しつこいロリコン野郎である。
調味料の瓶を開けると、懐かしい味(み)噌(そ)の香りが鼻をくすぐる――この世界ではミッソという名前で流通している大変珍しい調味料である。大豆マニアが編み出したこの貴重な調味料は、売れねえんだよなあこれ、とぼやいていた行商人からタダ同然で譲ってもらった。味見をしてみたら、まごうことなき味噌だった。
リファはそれを魚の切り身に塗り込み、また氷室の中に戻す。味を染み込ませてから焼くのだ。その間に小さな鍋に湯を沸かし、そこに大きめに刻んだ野菜と鶏肉をぶち込んで、煮立ったらコンソメを入れる。これはこちらの世界でも一般に流通しているチキンコンソメである。
そうして野菜がやわらかくなるまで煮込んでいる間に、先ほど味噌を塗った魚の切り身を取り出してコンロの上のフライパンでじっくりと焼いていく。このフライパンは、前前世あたりで、鉄職人と知り合ったときに、こういう形状のお鍋は作れないかと打診して作ってもらったものだ。今のリファになって金物屋で見つけたときは驚いた。聞けば、昔ある女性にお願いされた鉄職人が作って以来、世界中に人気の焼き鍋として広まったのだという。リファは思った。特許取っとけばよかったなって。
窓辺で育てているわさわさに育ったハーブをいくつかちぎると、味噌を塗った魚の上にパラパラと振った。ミントほど強くない優しい風味が、くさみ取りにもなるのである。リファが育てると、どんな野菜くずでも立派に芽を出すので、家族はそれを『緑の指』と呼んで家庭菜園に重宝していた。
味噌が焦げないように火加減に気をつけながら切り身を焼き上げると、サラダを盛った皿に移していく。今度は切りかけの山形パンを分厚く切って、コンロに持っていって網の上で弱火で裏表焼いた。こんがり焼けた後、バターとジャムを用意していると、ロリコン貴族と格闘してきた母親がやっと戻ってきた。
「いいにおい~」
「母さん、鼻の穴開きすぎ」
「だっていい匂いなんだもーん」
鼻の穴を大きく広げて、キッチンに漂う匂いを全部吸い込もうとしている母親にリファが笑う。
「今日はママとパパの大好物だなあ」
テーブルに広げられた朝食に興奮している母親とは対照的に、のんびりと起きてきた父親が寝室から出てきた。彼の足もとをすり抜けて、ナーコもキッチンへと顔を出す。
「父さん、顔洗ってきて」
「はいはーい。あ、僕の大好きな味噌焼きだあ」
リファに言われるがまま洗面所へと向かう父親のうしろ姿を、リファはじっと見つめた。
「どうしたの、リファちゃん」
母親がリファの肩にふわりと抱きついてきて、頬におはようのキスをする。
「今日だってとってもかわいいけれど、なんだかいつもと違うみたい」
「朝から貴族のおじさんの声で目覚めちゃって、気分が最悪なだけ」
「わかるぅ。あの人しつこいわよねえ」
母親はそう言ってなにか思い出したように、「そうだったわ」とリファから離れると、大きな箱を手に持って戻ってきた。
「そのおじさんから贈り物ですって。今度遠乗りでもどうですか、って。そのときはこのブーツを履いてきてほしいって」
気持ち悪い奴よねえ、と母親は容赦がない。
「遠乗り用のブーツ?」
「そう、軽くて頑丈なんですって」
ふーんと興味なさそうに相づちを打って、リファはテーブルへと着いた。
「せっかくのあったかいごはんが冷めちゃうよ」
ちょうどそのタイミングで、顔を洗ってきた父親が戻ってきた。
全員が席に着くと、父親が指を組んだ手でお祈りのポーズをする。リファも母親もそれに倣う。
「我らが神に、今日も恵みを与えてくださった感謝を」
りほのときに映画で観たカトリックの挨拶に似ている。
「それからリファの素敵な料理の腕前に、それ以上の感謝を」
父親がいつも付け加える言葉を耳にして、リファはうれしそうに笑った。
(家族三人で食べるごはんも、今日で最後――)
