転生幼女はもふもふたちに愛されて最強でしゅ!
クロマユ様
見た目はでかい黒い毛玉である。
カールしたふわふわの黒い毛がこれでもかと密集した丸い体から、小さな手足としっぽが申し訳程度にぴょこんと飛び出している。とはいえ、宙にふよふよと浮いているのでその手足の必要性を問いたい。よく見ればピンと立った耳も毛の隙間から確認することができた。柴犬のそれに似た形だった。
何度でも言う。耳と手足がついたでかい毛玉である。
「クロマユ様でございます」
いや名前、誰がつけた?と突っ込みたいのを我慢して、リファはその黒くてリファの顔くらいの大きさの物体をじっと見つめた。
今は本体のオオガミ は深い眠りについているというが、このクロマユはそのオオガミの化身なのだという。いわばオオガミの省エネバージョンである。姿と能力は違えど、オオガミはクロマユであり、クロマユはオオガミなのだ。
クロマユはリファを見ると、ぴろぴろと短い尻尾を振って愛想を振りまいた。
笑った口から小さなベロが見えてはあはあと喜ぶ幻覚が見える。
「さすがリファさん。クロマユ様が初見でここまで懐くのは珍しいのですよ」
アルバが自分の見る目に狂いはなかったとうんうんと満足そうにうなずいている。
仮にも自分が仕えるべき神様に向かって〝懐く〟とは……失礼では。という疑問は、あのアルバの前では無駄なものである。
(なんだこれは。私はどうしたらいいんだ……)
突如紹介された謎の生物を前に、リファは自分のやるべきことを完全に見失った。
「……」
リファは無言で、隣に座るジニアスに意見を求めた。ジニアスはその視線に気づくと、妙にきれいな姿勢で腕を組んで見せる。深く深呼吸し、なにか助言をくれるかとリファが期待すると。
「ノーコメントだ」
関わらない気である。
リファはジニアスの脇腹に一撃を食らわせて、クロマユと向き合った。
ふわふわとした真ん丸の物体は、リファに見つめられるとたまらんと言わんばかりに空中で暴れ回った。待てと言われてごはんに食いつくのをひたすら我慢して、その場でバタバタと回ったり跳ねたりするわんこと一緒である。
その様子を、リファはじっと観察した。
数秒すると、毛玉はリファの視線にとうとう耐えられなくなったらしい。
ふるふるふると歓喜に震え、全力で飛んできてリファにしがみついた。
「いやめっちゃおひさまのにおいする」
顔面にしがみつかれながらリファが言う。まるで人懐こい犬そのものである。
クロマユはリファの首にある痣のにおいを必死に嗅いでふごふごといっていた。やはり犬である。
「クロマユ様はこのお姿ですでに百年の時を過ごしていらっしゃいます。神の使いであるクロマユ様がこの姿であるということは、オオガミ様もいまだ力を蓄えられずにいるということ」
燃費が悪すぎる神様である。
アルバの説明をよそに、クロマユにふがふがとすり寄られてリファは尻もちをついた。分厚い絨毯の上に腰かけたリファの膝の上で、クロマユがきゅーんと鳴いてくつろいでいる。
その毛玉をなでてやりながら、リファはアルバの話に耳を傾ける。
「百年前の大戦で、この国を守るために身を削ってまで魔法を使われたのでございます。他国から邪神だ暗黒のオオガミだなんだと恐れられていても、私たちにとってこの方は慕うべき守り神なのです」
アルバは長衣の裾が床につくことにも頓着せず、リファの前に膝をついた。美しい所作で伸ばされた手が、リファの膝でくつろぐクロマユをなでる。
「どこが顔?」
「おそらくこのあたりかと」
言われた場所は、ふたつの耳がぴこぴこと動くすぐ下あたりである。目と口はないが、顔はだいたいこのあたりなのだろう。
リファは眉間はこのあたりだろうとあたりをつけて、その部分を少し強めになでてやる。
ふわふわの毛がぶわっと逆立って、ぶるっと震えた。
