キティーからのものがたり
キティーからのものがたり
わたしの名前は、キティー。
誰かに使ってもらうために生まれた日記帳です。
生まれてすぐに、わたしは他の商品たちといっしょに、お店に並べられました。お店のショーウィンドウからは、美しい街の風景を眺めることが出来ました。
人々は、ときどきショーウィンドウを見つめたりもしましたが、わたしはなかなか買ってもらうことが出来ずに、いつの日か誰かに使ってもらうことを夢見ていました。
そんな中、ひとりの女の子が、わたしの方をじっと見つめました。とても大きくて綺麗な目でした。
わたしは、この子に買ってもらうことが出来るかもしれないと期待しました。
しかし、その女の子はそのまま帰っていってしまいました。
それからしばらく、誰もショーウィンドウの前で立ち止まることもしなくなっていました。
わたしは、誰にも使われないまま捨てられるのだろうかと思いはじめていました。
隣に並んでいた本も、売れないからという理由で、お店の奥に仕舞われることになってしまい、わたしは不安に駆られていました。
そんなある日のこと、わたしは店員さんの手に取られ、ショーウィンドウから出されてしまいました。
きっと奥に連れて行かれるか、捨てられてしまうのだろうと思いました。
ところが、わたしは、あるひとりの男の人の前に差し出されました。
こちらの商品でお間違いないでしょうかと店員さんが尋ねると、男の人はにっこり微笑んで頷きました。
―はい、こちらをいただけますか?
こうして、わたしはその男の人に買ってもらうことが出来ました。
しかし、わたしは少し心配なことがありました。わたしはどちらかというと女の子が好きなようにデザインされているので、本当にこの男の人は気に入ってくれているのだろうか、と。
しかし、心配は無用でした。
男の人は、自分のために、わたしを買ったわけではなかったのです。
「アンネが欲しがっていた日記帳を買ってきたよ」
家に帰った男の人が言うと、ふたりの女の人が、「まあ!」と声を上げました。ふたりは、男の人の奥さんと娘でした。
「とっても可愛い日記帳ね!」
娘が言うと、その隣で奥さんも言いました。
「この日記帳なら、アンネも気に入ってくれるでしょうね」
わたしは、袋の中から出され、リボンだけを巻かれた状態でテーブルの上に置かれました。
きっと、わたしはアンネという女の子にプレゼントされるのだろうと思いました。
アンネは、どんな子なのでしょう。喜んでくれるでしょうか…
わたしは、いろいろなことを考えていました。
そして、ついにその時がやってきました。
わたしは、そのアンネという女の子のお誕生日プレゼントとして贈られました。
その時、わたしは、初めてアンネという女の子を見ました。
見た瞬間、わたしは驚きました。
アンネとは、あのショーウィンドウの向こう側からこちらを見ていた、綺麗な目の女の子だったのです。
わたしを買ってくれた男の人は、このアンネという女の子のお父さんでした。
「わあ…!この日記帳、ずっと欲しかったの!ありがとう、パパ、ママ、お姉ちゃん!」
アンネが言うと、家族のみんなは笑顔で彼女のお誕生日を祝福しました。
「お誕生日おめでとう、アンネ!」
アンネは、他にもたくさんのお誕生日プレゼントをもらいましたが、その中でも一番にわたしのことを気に入ってくれたようでした。
わたしはそのことが嬉しくてたまらず、新しい持ち主をじっと見つめました。
美しい黒髪に大きな緑色の瞳をした、やせっぽちの可愛らしい女の子…それが、アンネでした。
「こんにちは、わたしの日記さん!
前から、ずっとあなたのことが気になっていたの。だから、あなたがお誕生日プレゼントとしてやってきてくれて、とっても嬉しい!
