それでも、恋
一条くんは「夢だったら困るよ」と答えて、わたしが膨らませたままだったほっぺたを、ぷす、と指先で押して空気を抜いた。
ちょっとだけ、顎と首の境目らへんが痛くなったので、ああ、これは現実だと理解する。
「時間ないんだから、」
「うん」
「あんまり、煽らないでよ」
月と火星と夜をバックに、一条くんが言葉を吐いた。白い息が目に見えて、いまが寒い冬だったことに気づく。だけど、冷静に考えていられたのはそこまでだ。
つぎの瞬間には、ていねいな力加減で抱き寄せられて、ふにゃり、あまいくちびるが重なった。
しっとり柔らかい感覚とか、至近距離にあるきめ細やかな頬とか、すっと伸びた睫毛とか、冷たい風とか。五感のぜんぶが鋭く尖る。
ほんの一瞬で、くちびるが離れた。だから、その行為がいわゆる〝キス〟だと判断できたのは、一条くんが一歩退いた後のこと。
それをキスだと知ったら、どうしようもなく心臓が跳ねた。どうしよう、やばい。
ああ、もう、また、語彙力がなくなる。恋する人間の知能指数はゼロに近いらしい。
「きょうは、ここまで」
「ここ、まで」
「そう、これ以上つづけたら、俺、宇田さんのこと帰せなくなる」
困ったように目を細める、余裕なさそうな一条くんが珍しくて、わたしはその姿を目に焼き付けたくて必死だった。