【完】片手間にキスをしないで
定量化するなら間違いなく、1gにも満たない些細な出来事。しかしそれは、拳を振るうたびにいつも、心の内側を痛いくらいに引っ張った。
夏杏耶の笑顔が、すべて。
「冬原くん、そろそろ火止めよっか」
「……はい」
……何を殊勝に浸ってんだよ。
百田の手がガスコンロのつまみを回す。製菓の腕は確かだが、この先生が纏うコロンの香りは苦手だった。
「あ。ほら、生地も焼き上がったみたい。表面削るときは慎重にね」
もちろん、私もサポ―トするけど───
鍋にバターを加えながら、耳元で囁かれる声。触れ慣れている夏杏耶の声とは、伝う意図が違う。
「先生。近いっす」
「ふふっ、ごめんね。悪気はないんだけど」
悪気はないけど、あわよくば女として見て欲しい。……とでも解釈しなければ、この距離感には説明がつかない。
非常勤だからか、生徒へも色目を使うことに躊躇がないと言ったところか。