逆立った毛はすぐにもとに戻り、ごろごろとあるのかないのかわからない喉が鳴っている。気持ちがいいらしい。
その様子を見て、アルバは心なしかほっとしたような微笑を浮かべた。
「ここずっと、誰にも心を開けず、クロマユ様は消耗していらっしゃいました」
クロマユはリファの膝でごろごろとくつろいでいる。
「あなたが来てくれてよかった」
表現するなら雪解けのような声で、アルバは心の底からそうこぼした。
* * *
胸の上に、熱いくらいの熱量を感じてリファは「あっづ」とうなって起き上がった。
起き上がったリファの胸から、どさっとなにかが転がる。見ると、分厚いブランケットの上に黒くて丸い物体が転がっていた。よく見ると、それは呼吸に合わせて上下にゆっくりと動いている。
「クロマユ、重い」
もごもごと眠気眼で、リファはそのもこもこの物体をわしっとなでた。
手のひらに感じる、ふかふかのシルクのような手触りが気持ちいい。
リファはしばらくその感触を味わいながら、カーテンの向こう側を眺めた。
メイドによって夜明けと共に開けられるベルベッドのカーテンではなく、レースのカーテンから差し込む朝日が若い。まだ朝も早い時間のようである。
(懐かしい夢見たな……)
りほのとき飼っていた、あの黒くて最高にかわいらしい〝ふわころ〟の夢である。夢の中で、りほは今のように眠りから覚めて、足もとの布団で眠るふわころに飛びついてすりすりしている夢だった。短毛だがつやつやでコシのある毛が気持ちよかった。場面が飛んで、アパートの近くにあった小さな神社に散歩に行った。そこの宮司さんが犬好きで、よくジャーキーをもらってはだらだらよだれを垂らしていたものである。
センチメンタルなジャーニーに支配されそうになって、リファはそれを振り払うようにベッドから下りた。転がされたクロマユはまだすやすやと眠っている。遠目から見ると、巨大な丸ナマコがベッドに転がっているように見えた。
リファが顔を洗っていると、高い声で「ピ」と一声聞こえた。
「ピー!」
まるで電流を放出する金色の獣のような声で、クロマユはリファの足もとにひしっと飛びついてきた。
「おあよう、クロマユ」
枝を削った歯ブラシで歯を軽く磨きながら、リファは足もとの丸ナマコ――いや、ふわふわの黒い獣を見下ろした。
クロマユと対面してから、今日で十日ほどが経つ。その間、クロマユはリファにべったりである。姿が見えなくなれば親鳥を捜すヒナのようにピーピーと鳴きながら捜し回り、見つけたらひしっとしがみついてしばらく離れない。リファもそれがかわいらしくて、思わず抱きしめてなでなでしてしまうのである。
一緒に過ごしていると、クロマユが素直で純粋ないい子だと伝わってくる。まるで聞き分けのいい子供のようで、こちらの言葉がわかる分、ダメと言われれば守るし、うれしいことがあれば喜びを表現して飛び回る。怒ることは滅多にないが、意外とよく泣く。
正直ヒナの親になった気分である。かわいい。
リファの視線を感じて、おそらく顔があるだろう部分がぱっと上を向いた。
「きゅ!」
(かわいく鳴きよる……)
芽目も口もないくせに、こちらの庇護欲をくすぐるような声を出すのは卑怯である。ただでさえ手触りがシルクで、あったかくて、ふかふかと魅惑の体つきをしているというのに。
「よーしよしよし」
ぎりぎり神ムツゴロウさん世代の リファは、そう言いながらクロマユの体をなでまくった。ここ数日で学んだが、少し力を込めてなでられるのがお気に入りのようである。さすがオオガミの化身というべきか、驚くほど体が丈夫なのだ。
先日など、双子王子にサッカーボールにされて悲鳴を上げていたが、その後はけろっとしていた。自分たちが崇拝するオオガミの化身をサッカーボールにするその神経も理解しがたいが、仮にも自分の信者にサッカーボールにされても文句ひとつないようなクロマユもたいがいである。
