赤色の雨が降る頃に
 ひとり暮らしにはもういい加減慣れた。かれこれ30年やってるんだから当たり前か。
 「お帰りなさい、アレンくん」
 大家さんの声がした。アパートの前の花壇に水をやっているところだった。
 「あ、どうも」
 大家さんへの挨拶も日課だ。この家に住み始めて3年になる。大家さんは、未だに僕のことを大学生だと信じ切っている。僕は遺伝子上、身体機能が10年で1歳老けるのだ。だから、僕の年齢は200歳だが、見た目は20歳だ。僕は1000年近く生きることになり、人生はあと800年も残っている。嫌になる前に死にたいものだ。
 「そういえばこの間、アレンくん、可愛らしい女の子と話してたじゃない。そろそろモテ期ってやつじゃないの?」
 「やめてくださいよ」
 「ごめんなさいね」
 大家さんは笑いながら言った。
 この年齢層の男にモテ期が来るなら、僕の場合少なくともあと50年はモテ期が続くってわけか。嫌になるよそんなの。それに第一、あの娘は落とし物を渡してくれただけで、連絡先も名前も知らない。大家さんったらひどい話だ。
 「それじゃ、またね」
 「失礼します」
 
 
 僕は階段を登り、3階にある自室の扉を開けた。それから、テレビの真ん前にあるソファに腰を下ろす。
 ハンバーガーなんて久々だ。ニンニクを抜いてもらえたから幸いだ。料理が面倒なときはこれに限るな。
 僕は静寂を埋めるように、テレビの電源をつけた。夕飯時なのもあり、画面の中ではアナウンサーがニュースを読んでいた。
 「ニューヨーク市内で、若者が失踪する事件が連続して発生しています。現在のところ、失踪した若者に共通点は見つかっていません。市警は情報提供を求めています。目撃情報その他は下記の番号までお寄せください」
 物騒だな。僕も気をつけないと。
 その時、僕の携帯がけたたましい音を響かせた。何だか、嫌な寒さがする。画面を見ると、クリスからの電話だった。
 「もしもし?何の用だ」
 「ニュース、見たか?!」
 「何の」
 「若者が消えてるってニュースだよ!」
 「ああ、今ちょうど知ったとこだけど」
 「あれ、フランクの仕業らしいぜ」
 「フランク?フランクってあのヤンキーの?」
 「そうそう!人間の血が欲しすぎてコントロールが利かなくなったんだってよ」
 「誰から聞いた?」
 「フランク本人だよ。人を数人殺しちまった、どうすりゃいいんだって」
 その瞬間、心臓が誰かに掴まれたように縮んだのを感じた。
 「…そうか。くれぐれも捕まらないようにしろと言ってくれ。捕まれば、フランクだけじゃなく、この世界の吸血鬼全員が消されてしまう。お前も、早いうちに街を出るんだ。いいね?」
 「お、おう!お前も気をつけろよ!だけどさ、その人間の死体、フランクどうする気なんだろ」
 「どうしようもないよ。足がつく前に逃げなきゃ。永久に証拠は消えない」
 「…だよな。下手にフランクと関わらない方がいいかもな。死にそうになってたら別だけど。それじゃ、アレン、無事を祈るよ。じゃあな」
 「じゃあな」
 嘘だろ。僕たちの世代の吸血鬼のほとんどは人を殺さないはずなのに。そんな気など起きない奴らばかりなのに。フランクも、そうだったはずなのに。
 もし、もしも、警察の奴らが、俺たちの種族のやったことだと突き止めたら…。銀の鎖で首を絞められるだろうか。それとも、十字架に囲まれた独房で放っておかれるのだろうか。あるいは、ニンニクの入った樽に入れられるのだろうか。
 どのみち、良い未来は待っていない。僕はすぐに決心した。
 「…この街を出よう」
 


 僕はその夜、逃亡に使えそうな物を旅行用の大きなバッグに詰めた。数日分の着替え、鉄分の錠剤、ノートパソコン、キャンプ用の調理器具、ランプ、電子機器の充電器…。あとは、痕跡を消すために、身分を表す書類やカードも。
 一通り確認すると、僕は部屋を飛び出した。車に飛び乗り、屠殺場へと走らせる。街を歩く人々の視線が、言いようのない恐怖心を生む。逃げるんだ。逃げなければ。誰もいないところへ。誰の目にもつかないところへ。