今日、街でとっても有名な美少女リファは、親に黙って家、生まれた街を出る――。
朝食後、リファはドキドキしながら部屋へと戻った。
学校の準備をする振りをして、いつもの鞄に毛布と、皮袋に詰めたドライフルーツや干し肉などの携帯食料、少ない着替えと、小さなナイフ、蝋燭とマッチを詰め、それから家族写真が入ったロケットを首に下げて、リファは貴族のおじさんから贈られた遠乗り用のブーツを履いた。
(あのロリコンも最後に役に立ったな)
本当なら履くわけもないが、旅にはうってつけである。物に罪はない。
『りふぁ、ほんとうにいっちゃうの』
「ナーコ」
リファはナーコを抱きしめて、最後の別れを口にした。
「私がここにいたら、きっと母さんにも父さんにも迷惑をかけるから 。 私が大人になって結婚適齢期を迎えたら、今まで荒唐無稽な嘘で断ってきた 求婚もきっと断りにくくなる。今貴族たちが簡単に引き下がるのは、私が子供だからだもん。中にはほんとのロリコンもいるかもしれないけど……」
今朝押しかけてきたあの男は間違いなくその類いだろうだと、リファの目が一瞬遠くを見つめた。
「そのとき、 父さん母さんがかなわないような相手からの求婚があったら、私は好きでもない人に嫁がないといけない。それを阻止しようとして、ふたりはきっと必死になってくれるけど、貴族や王族に逆らった平民は恐ろしい目に遭うわ。だからそうならないために、今のうちに出ていくの。……ナーコはどうか、ふたりのそばにいてあげてね」
ナーコはもともと、母親の飼い猫だ。
リファが生まれる前から、ふたりと一緒にいてくれた猫なのだ。
『ふたりはとってもかなしむよ。わたしもとってもかなしいもの』
今のリファが動物の声を初めて聞いたのは、ナーコの声だった。
『はじめまして、あなたはわたしのいもうとよ――』
前前前世で、様々な動物たちに一方的に懐かれてはぶつかるように全力で愛情を向けられてきたリファだったが、こんなふうに穏やかで優しい動物の声を聞いたのは初めてだった。
おかげで、今のリファは動物たちの声を聞くことに恐れがない。
「ナーコ、私のお姉ちゃん」
そのやわらかくしなやかな体をぎゅっと抱きしめて、リファはひと粒の涙を流した。
美しく愛らしく生まれてしまったがゆえに「厄介事を避けても避けても避けきれない」と悟ったリファは逃げることを選んだ。自分が生まれた大きな街の小さな家を飛び出して、ひとりでひっそりと生きることを決めたのだ。
火炙り、流行り病、溺死、殺害、いけにえ――どの前世の自分の人生を顧みても、今回の人生が幸せなものになるとは思えない。そのとき、あの優しく愛にあふれる両親とナーコを巻き込まないとも限らないのだ。
リファは七回目のリファになってやっと、自分の人生を自分で決めることに貪欲になった。
ちなみに不思議なことに、リファの首には前世でいけにえとして差し出された際についた傷が、今も痣(あざ)となって残っている――けれどこの傷を見るたびに、なぜか恐ろしい記憶より大きな獣に抱きしめられたようなぬくもりだけが思い出されるのだった。
リファはいつものように学校に行く振りをして、笑顔で「いってきます」と言った。
両親はいつもの笑顔で手を振ってリファを見送ってくれた。すべての事情を書いた手紙は、母親の鏡台の引き出しにこっそりと忍ばせてある。いつ気づくだろう。どうか早いうちに気づいて、傷つかないでいてほしい。
見上げた空は美しかった。抜けるような青空と、まばゆく輝く白い雲だけは、リファが何度生まれ変わっても変わらなかった。
さあ今日から、リファの旅は始まったのである――。
* * *
「ああああああああ」
リファのまだ幼さの残る甲高い怒声が森に響きわたっていた。
ところどころ盛り上がった木の根につまずきそうになりながらも、整地されていない森の中を必死で走っていた。