「「クロマユ―!」」
ばあんと乱暴に部屋のドアが開いた音がした。
寝巻のままのリファは慌てて分厚いガウンを羽織り、そっと洗面所から顔を出す。
「サッカーしようぜ!」
とろけるような金髪を風になびかせて、双子の王子トーマとソーマがそこに立っていた。そこらへんの近所のくそガキが叫ぶようなセリフがまさか、一国の王子の口から飛び出したものだとは誰も思うまい。
ふたりの姿を認めて、クロマユがぴいっと怯えたように鳴いてリファにしがみついた。先日、庭でさんざんサッカーボールにされたことがトラウマになっているらしい。
サッカーしようぜもなにも、こちらは朝食もまだである。
「ごはん食べてないから無理」
リファは王子に対して物怖じもせずそう言った。このふたりに気遣いやマナーなど不要だと、これもここ最近で学んだものだ。なにせこのふたりにマナーがない。
「リファは食べながら見てればいいだろ」
「今日こそは私たちのゴールデンキックボンバーを完成させてみせます」
いやもう、言うことが小学生のそれである。年齢的には高学年くらいか中学一年生くらいだというのに、この双子はずいぶんと子供っぽい。王族や貴族の子は早熟だと勝手な先入観があったからだろうが、このふたりの子供っぽさはまた別である。
「それに、クロマユをサッカーボールにするのはやめなさいって、この前アンガッサしゃんに言われたでしょ」
精神年齢はだいぶ年上なので、お姉さんぶって言ってみたがまた肝心なところで噛んでしまった。くそう。
「「小うるさいアンガッサシャンは今日お仕事だからいませーん」」
「アンガッサはいなくても俺はいるぞ」
双子の背後に現われたのはジニアスである。
ごつっと両拳で強烈なげんこつをふたりの頭にお見舞いしてから、優雅に部屋へと入ってきた。
「きたな、このアンガッサシャンの手下め」
「あなた、アンガッサシャンのもとで最近怪しい動きをしてるらしいですね」
いつまでもリファをいじってくる双子にクッションを投げつけて、リファはふんと鏡台の前に座った。そんなリファの絹のような髪を手櫛でといて、ジニアスは鏡台の上の麻ひもを手に取った。
実はリファの髪結い業務は、器用なジニアスのお気に入りなのである。
「お前ら、あんまりアンガッサシャンを困らせるなよ。最近、髪が薄くなってきたって気にしてたぞ」
まさかの敵は内にいた、である。
〝アンガッサシャン〟をいじり倒してきたジニアスを、鏡越しにギロッと睨みつけた。
「朝からそんな物騒な顔すんな。冗談だろ」
その冗談を、朝から晩まで引きずってリファを怒らせるのが最高に上手なのが、この男なのである。
ジニアスは笑いながらリファの髪を器用に結っていく。今日はポニーテールらしい。
「アンガッサさんのところで、なんの仕事をしてるの」
リファにはクロマユの世話という仕事が与えられたが、ジニアスにはなにもない。リファのふんどしで相撲を取って自分の無銭飲食をチャラにするわけにもいかないと、ジニアスは自分から仕事を探してきた。
それが、アンガッサの補助役である。
「いろいろだな。あのおっさん、神官職以外の仕事をなんもしねえアルバの代わりに色んな仕事こなしてるから、手はいくらあっても困らねえのさ」
そうなのだ。アルバはその神がかった容姿だけで生きているような男で、神官としての貫禄とお祈りの仕事以外はなんにもできない。体をひとりで洗ったこともないし、いつもまとっている美しい服だってひとりではどうやって着たらいいかわからないという、生粋のなんにもできない王族なのである。