 屠殺場に着くと、裏の入り口から入り、ゴミ箱に乱雑に詰め込まれた、廃棄されるはずの家畜の内臓をビニール袋に入るだけ詰めた。手は血に濡れ、生臭さが鼻をつく。だけど、そんなこと気にしていられない。…これだけの量を一気に吸えば、ひと月は保つだろう。
 僕は袋をトランクに乗せ、車のエンジンをかけた。…とりあえずは、ニューヨークから出よう。市警の目を逃れるのが最優先だ。
 

 しばらくすると、僕の携帯が鳴った。見ると、またクリスからだ。僕はスピーカーボタンを押して、もしもし、と応答した。
 「アレン、今どこだ?」
 「もうじき車でニューヨークを出るところだよ。お前は?」
 「今空港だ。今夜の便がたまたま空いててさ。とりあえず知り合いがいるからロシアに逃げる。困ったら連絡してくれよ」
 「そうか、出られるんだな。よかった。達者でいてくれよ」
 「ああ。お前も気をつけて」
 「ありがとう」
 ぷつり、と音が途切れる。
 それと同時に、信号の色が変わった。誰もいない郊外の交差点。信号を無視しようかとも思ったが、そんなことをして警察に目をつけられるのはごめんだ。僕は素直にブレーキを踏んだ。
 荒くなった息を整えるべく、一度目を瞑る。
 …大丈夫だ。僕なら生き延びられる。第一、僕が人を殺したんじゃない。警察の手が伸びてくるのもずっと先だろう。大丈夫、大丈夫。
 コン、コン。
 突然、窓ガラスをノックする音が聞こえた。驚いて身震いして、僕は特に何も考えることなく窓を開けた。
 「なあ、青だよ…うぇっ!くっせ!何だよ、死体でも積んでんの?」 
 わざとらしい嗚咽と半分嘲笑うような口調。僕はムッとしそうな気持ちを堪えて、外の人物を見た。
 窓の外には、金髪の、青い瞳をした細身の少年がいた。肌寒いというのに、薄汚れたよれよれのTシャツに、古びたジーンズを着ている。
 「青だっての!行かねえの?」
 まるで少女のような出立ちに似合わない言葉を吐き捨て、彼はしっしっ、と手を振った。
 「あ、ありがとう」
 なぜだろう。無性に気になる。あの少年のことが。あの瞳に、何かを隠している気がする。透き通っているけれど、暗い色を兼ね備えている、そんな感じだ。
 僕は、信号を越えた先の空き地に車を停め、先程の少年の後ろ姿を追った。
 「な、なあ!君!」
 少年は、僕の方を振り向いた。
 「何だよ?お前、さっきのぼーっとしてた奴じゃねえか。俺に用か?」
 「…大丈夫か?僕、君に、何か不思議なものを感じたんだ。その瞳を見た瞬間に。何か辛いんなら、話を、聞かせてくれないか?」
 少年は半開きの目で僕を見つめ、小さく舌打ちをした。
 「何だよ、気持ちわりーな」
 灯りの消えたタバコ屋の暗闇と、街灯に照らされた艶の良い金髪。この200年で見たことのない美しさだった。でも、そこには何とも言えない切なさがあって…。
 「無理に話せとは言わない。もしこれが僕の思い違いなら、そう言ってくれ」
 少年は何も言わず、相変わらずの目つきでこちらを見つめていた。
 「…答えて、くれよ…」
 すると彼は、タバコに火をつけて、口に運んだ。それから、勢いよく煙を吐き出した。
 「ふっ。奇遇だな。俺も分かるよ」
 「え?」
 突然の言葉に、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
 「お前には、心を開いても良い。なんか、そんな気がする」
 「いいのか?僕なんかが踏み込んで」
 「は?お前の方から申し込んできたんだろうが。矛盾がすぎるぜ」
 少年は再びタバコを口に運ぶと、深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
 「お前の車で、話を聞いてくれないか?」
 「何で僕の車なんかで」
 「そんな嫌そうな顔すんなよ」
