【完】片手間にキスをしないで


それに……何も、できなかった。


「奈央クンが、もう喧嘩をしなくてもいいように。怪我を、しないように」

「え……?」

「何かあったときは、私が守るって……でも、動かなかった」


鮎世のように、後ろから口を覆われる気配に気づくことも。間合いに立ち入ることも。


いくら試合で培ったって、なんの意味もない。


「こんなんじゃ、全然……本当に何かあったとき、何も……」


何も出来ない。何も、出来ないじゃん。


そう続けようとした言葉は、喉に詰まって声にならない。


「あれ、」


涙が零れたことを悟ったのは、そのときで。


「奈央じゃなくて、ごめんね」

「へ……」


優しく、でも力強く。気が付けば、鮎世に抱き寄せられていた。


爽やかな柑橘系の香りが、身体へじわり沁み込むように。彼の体温が伝染してくる。


密着する心音に目を丸くしながら、腰と頭に回される骨ばった手に、不覚にも胸を締め付けた。

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