今日から、わたしがあなたの持ち主よ。アンネっていうの。よろしくね!」
光り輝くような笑顔でそう挨拶をしてくれた後、アンネは、さっそくわたしに書きはじめました。
『あなたになら、これまで誰にも打ち明けられなかったことを何もかもお話しできそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね』
喜んで、と呟いてみましたが、もちろんアンネには聞こえませんでした。
それでも、わたしは嬉しくて仕方がありませんでした。
こんな素敵な女の子と、これからいろいろなことをお話し出来るなんて、夢のようだったのです。
ここから、アンネとわたしのものがたりは始まったのでした。
アンネは、たくさんのことをわたしに書いて教えてくれました。自分のこと、家族のこと、友達のこと、学校のこと、そして…
自分たちユダヤ人が受けているひどいことを。
アンネは明るく元気でおしゃべりな女の子でしたが、本当はたくさんの辛いことを経験していました。毎日、差別を受けながら生活を送っていたのです。
それは、アンネとその家族がユダヤ人という民族だからでした。
たったそれだけの理由で、辛い目に遭わなければなりませんでした。
わたしは、ときどきアンネの胸に付いている黄色い星印を不思議に思って見ていました。
初めは、それがユダヤ人ということを示す目印だなんて、知りませんでした。
アンネはなんて可哀想な子なのだろう、わたしはそう思いました。
まだ子どもなのに、自由に生きることが許されないなんて…わたしが見ていた美しい街は、本当はそうではなかったのでした。
本当は、大勢の人たちが辛い目に遭っている、戦争中の世界の一つでしかなかったのです。
しかし、アンネはその世界を生きている人だとは思えないほど明るく、前向きでした。
「わたしのお話をいろいろと聞いてくれて、ありがとう。あなたは、わたしのたったひとりのお友達だわ。あなたに名前を付けたいと思うの―キティーでもいいかしら?」
その瞬間から、わたしはキティーになりました。
お友達がたくさんいるアンネでしたが、本当のことを語り合うことが出来る相手は、わたしだけのようでした。それは、本当に嬉しいことでした。
わたしにとっても、アンネは、たったひとりのお友達だったのです。
アンネは、明るく活発で、おしゃべりで、少し口が過ぎるところもありましたが、まっすぐな心を持った女の子でした。
わたしは、そんな女の子が持ち主になってくれて良かったと思っていました。
しかし、そんな中、アンネの人生を大きく変える出来事が起こったのです。
わたしは、アンネの様子がいつもと違うことに気が付きました。いつもの笑顔はなく、大きな目からは涙が流れていました。
「キティー。今からわたしたち、この家を出て行かなきゃいけないの。
隠れ家に移らなくちゃいけなくて…あなたも、もちろん一緒に連れていくわ。だから安心して」
アンネの目には、衝撃と混乱の色が浮かんでいました。
なんとかこの子を慰めてあげたい、そう思いましたが、どうすることも出来ず、いつの間にかわたしはカバンの中に詰め込まれていました。
そして、わたしは連れていかれました―隠れ家へ。
揺れるカバンの中で、わたしはずっとアンネと家族のみんなのことを心配していましたが、間もなく、アンネの元気な顔が飛び出してきました。もう、涙を流してはいませんでした。
「キティー、これからはこの隠れ家で生活しなきゃいけないのよ。ここにいれば、きっと大丈夫!」
アンネと家族は、命までもが危険な状況でした。それで、とうとう隠れ家で暮らさなければいけなかったのでした。
その日から、アンネは友達と会うことも、学校へ行くことも出来なくなりました。
そんな普通の暮らしも、ユダヤ人のアンネには許されなかったのです。
それでも―
「ここは理想の隠れ家よ!」
アンネは元気を失っていませんでした。
アンネは強い子だ、とわたしは思いました。
きっと、この子は何があっても負けない。
出来る限り、わたしはこの子の支えになれるようにしよう、そう誓った瞬間でした。
隠れ家での生活は、想像を絶するほど辛いものでした。
外に一歩も出られないというだけでなく、
隠れているということが外に見つからないようにするために、
物音ひとつ出さず、声を押し殺して生活しなければいけませんでした。
おしゃべりが大好きで活発なアンネにとって、それは最も辛いことだったはずです。