 「…だって、君だって嫌だろ、あんな生臭いの」
 僕がそう言うと、彼はまだ二口しか吸っていないタバコを地面に投げ捨て、サンダルを履いた足でぐりぐりと踏みつけて火を消した。
 「いや、別に。寒いし、それに実を言うとさ、あの匂い、なんか落ち着くんだよ」
 「そう、なのか?」
 もしや、この少年は、僕と同じ…。いや、そんなわけがない。僕は心の中で自分に言い聞かせた。
 彼は僕のハッとした表情を見るや否や、顔の前で手を振って慌てた。
 「別に、変な意味じゃない。おっちゃんがやってた豚の内臓料理屋の匂いなんだ。準備中の時のね。…もう死んだけど」
 そこまで言うと、少年は下を向いて、黙り込んでしまった。
 「え、それ…」
 「何でもないよ。早く乗せてくれって。いいだろ?」
 「え、あ、い、いいよ」
 なぜだ。なぜなんだ。
 大体の人間は、顔色が悪くて人間離れしているからって、初めは僕を拒絶する。どれだけこちらが愛想良くしていても、初めのうちは嫌う。しばらく話せば、仲良くなれないこともないけどね。
 だけど、彼は違う。初めから、僕を受け入れた。本能的になのか、からかっているのかは分からない。ともかく、これまでにない経験なのは確かだ。
 「おい、何ぼーっとしてんだよ。寝不足か?早く連れてけよ!」
 「え、あ、ごめん」
 なぜ、彼はこんなに僕に懐くんだ。僕を頼るんだ。何が目的なんだ?僕から何かを奪うために、良い顔をしているだけなのか?
 暗い道を歩く間、彼はぴったりと僕の後をついてきた。そして、助手席の扉を開けてやると、素直に乗り込んだ。
 「何で動物の内臓なんか積んでんの?」
 開口一番、彼はそう言った。
 「…何で分かるんだ?君、さっき死体だって」
 「言ったろ?嗅ぎ慣れてんだよ。なんかに使うわけ?」
 僕は、何と答えて良いものか分からず、下を向いた。別に僕の正体を言ったって、彼が誰かに告げ口するなんて思わない。しかし、念には念を。
 「言えないことなの?…なら干渉はしないけどさ」
 彼は、思ったよりすぐに引き下がった。そして、タバコを吸ってもいいか、と僕に尋ねた。
 「さっき吸ってたじゃないか」
 「いいや、あれは普通のだけど、今度のは違う。特別なんだ」
 窓を開けながら、彼ははにかんで笑った。子供の笑顔だったが、同時に、何かを見透かしているような笑顔でもあった。
 「…特別?」
 「特別って言っても、そんなに貴重ってわけじゃないけどね。あんまりこじらせると死んじまうから、たまにしか吸わないだけ」
 「し、死ぬ?君、そんなに危険なものを」
 「大丈夫だ。まだ廃人にはなってねーし。それよりさ、君って呼ぶのやめろよ。なんか性に合わない」
 「じゃあ、何て呼べば」
 「俺はレイ。苗字は忘れちまった」
 「レ、レイ、か。いい名前だね」
 苗字を忘れた…?腑に落ちない一言に戸惑いながら、僕は答えた。
 「何だよ、お前口下手か?てかさ、人を呼び止めておいて名乗らないなんて、マナー違反じゃねえの?」
 レイは、呆然とする僕の顔に、ふっと得体の知れない煙を吹きかけた。
 「げほっ、ゔ、ゔえ、ごほっ」
 鼻から吸い込んでしまい、妙に甘い匂いがして、そして、経験したことのない喉への刺激にむせこんでしまった。
 「弱いな、背高のっぽのくせに」
 「やめ、ろっ…って」
 「で、名前は?」
 なぜだ。彼の流れに切り替わってる。こんなに弱々しくて、儚げな姿をしているのに。
 「ぼ、僕はアレンだ。アレン・ブラックストンだ」
 「ふーん。なんか、魔法使いみたいな名前だな。黒魔法使ってそう」
 こちらを見つめる彼の瞳は、まるで焦点が合っているようには見えなかった。
 「か、からかうのはやめてくれ!親からもらった名前なんだ。君、レイと同じように」
 「俺のこと、なーんにも知らねーじゃん」
 彼は、歪んだ、ひきつった笑顔をこちらに向けていた。
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