さらに悪いのは、叔父馬鹿だということだ。自分が祀っているオオガミの化身であるクロマユがサッカーボールにされていようが、自分の甥っ子たちをなでなでして、「元気でよろしい」と見守るような男なのだ。
おかげで双子は大変無邪気で、向かうところ敵なしで好き勝手に振る舞っている――とはいえ、その地位や権力で他者を押さえつけようとしないところなどは、とっても素晴らしい教育を受けているといえる。それは立場や生まれに左右されることなく人と対面できるアルバの美徳をそのまま引き継いだようなものだ。
先ほど、ジニアスが王族に対して手を上げたというのに、不満はこぼせど引っ捕らえて牢にぶち込め、などとは決して言わないのがこの双子たちなのだった。
だからリファも、このふたりには対等に話すことができるのだ。
「おっ、かわいくなったな」
ただのポニーテールではなかったらしい。頭頂部から垂らされた髪は緩い三つ編みにされ、下のほうで光沢の美しいリボンで結ばれている。ふわふわと後れ毛が揺れて、動きやすいが大変女の子らしい髪形に仕上がっている。
ジニアスのような美しい男に褒められたことなどほとんどないリファは、こういうとき毎回照れる。
そして、頬を赤くしてぼそっと礼を言うリファの頭を、ジニアスは朗らかに笑ってなでてくれるのだ。
「かわいくなったじゃないか」
「その髪形ならリファもサッカーができるんじゃないか?」
この双子も、褒める時は素直である。間違ってもサッカーだけはしないが。
「お前ら今日は講師呼んでお勉強会だろうが。遊んでないでちゃんと朝食取れ」
「「それならリファの作るごはんがいい」」
出た。双子たちが最近厄介なのは、リファが作る料理に味を占めたことだ。
「この前作ってくれた、ゆで卵を砕いて油と卵黄とこしょうで作ったまろねーずで和えたサンドウィッチが食べたい」
「あのスライスしたパンにバターが塗ってあるやつか? あれは美味だったな」
ただのタマゴサンドである。
「おいおいお前ら、リファを朝から働かせるんじゃねえよ。俺はパリッとした皮にベーコンとシソとチーズがくるんであるやつがいい」
しかもそれにジニアスも乗っかるのである。自分の手料理が好評なのはありがたいが、クロマユと生活するようになってから、彼が食べられないものを彼の前で作ることに、ちょっとした罪悪感を感じるようになってしまったのだ。
「ううーん」
膝の上で丸くなっているクロマユをなでながら、リファは悩んだ。
「クロマユも一緒に食べれたらいいけどなあ」
両手を丸い体に回すと、ふかふかとやわらかい毛が顔をくすぐる。
「こいつの餌、まだわかんねえの?」
リファのつぶやきに、ジニアスが反応した。
「うん、クロマユがなにを食べて食いつないでいるか、まだわからないんだ」
クロマユ――ひいてはオオガミ様が力が弱まり眠りについているということは、エネルギーが足りないのではとリファは考えたのだ。だからおいしいものを食べれば、きっと元気になるのではないか、とアルバに提案した。ちょっと考え方が脳筋寄りなのはスルーしてほしい。人間、単純が一番なのだ。
しかし。
『難しいですねえ。オオガミ様は狼を糧とすると文献に残っていますけど、このクロマユが狼を食べるとは思えないので……』
なんなら、以前に一度野生の狼を捕えてクロマユに差し出したこともあるらしい。
クロマユはクンクンとにおいを嗅いだだけで、その後は興味を持たなかったそうだ。狼が入れられた檻だけが残ってしまったというわけである。
『化身とはいえ、そもそも姿形が違うのですから、糧にするものもオオガミ様とは違うのでは、といのが、私の見解ではあります』
とのことだった。
実際、クロマユはリファの食べる食事や、リファが作る料理を興味深そうに眺めてはいても、食べようとはしないのだ。
「クロマユの好物さえわかればなあ」