さらに、食料や衣類もほとんど手に入らないようなことがあり、腐りかけの同じ野菜を食べなければいけないどころか、空腹に耐えなければいけないこともありました。
アンネは、よくカーテンの隙間から外をのぞいては、広い青空や飛んでいる鳥たちに憧れていました。
外へ出て、地面を歩きたい、遊びたい、友達とおしゃべりしたい…無数の望みを抱いていました。
その数えきれないほどの希望は、本来ならばごく普通のことでしたが、隠れ家生活を送るアンネにとっては特別なことだったのです。
「わたしの心の支えになってくれて、本当にありがとう。キティー」
異常な環境の中にあっても、アンネは明るさと感謝を忘れてはいませんでした。
それは、きっと、信じていたからでした。
いつの日か解放の時がきて、自由を取り戻せる日がやってくる。
ユダヤ人たちも、ひとりひとりの人間として生きられる時代がやってくる。
きっと、こんな苦しい日々はもうすぐ終わる。
隠れ家生活の中で、アンネは心も体も成長していきました。
隠れ家の中で二度のお誕生日を迎え、十五歳という年になり、すっかり大人に近づいていたのです。
それまで、いろいろな物事とぶつかり、怒ったり、悲しんだりもしてきましたが、最後には立ち上がることが出来ました。
何より、アンネには大きな希望と夢があったからでした。
「キティー、わたしね、夢があるの。
平和な生活を送ること、そして、将来、作家になるということよ。
戦争が終わって自由になったら、あなたに伝えてきたこと―この日記を出版したいと思っているわ」
アンネの表情は、幸せそうでした。
大きな瞳は、よりいっそう輝いて見えました。
きっと、目の前に夢の光景が浮かんでいたのでしょう。
わたしも、自分がアンネの夢を叶えることへの第一歩になれることを夢見て、明るい気持ちでいました。
戦争が終わったら、自由になったら―――。
しかし、その希望と夢は、突然、奪われてしまいました。
隠れ家が、発見されてしまったのです。
アンネたち隠れていた人たちは、全員逮捕されてしまいました。
ユダヤ人なのに、命令通りに出頭しなかったからです。
騒がしい物音がしたのと同時に、誰にも見られないように大切に仕舞われていたわたしは、床の上に乱暴に捨てられました。
何も出来ずに床に横たわったまま、わたしはアンネたちの方を見ました。
銃を向けられ、両手を上げるアンネが、わたしの方をじっと見つめました。その目には、微かに涙が浮かんでいるようにも見えましたが、すぐにアンネは他の人々と共にどこかへ連れていかれてしまいました。
―――アンネ、アンネ!
必死になって叫びましたが、その声は誰にも聞こえることはありませんでした。
わたしは、しばらくの間、冷たい床の上に散らばったままでした。
ですが、間もなく、ひとりの女の人が、わたしを拾ってくれました。その女の人は、アンネたちの隠れ家生活を支援していた人でした。
「アンネが戻ってきたら、必ず返さなくちゃ…」
涙を流しながらそう呟くと、その女の人はわたしを引き出しの中に入れ、鍵をかけました。
わたしは、ずっと叫んでいました。
アンネ、アンネ…!
アンネ!
しかし、どんなに叫んでも、アンネがひょっこり顔を出してくれることはありませんでした。
わたしは、アンネのことが心配で仕方がありませんでした。
一体、これから、どうなってしまうのでしょう?
アンネは、まだわたしに話したいことがあったのではないでしょうか。
まだ、語り切れていない夢や希望があったはずでした。
不安でどうにかなりそうでした。しかし、わたしには待つという手段しかありませんでした。
わたしは、ただアンネの帰りを待ちました。
アンネがわたしを取り戻しに来てくれる日を、待ち焦がれていました。
戦争が終わったら、日記を出版する…作家になる…
アンネはきっと、夢のために帰ってくるに違いありませんでした。
あんなに明るくて強い女の子が負けるはずはない、わたしはそう信じていました。
しかし、
何日経っても、
何週間経っても、
何カ月経っても、
アンネたちは帰ってはきませんでした。
それでも、わたしはアンネのように希望を失いませんでした。
アンネは、きっと帰ってくる。必ず、帰ってくる。
それからさらにしばらくの時間が経ち、
わたしは引き出しの中に入ったまま、アンネが帰ってくるという希望を持ち続けていました。
そんなある日のことでした。引き出しが開かれ、わたしは飛び上がりました。
――――アンネ……!
