【完】片手間にキスをしないで
心の内で付け加えながら、名残惜しくも視線を落とす。いくらなんでも今日は無しだろ、と再び呼吸を響かせた。
「あのね……奈央クン」
「……ん?」
優秀な理性を称えながら、隣へ戻っていく夏杏耶を捉える。
彼女は体育座りの膝に顔を埋めながら、消え入りそうな声で言った。
「私、もう平気だよ」
「……?」
「奈央クンと離れて暮らすの……ちゃんと、受け入れられる」
そして、かすかに目を細めた。
「ほら……ふつうは、離れて暮らすのが当たり前だし……高校生だもん」
「……ああ」
「それにね。奈央クンの声を聴けただけで、すごく幸せだったの」
言いながら、夏杏耶は溜めていた涙を零す。
あの薄暗い部屋の中で。16歳の女子ひとり、一体どれほど恐怖を感じていたのか。見知らぬ男に囲まれ、狂気に晒され、どれほど震えていたのか。
その涙は、空白の時間を示しているようで。強く、胸の奥を締め付けた。