とはいえ、もし〝人間〟が好物だとしたら相容れないものがあるが。そうなるといきなりパニック映画が始まりそうである。黒いもこもこによる殺(さつ)戮(りく)――なんちゃって。
「こんなんでも神様なんだろ? 俺らがどれだけ考えても、答えがわかるとは思わねえけど」
ジニアスがリファの肩越しにクロマユをなでた。神様だというわりには、触ることに遠慮がない。この前なんて中庭のソファでクロマユを抱き枕にして爆睡していた。
ジニアスの雑ななで方に気づいたクロマユが、ジニアスを認めてぱっと彼に飛びついた。キューンである。リファが信頼しているジニアスのことも、クロマユはお気に入りだった。
きれいに結われた自分の髪をいじいじしながら、リファは部屋の天井を見上げた。
鏡越しに、ジニアスと双子と戯れているクロマユが見える。
神様というより、ゲームの途中で仲間になる気のいいモンスターという様子である。
「神様かぁ……」
リファの中の神様は、りほのときの〝日本の神様〟のイメージしかない。赤い鳥居に神社である。クロマユと鳥居が結びつかないところが、難しいところなのである。
(神様っていったら神社だよね? 初詣や厄払い……それから、)
髪をいじっていたリファの指が、ぴたりとやんだ。
「――神様か」
リファはもう一度繰り返した。
「朝食の後、アルバさんのところに行こうかな」
身の回りのことはできないが、オオガミ様とクロマユについてはプロであるアルバに聞きたいことができた。
「要するに、信仰心を糧にしているとしたら、国民や王族の参拝がクロマユの力に直結するんじゃないかなって。日本の……ではなくて、私の国の神様は、参拝や供物が減って社が廃れていくと、神様の力も弱まるっていわれてるんです。だから外からの参拝者を受け入れたり、国民にオオガミ様の石碑への参拝を開放することによって、クロマユにも力が戻って、オオガミ様も回復するんじゃないかな」
その現象が、クロマユにも起きているのではないか?とリファは仮定したのだ。
「なるほど……」
アルバはオオガミが眠る祭壇に、神様に供えるにはだいぶ質素な小さな花を飾りながら、考え込むように黙り込んだ。
いい考えだと思ったが、アルバの反応はいまいちである。
「少し前の話になりますが……」
アルバはクロマユにしがみつかれているリファを、東(あずま)屋(や)の椅子へとそっと誘導した。
そこには白い石で造られた祭壇があった。その奥にある石碑の下で、オオガミは眠っているのだという。
草木が乏しいこの祭壇の周りは、茶色い土がむき出しになっている。オオガミの魔法は、アルフレート周辺の森だけでなく、この国自体の緑も奪ってしまったのだ。
先ほど、石碑の前の祭壇に供えていた小さな花も、あれをオオガミが好むからではない。
あのサイズの野花しか育たないため、あれしか供えることができないのだ。
「オオガミ様への参拝は二十年ほど前から禁止されています。それまでは、自国の民も他国の者も参拝者を自由に受け入れ、許された時間帯ならいつでも参拝ができるようになっていたのですよ」
アルバが困ったように笑う。「それなら」と、前のめりになったリファを遮って、アルバは続けた。
「ですが、その参拝者のなかにオオガミ様を忌避する者が紛れ込み、参拝者を切りつけるという騒動が起きたのです。オオガミ様の目の前で、自国の民の命が犠牲になってしまいました……」
アルバの話を一緒に聞いていたクロマユが、ピーっと泣きだした。このときのことを覚えているのか、ふるふると震えて、ひくひく泣きじゃくっている。
「クロマユ……」
そんなクロマユを慰めながら、リファは困り果てた。
これで一歩前進するのではないかと期待した心が、どんどんしぼんでいく。落ち込んだ気持ちのままアルバのもとを離れ、リファはオオガミの祭壇の前に座り込んだ。祭壇の奥にあるとはいえ、手を伸ばせばすぐにオオガミの眠る石碑に手が届きそうな距離である。