しかし、引き出しを開けたのは、アンネではありませんでした。
床の上から拾い上げてくれた、あの女の人が、わたしを手に持ちました。
その手は震えていて、わたしの上に、一粒の涙が落ちてきました。
わたしは必死に尋ねていました。
アンネは、どこ? アンネは、帰ってきたの?
不安と希望に溢れるわたしの目の前に現れたのは、アンネではなく、かつてわたしをお店で買ってくれた、アンネのお父さんでした。
変わり果てたその姿に、わたしは驚きを隠せませんでした。
本当に、あのアンネの大好きだったお父さんなのでしょうか…?
「アンネの日記です。アンネが戻ってきたら、渡そうと思っていました…」
女の人がそう言ってわたしを差し出すと、お父さんは顔を上げました。
その目には、苦しみと痛みが滲んでいました。
その瞬間、わたしは悟りました。希望が粉々に砕けた音がしました。
アンネは、もう帰ってこないのです。
生きて自由の日を迎えることが出来なかったのです。
強制収容所に閉じ込められたまま、
十六歳の誕生日を迎えることもなく、死んでしまったのです。
「アンネ…」
震える声で、お父さんは呟きました。
わたしは、お父さんの手に渡りました。
お父さんは、わたしに書かれたアンネの言葉を大切に読みました。
そのうち、お父さんは泣き出してしまいました。
わたしも、一緒に泣きました。
アンネが帰ってこないなんて、生きられなかったなんて、信じられませんでした…
あんなに、生命力に満ち溢れていた女の子が、命を奪われてしまったなんて。
戦争は終わりました。
悲惨な時代を生き残ったユダヤ人たちは、ようやく権利と自由を取り戻すことが出来ました。
しかし、そこにアンネはいませんでした。
ユダヤ人というだけで生きる権利すらも奪われたアンネは、その希望も夢も、踏みにじられてしまいました。
残ったのは、日記だけでした。
その日記はわたしであり、アンネ自身でもありました。
二年間もの間、ずっと書き綴られたその日記は、アンネの魂の叫びでした。
わたしは、アンネが日記を出版したいと言っていたことを思い出しました。
作家になりたいと夢見ていたアンネの姿が、目に浮かんでくるようでした。
アンネは死んでしまいました。
しかし、その言葉はわたし―日記―の中で生き続けているはずでした。
そこで、わたしは、アンネたちの帰りを待っていた時と同じくらいに、強く願うようになりました。
どうか、アンネの言葉までは死なせないでください。
どうか、わたしの中に書かれたことを世に出してください。
アンネの夢を、たった一つでも叶えてあげてください。
アンネの言葉を、生かしてください。
やがて、わたしや多くの人々の願いは叶うこととなりました。
アンネのお父さんは、長らく悩んだ末に、わたし―アンネの日記―を出版することに決めたのです。
全ては、娘の夢を叶えるためでした。
出版されたわたし―日記は、間もなく、世界中の人々の胸を打つこととなりました。
戦争や差別に苦しめられながらも、明るく前向きに生きたひとりの女の子の姿に、人々は感動せずにはいられなかったのです。
「アンネの日記」は、世界中で最も読まれた日記となりました。
そして、世界的ベストセラーにまでなったのです。
こうして、アンネとわたしの夢は叶ったのでした。
アンネは、作家になることが出来たのです。
『死んでからも生き続けたい』という夢を叶えることが出来たのです。
アンネの命は消えてしまいましたが、言葉はいつまでも生き続け、その言葉と共に、アンネは生き続けるのです―――。
これで、アンネとわたしのものがたりはおしまいです。
わたしは、いつまでも「アンネの日記」として、彼女―アンネのことを伝え続けていきます。これからも、ずっと。
また、あの頃のように語り合える日を夢見て。
〈終〉