ぜえぜえと息を切らしながら、ちらりとうしろを見る。リファのすぐうしろに、数頭の大きな狼(おおかみ)が迫ってきていた。〝りほ〟のときに見た動物園の夏毛のほっそい狼ではなく、その三倍はありそうなもふもふのふわふわの銀毛に覆われた狼である。
幼女であるリファでなくとも、大の男ですらひと噛みで仕留められるだろう体(たい)躯(く)の狼である。何度でも言う。狼だ。
「ああああああああ」
先ほどからもう声も枯れて果てていた。
なんで叫んでいるのかリファ本人にもわからなかった。一度叫んでみたらもう叫ばずにはいられなくなってしまったのである。だって狼だ。
走り慣れていない華(きゃ)奢(しゃ)な脚が悲鳴を上げている。しかしさすが貴族が誂(あつら)えた靴である。軽くて丈夫なのは間違いない。靴だけは申し分ないのだが、リファの脚は華奢すぎた。
ガクガクと膝が笑っている。力が抜ける。
もう、もう――。
「もうだめだあ!」
リファの大声が森中に響きわたった。
立ち止まって勢いよく振り向いたリファを見て、狼たちもきゅっとブレーキをかけて立ち止まる。
「わかった、私の負けだ。なでるから――待て!」
リファの降参の声と同時に、背後の狼がバッと高く跳んだ。
リファの足もとにすっと音もなく着地すると、そのまま頭を低くして額を突き出してきた。もっふもふの銀毛が、リファの目の前に差し出される。
リファはその場にへたり込むと、そのもふもふに手を伸ばした。小さいリファに合わせて、ひときわ大きな銀狼がさらに体勢を低くする。おそらくはこの群れのボスだろう。金色と緑の、珍しくも美しいオッドアイである。
リファの顔の三倍はありそうな大きな顔を両手で包み込んで、リファは意を決してわしゃわしゃとなでつけた。
(うっふ)
温かい空気をはらんだそれはふかふかでやわらかく、ずっと触っていたくなる。
リファは込み上げる笑みを我慢できず、にやにやと口許を緩めた。
野生だろうに、このふわふわさらさらとろとろ の毛はなんだ? けしからんではないか。
リファは〝りほ〟の頃かわいがっていた黒い子犬のことを思い出した。
(私が死んじゃって、あの子はどうしただろう)
どうか誰かに引き取られてかわいがられていたらいい、寂しい想いなどしないで、あの小さくぴょこんと弧を描いたしっぽを振り振りしてくれていたらいい。
『――追いかけっこはもうしまいか?』
リファになでられクルルと気持ちよさそうに喉を鳴らしながら、ボス狼がそんなことを言う。精悍な顔面に似合ったハスキーで落ち着いた声である。
リファはひくりと顔をゆがませて、投げやりにそのふわふわの毛を思いきりなでつけた。
「おしまいおしまい。私の脚が君たちの健脚にかなうと思ってるの?」
森に入ってしばらくしてから、彼らの縄張りに入ってしまったリファはずっと追いかけられていたのだ。とはいえ、彼らがリファを食べようとして追いかけてきていないのはすぐにわかった。追われながらも、彼らからは友好的な言葉しか投げられなかったからだ。
『いいにおいのする人間だ』
『かわいいなあ、なでてほしいなあ』
『ぺろぺろしたら遊んでくれるんじゃないか』
これは大変にまずいと感じた。
六回の人生を経て、この手の獣はよだれの量がえげつないことをリファは身をもって知っている。興奮に任せて彼らにべろべろ舐められたら、よだれでびしょびしょにされる。昼間は暖かいが、夜はぐっと冷えるこのあたりの気候を考えると、びしょ濡れにされるのは困る。あと純粋によだれは嫌だ。
そんなわけで逃げたのである。いざ逃げてみると、ぐんぐんと追ってくる彼らの気迫がどんどん怖くなって、止まれなくなってしまった。
「こんなに無駄な全力疾走ある?」
リファは順番に狼たちをなでながら、ぜえはあと息を整えた。
『本当に変わった人間だ。我々の言葉がわかるのか』
ボス狼が感心したように言う。