土の匂いが鼻をくすぐる――ハンスたちのことを思い出した。
(元気にしてるかなあ。遠吠えで安全は伝え合ってるけど、荒野は身を隠す場所がないから、きっと一日の大半を森で生活してるよね)
ハンスやクレア、コマにライムギ、ドミニクのことを思い出し、リファははああと深くため息をついた。ここでの生活は近代的で快適だが、家族のような彼らとの生活は心穏やかで、温かだった。
(父さんも母さんも、元気だろうか)
正確な日数を数えていないが、家を黙って出て数か月は経とうとしている。化粧台の引き出しに入れてきた手紙を、ふたりは読んでくれただろうか――。
目の奥がツーンとした。
「ピイ……ピイ……」
クロマユは、リファにしがみついたままずっと泣いている。
「クロマユ、あのね」
リファは、自分も図らずもほかの人を傷つけてしまったことが過去にあったのだとクロマユに話して聞かせた。七度の人生を渡っていれば、自分の言葉で傷つけたこともあれば、この動物に好かれる体質ゆえに怪我をさせてしまったこともある。
あれは何度目だったか、サイのような巨体を持つ牛たちがリファを求め暴走し、いくつかの村や町で怪我人を出してしまったことがある。今代はこの見た目で多くの男性から求婚されたせいで、 親元から逃げるように出てきてしまった。この見た目で得することもあれば、損することもある。
「自分のせいで誰かが傷つくのって、ちんどいね」
ぎゅうとクロマユを抱きしめる。もしかしたらオオガミは、後悔しているのだろうか。国を守るために強力な魔法を使って、自国とその周辺の土を枯れさせてしまったことを。必要なことだっとはいえ、百年経った今も、ずっとそのことを悔やんでいるのだろうか。
「ピイ」
リファもつられて泣きだしてしまうと、クロマユは慌てたように顔を上げた。
「ごめん」
ぽろぽろと流れる涙を止めることができないまま、リファはクロマユのふわふわの毛に顔を埋めた。やわらかな毛に、涙が吸収されてどこかへ消えていく。
「ピイイ」
クロマユがもぞもぞと腕の中で暴れた。
(なんだよぉ、もうちょっと泣かせてくれよぉ)
何度生まれ変わっても、心というものは厄介である。
「ピイ」
リファの拘束を振り払って、クロマユはぱっと腕から飛び出した。
リファは美しい青い瞳を真っ赤にして、驚きの表情でクロマユを見ている。
「ピィ」
表情もないのに、リファのことを心配しているのが手に取るようにわかるようである。小さな前脚がめいっぱい伸ばされ、リファの首にぎゅっと温かなぬくもりがくっついた。
それを抱きしめ返して、リファはもうひと筋だけ、温かい涙を流した。
「ありがと、クロマユ」
震える声でそう言ったリファの赤くなった鼻のてっぺんに、ふかりとなにかが触れた。視界がすべて黒一色である。
「ふが」
くすぐったいふわふわの感触が、リファの額にキスしていた。
ぽんっと温かな風がリファを取り巻き、周囲に小さな白い花がたくさん舞う。
「?」
青空にその白い花が映えて、まるで神の祝福のようだった。
ぼけていたリファだったが、やがて乱れた髪をそのままに、泣いた顔でクロマユに笑いかけた。
「お前のお口はそこにあったのか」
ぱっと離して見てみたが、やはりピンと立った耳と耳の間にあるらしいと予想できるだけで、口らしい口は見えない。
「ありがとう、クロマユ」
まるで魔法でも使われた気分である。体の芯が温かい。冬の外にいるというのに、ぽかぽかとして春の陽気に包まれているようである。
リファの心からのお礼に、クロマユは満足そうに「ピ!」と鳴いた。
「そろそろお昼だね、行こう、クロマユ」
そう言って立ち上がったリファの足もとには、芽吹いたばかりの美しい葉が顔を覗かせていた。