ひと雫ふた葉 ーprimroseー
そう言っていずみは深々と柴樹に頭を下げる。柴樹は微笑んで会釈し、話の先を促すようにいずみを見た。
「もうひとつは……残念な知らせになるが」
ひとつ間を置き、いずみは雨香麗を見て再び口を開く。
「雨香麗は記憶を失ってしまった」
舞台の下で柴樹の御付きとして控えていた宗徳は、その一言にわずかながら眉を顰める。柴樹はそれを見逃さなったものの、すぐにいずみへ視線を戻し、穏やかに言った。
「そうですか。今回の神憑もそのことで?」
首を重々しく縦に振り、いずみは「お話しは以上になります」と身をかがめた。少しの沈黙の間、晴れ渡った空に羽ばたく小鳥の囀りが響く。
一度目を閉じた柴樹が次に目を開けると、宗徳が声を張って神憑の始まりを告げた。
柴樹の祖父である彦、父である雅久の祝詞に合わせ、巫女導師である瑮花の歌声が祭殿を包み込んだ。
次第に柴樹の瞳はぼんやりと空を映し出し、うつらうつらとした表情になる。それが数分続き、柴樹が口を開いた。
「主は記憶をなくした、と言うたな」
話す声は柴樹のままでも、その口から発せられるのが紛れもなく神の言葉であることは、誰が聞いても明らかだ。
初めて目の当たりにする光景に、いずみが思わず返事を返してしまいそうになる。しかしそれはすぐ宗徳によって止められた。
神憑……神が降りている間は宗巫自身、集中している状態。話しかけてしまえばその集中力は乱れ、神との交信は途絶えてしまう。
いずみは慌てて口を引き結び、神の言葉に耳を傾けた。
「だがそれは真実でない。主の記憶は失ったのではなく、眠っているだけだ」
そこで柴樹はがくん、と頭を垂れてしまった。
客一同はそれに毎度驚いてしまうが、これは神が柴樹の中へ戻って行った合図。宗徳達日凪神社の関係者は皆そのことを知っている。そのため、今日もここで神憑が終わったと思われた。
しかし────。
「それと……」
頭を垂れたまま、柴樹は再度言葉を紡ぐ。
「プリムラ・シネンシス。その花言葉は〝永遠の愛情〟だ」
その言葉に誰もが疑問符を浮かべる中、今までぼんやりと話を聞いていた雨香麗の頬に一筋の涙が流れた。