「好きでわかるわけじゃないけろ」
噛んだ。この幼い子供の姿は、滑舌がよくない。
『それにいいにおいもする。我々だけでなく、ほかの動物たちも引き寄せるだろう』
ボス狼はリファの髪の毛に鼻づらを突っ込んで、ふんふんと匂いを嗅いでいる。
「まあね」
そう言ってリファが頭上を見上げると、木漏れ日を漏らす大きな木の枝に無数の動物たちの目がうごめいていた。昼間じゃなければホラーである。うさぎやリス、猿のような動物と、大小さまざまな鳥たちがリファたちを見下ろしていた。
「君たちがいるから降りてこないけど、きっと私がひとりになったら我先になでろと降りてくると思うよ」
あれだけの数の動物たちをなでなくてはならないなど、考えただけでぞっとする。
『本当に変わった人間だなあ。そもそもお前くらいの年の子は親と共にいるものじゃないのか?』
この群れのなかでも若い狼が、無遠慮なことを言いながらすり寄ってきた。それをなでてやりながら、リファは渋るように口を開く。
「……家を出てきたの。私がいると、家族に迷惑がかかるから」
つい先ほどの話である。自分で決めたとはいえ、心が痛くなるのでやめてほしい。リファの言葉に、若い狼が心底不思議そうに首をかしげる。
『家族に迷惑をかけるからなんだってんだ? それを全部受け止めてやるのが家族だろ?』
『そうだよ、俺は兄ちゃんがもし大変なことになったら、どれだけ大変でも絶対に助けるよ』
なんてまっすぐな狼たちだ。さすが集団生活で家族を大切にする獣である。
リファが答えに詰まっていると、ボス狼が若いその狼に少し離れろと指示を出した。
すごすごと下がった若い狼の前に出てきたボス狼が、リファの目をじっと見つめる。
『うちの若いのがすまねえな』
そのハスキーな声と物言いのせいで、完全に極道映画の組長の貫禄である。
「気にしてないよ」
その大きな額をよしよしとなでると、くるくるとまた気持ちよさそうに喉を鳴らした。
『名はなんという?』
「リファよ」
『リファ、我々がいたずらに追ったせいで傷を負わせてしまったな』
突然かけられた言葉に、リファは咄嗟に「怪我なんかしてないわ」と答えようとして、服から出ている手の甲や脛(すね)に小さな擦り傷がいくつかあることに気づく。逃げることに夢中で、木々や枝に引っかけたりしたのだろう。
「これくらいなんともないわ」
『いや、嫁入り前の若い娘にそんな傷を負わせて詫びもできぬとは我々の名折れ。しばらくの間、お前の力になろう』
いちいち男前な狼である。ボス狼の言葉に、ほかの狼たちがざわりと色めき立った。
『そしたらいつでもなでてもらえるんじゃないか?』
『馬鹿野郎、ボスは詫びをするっていってんだぞ。俺らが喜んでどうする』
『そんなこと言って兄ちゃんこそよだれが垂れてるじゃないか!』
ボス狼の背後でざわめく彼らのだだもれの心の声に、リファは自分の手は神の手か?と乾いた笑いを吐き出した。
美しく誇り高い銀狼の鑑といった風情のボス狼は、静かにリファの返答を待っている。きっと断っても受け入れても、彼はリファを害することはないだろうと不思議と信じることができた。
リファはその金と緑の美しいオッドアイをじっと見つめ、やがて静かに口を開く。
「あなたに名前はあるの?」
『ハンスだ』
おっと、三度目の人生で亡くした優しい夫と同じ名前である。これもなにかの縁かもしれない。
「それならよろしくお願いするわ、ハンス。君たちが無理のない範囲で、私を助けてほちい」
また噛んだ。肝心なときに噛むこの小さく短い舌をどうにかしてやりたい。
リファの言葉に、群れの狼たちがわっと盛り上がり、木の上で狼たちが去るのを今か今かと待っていた小動物たちはがっくりと肩を落とした。
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